第8章 欠かせないもの
XANXUSは目を覚ますと、見慣れた天蓋が目に入った。触り慣れたシーツの感覚、匂い、光の入り方ーー見回さなくても自分の部屋だと分かった。何週間ぶりだろう。少し懐かしい感じがする。
何がどうなったんだったか。思い出しやすい所から記憶を辿っていく。
そうだ、ホテルから出て幹部と合流して、それから仕事に身が入らなくて、ヘマをしたんだった。
頭に来る。何かとも言葉にできないが、とにかく腹が立つ。
とは言っても久しぶりに良く寝て、頭はスッキリしていた。
ああでも、やはり寝ても覚めてもテレサの感覚を求める、そして決して手に入らない、この繰り返しにウンザリする脳内のループは、寝て起きても変わらないらしい。
ようやく体を起こして、目線だけで部屋を見回す。右を見ても左を見ても、下を見ても、テレサはいない。
この部屋に帰れば、絶対にいつでもテレサがいた。たいていは横たわって眠っていたが、それで良かった。
髪を撫でて目を覚ました時に、嬉しそうに見上げてくるあの瞳は、何度見ても飽きなかった。どれだけ信頼しているのか知らないが、そういう性分なんだ、あいつは。信じられないくらい、全てを委ねてくる。あの細身で軽い体が、少しの熱を持ってこの腕の中に収まる感覚は、思い返せばさほど不快ではなかったかもしれない。
テレサはここで独りで逝ったのだろうか。あの虚弱で体力の無い体があれだけ痛めつけられて、何日も持つわけもない。
誰よりも孤独を恐れているテレサにとっては、生き地獄だったに違いない。それとも、最後に気を失ったまま、二度と目を覚まさなかったかもしれない。その方が、むしろ不幸中の幸いというものか。
一度でも与えられた物を取り上げられることほどの責苦は無いだろう。最初から与えられなければ、それを知らない世界で生きて、何者でも無い端切れのまま死ぬ方が、よほど楽だったかもしれない。
一度でも孤独から救われたテレサが、手を振り払われて独りで死んでいくのは、どんな気分だったろう。きっとテレサは誰かを恨んだり怒りを持つなんて脳は無いだろうから、ただただ自分を責めながら悲しみの中で眠っていったのだろう。
いつからか分からない。
テレサを見て触れて、ただ自分だけが満足するだけじゃなく、テレサが僅かに感情を覗かせて、ほんの少し喜んだり笑ったりすることが、満足に繋がっていた。抱き締めると脱力して、テレサの軽い重さを腕に感じると、いつもより深く眠れた。どこで変わったとか、明確な境界が無いまま、少しずつそうなっていった。
もうだいぶ前だが、よくテレサは苦しそうな顔で眠っていた。悪い夢を見ているのか、そんな時に髪を撫でてやると少し顔が和らいで、目を覚ますと安心したように微笑んだ。
もし、あと数日早ければ、またそうして、苦しむテレサの髪を撫でてやれただろうか。あれだけの仕打ちを受けても、アホなテレサならそれだけで許しそうで笑えてくる。そうすれば、今頃、いつものようにーー…
ああもう、やめだ。考えても仕方がない。今更、思い出しても無駄だ。代わりなんていないと、探すのさえ無駄だと分かっている。
なんにせよ、この部屋にはもうテレサの欠片すら落ちていないのだから、何の価値も感じない。無意識にテレサを探すたびに、記憶が剥がれ落ちて心に穴が空いていくような感覚がする。
まだ醒め切らない頭のままベッドを抜け出す姿は、まるで何かを求めて彷徨う亡霊のようだ。
タチの悪い酔い方をした後のように、頭がズキズキと痛む。この世界に不快な物しか存在しないかのような、いつか、ずっと抱えていた懐かしい感覚がする。みぞおちに泥が溜まるように、心が重い。
この感覚は懐かしい。なぜだろう。いつもテレサの匂いを肺一杯に満たすと、この泥はスッと溶けていったからだろうか。
失って初めて分かる。いつもテレサに与えてばかりだと思っていた。
失って初めて分かった。テレサから得ていたものの大きさを。自分の中で、テレサという存在がこれほどに大きくなっていたこと、心を埋める存在だったこと。
テレサに初めて拒まれた時に感じたあの感情は、怒りだったのか?
