第8章 欠かせないもの
XANXUSは出先のホテルで浴びるように酒を飲んでいた。イライラは少し収まったが、テレサの名前も忘れ去りたくて、