ボンゴレのように、あともう少しで手に入りそうで、決して手に入らないーーテレサもそんな存在になる。
そう考えると、どんな手段を使っても、テレサの心も体も手に入れたかった。
また望む物は手に入らないのか。
なぜ欲しい物に限って、求めれば求めるほど、遠くに行くのだろう。
いや、テレサは違うか。自分で、勝手に壊しただけだ。テレサはーー…
ーー「目が覚めたかあ?XANXUS」
聞き飽きた不快な声が、静かな部屋に響く。
「……カス鮫…」
いつからいたのか、それさえ分からない自分に、やはりまだ回復していないらしいと思った。
「突っ立ってボンヤリしやがって…寝首かかれてえのかぁ!?」
あと一言喋ったら椅子でも投げるか。そう思い、背もたれに手を置いた。
「……それとも、女がいねえと寝ることも出来ねえか?」
スクアーロは挑発的な笑みを浮かべた。完全にからかうような声色に、XANXUSは一気に沸点を振り切った。
「……あ?」
ピリッとした空気に当てられて、流石のスクアーロも少し危機を感じた。
「テメェ……誰のことを言ってる?」
静かにスクアーロを目で捉える。
物を投げない時は、本気でキレている時た。スクアーロは地雷を踏み倒す覚悟で続けた。
「そりゃフリかあ?そんなに聞きたきゃ言ってやるよ。お前のーー」
ーードガッ!
XANXUSが「言え」と言えば、言う奴だ。リング争奪戦の時もそうだった。
その唇がテレサの名前を発音する前に、XANXUSは鉄脚の椅子を投げた。
「ッいってえぇ!!クソッ、なにしやがる!!」
床に倒れたスクアーロに追い討ちをかけるように、ローテーブルを投げた。
「ぐえっ!!投げるサイズじゃねえ物を投げるなあ!!!」
スクアーロが起き上がると同時に、胸ぐらを掴んで睨み付ける。
「二度とその名を言うんじゃねえ」
「ッ…!」
流石の気迫に、スクアーロは一瞬言葉を詰まらせた。ただし、一瞬だけ。
「……うるせぇよ。ポンコツのお前に用は…ねえんだよ!!!」
ーーボカッ
スクアーロの拳がXANXUSの眉間に命中した。
これを受けるとは、やはりXANXUSは重症かもしれない、とスクアーロは内心思った。
こうなれば、もうどうにでもなれ。普段の恨みを晴らすように、XANXUSの腕を掴むと、外に向かって思い切り投げ付けた。
「テメェが惚れた女くらい……テメェで守りやがれ!!!」
ーーバリーン!
大きな窓を破って、外に放り出された体は、そのまま向こうの建物に衝突した。
「ハッ!ざまあーみろ、XANXUS!!」
もう自身の目的を忘れかけて恨みを晴らしただけのスクアーロは、割れた窓から吹っ飛ばされたXANXUSを眺めて笑った。
「…あ、」
そして気付いた。偶然にも、投げ飛ばした先に、テレサがいることに。本当に、偶然なことに。
テレサはベッドの上に座って、月を見ていた。壁に背をもたれて、体は熱を持って怠かった。頭がぼーっとして、目を開けられない。何時間か前にリラが用意してくれた薬を飲んだけれど、熱が下がり切らないのか、冷たい壁に背中をつけると少し気持ち良かった。
そういえば、最近は体調が安定していたから、こうして具合が悪いのはなんだか少し懐かしい。
こんなときはいつもあの人を呆れさせてしまったけれど、いつも通り隣に寝て抱き締めて、髪を撫でてくれるとすごく安心した。
「………寒い……」
懐かしい。そうだ、独りは寒いんだった。
少しでもあの人の温もりを思い出すように、自分の体を抱きしめるように腕をさすってみる。でも、余計に物悲しくなってしまう。
あの人の体は暖かくて大きくて、抱きしめられると酷く安心する。自然と体の力が抜けて、全て委ねてしまう。
私、あの時間が大好きなの。ほんとうは、また戻りたい。また、あの人の腕の中で眠りたい。寒くて寂しくて怖くて、独りは嫌なの。
きっと、そんなことだから、あの人に嫌われていたのね。私、そんなことにも気付かないで、本当にごめんなさい。
私、いつの間にか、本当に知らないうちに、酷い勘違いをしてしまっていたのね。最初は分かっていたのに。あの人が、私なんかを特別に想ってくれるはず無いって、ちゃんと分かっていたのに…。
いつの間にか、もしかして愛されているんじゃないかって、思っていたの。知らないうちに、心の底からそう信じるようになっていたの。
ねえ、あなたは覚えているかしら…。私に言ってくれたーーーー私の心も体も血も、穢れてなんかいないって。「そんなことどうでもいい」って言ったの。
私、その言葉がほんとうに嬉しくて嬉しくて、あのとき泣いてしまったの。今でも、思い出すと心が暖かくなって、胸がいっぱいになって泣きそうになるくらい、大事な言葉。
何度も思い返すたびに、いつの間にか、ほんとうにそう信じ込むようになっていて。そうしたら、あなたの隣に居ることが、心の底から幸せに感じられたの。
こんな私だけど、あなたの側に居ても良いのかもって、少しだけ信じてみたら、いつもなんだか悲しかった心の中が、少しずつ変わっていった。どんな気持ちかは言葉にできないけれど、とても大切で、大好きな感覚。
きっと、あなたを愛していたんだと思う。心の底から、あなただけ。
失うことって、こんなにも辛いのね。
一度でも幸せになってしまったら、元に戻るのって、すごく苦しいのね。
あなたがくれた言葉も時間も気持ちも、全て大好きな宝物。たとえそれが全て嘘でも、私の中に生まれた感情だけは本当だから。
だから、最後まで笑っていたかったのに、あんなにたくさん泣いてしまってごめんなさい。すごく久しぶりで、我慢もできなくて。
初めて気付いたの。ずっと、あなたが守ってくれていたって。だから泣くのが懐かしく感じたんだって…。
私、奪うことしかできなかった。
あなたが何かを抱えていること、気付いていたのに。それが何かは私には分からないけれど、怒りだけじゃないこと、少し分かるの。
あなたはこんなにも私を変えてくれたのに。私はあなたのこと、何も知らない。いつもそうね。私のこと、何でも分かってくれる。私以上に、私のことを分かってくれる。私はいつも余裕が無くて、何も考えられないのに。
私なんかが、何か出来るとは思っていない。でも、あなたの夜が明けること、いつでも祈っている。
余計なことよね。誰でも良い、何でも良い…どうか少しでも、あなたの闇を照らせる人と、出逢えますように。
あなたが私を救ってくれたように。あなたが、いつか運命の人と巡り会えるように。
「………ふふ…」
こんな時になっても、あなたの幸せを思うと、笑顔になれる。
いつもそうだったの。今どこで、何をしているんだろうって、考えるだけでなんだか楽しくて、幸せな気持ちになって…。もう一度、あの頃に戻りたくなる。
あなたの隣で、眠るのが大好き。いつでも守ってくれた。頬を撫でて、涙を拭ってくれた。
私、ちゃんと気付いているの。いつも、まるで初めて触れ合うときみたいに、小さくて優しいキスから初めてくれること…。いつでも少し不機嫌な顔をしていたけれど。
あなたといると、すごく安心する。一番大好きな場所。もう二度と、あなたの隣には戻れないと思うと、すごく悲しい。あなたのことが、大好き…。
ほんとうは、もっとあなたと一緒にいたい。あなたの隣で笑っていたい。私があなたを愛しているように、私も、あなたのかけがえのない存在になりたかったの。
私ってよくばりね。特別になりたいなんて、思うようになっていたこと、気付かなかった。あなたから貰ってばかりで、私は何も出来ないのに。
きっと、あなたがいつか、素敵な誰かと出逢えますように。あなたの心を埋めて、傷を癒してくれる誰かと、どうか巡り会って。
本当は少し悲しいけれど。あなたの未来に私がいないこと、涙が出るほど悲しいけれど。
でも、それでも良いの。あなたがそれを望むなら、それで良いの、それが良いの。私がいない世界が、正解だと思うの。それがあなたの幸せなら、それで…。
「………」
泣き疲れたのか、また少し眠くなってきた。もう何日、まともに食べていない。呼吸をするのも苦しいくらいで、もう体温を維持する力も無いのだろう。暑いのか寒いのか分からなくなってきて、目を瞑ると嫌な感覚がした。
本当にこれで最後な気がして。あの懐かしい温もりを思い出しながら、意識がだんだん崩れ落ちていく。
ーーその時、外でバリンとガラスが割れるような音と、それに続いて、ドカンと壁の壊れる轟音。
その音を水の中で聴いているかのような、曇った大きな音としてテレサの耳に届いて、意識は少し浮上した。それでも目を開けられずにいた。
「……クッソ鮫が……ぜってぇかっ消し、…て………」
毒を吐きながらも無理やり体を起こす。そこで視界の端に入る、見慣れた薄桃色ーー…
目を閉じて壁に背を預け、ベッドに座っている、その姿は…
「……………………テレサ………」
見間違えるはずがない。嫌になるほど瞼の裏に蘇り、文字通り夢にまで見たその姿。夢の中では、起きて喋っていたが…
遠目には死んでいるようにさえ見える。青白い月光に包まれているから余計にか。
信じられない気持ちで、近づく。
もう手を伸ばせば触れるくらいになると、わずかにその胸が呼吸で動いているのが分かった。
「……………テレサ」
小さく名前を呼んだ。目を開けることはなかった。
俺はスクアーロに投げられて死んだのか?とXANXUSは思考がフリーズした。
テレサが天国から迎えに来たのか、ここがすでに死後の世界なのか。
変な話だ。
柔らかな月明かりに包まれたテレサはまるで天使のようで。天国になんて行けるわけがないのに、まるで天国から迎えに来た天使のようで。まさか地獄にまで着いてくるつもりなのか。それか幽霊か、幻覚か、走馬灯か、呪いにでも来たのか?
まさか透けていないだろうが、そっと肩に手を触れる。
指先が当たる。確かに触れる。
「………生きてるのか…」
たかが数週間の出来事なのに、もう何年振りに触れたような感覚で、けれど体は確かにテレサの全てを覚えていて、懐かしいテレサの香りと、肌の感触がじんわりと五感に染み入って、なんだか魂の片割れと再会したかのような、安堵に近い感覚が生まれた。
ここは現世で、目の前にはテレサが居て、生きている。
頬を手で包む。
眠る顔はまるで人形のようで、体温を感じるとようやく生きていると確信する。
「テレサ」
別に目が覚めると思っていない。
それでも良いから、名前を呼びたい。
背中に手を回して抱き寄せる。
少しも力の入っていない体は、簡単に腕の中に閉じ込めることができた。
テレサの香りだ。この瞬間をどんなに求めたことか。
冷たい体を温めるように腕をさする。潤んで吸い付くような肌は、まるで求められているようにさえ感じる。
早く声が聞きたい。五感をテレサで埋めたい。早く、早くーー…
「……冷てえ」
はやる気持ちの中、ようやくその体温の低さに気付いた。まるで死にゆく体のように冷たくて、終わりに向かうように薄い呼吸。
寝ているというより、目を覚ますことも出来ないほど弱っているのだろう。
夢心地から目覚めるように現実に戻されると、その体を温めるようにしっかりと抱き締めて、足早にその小屋を後にした。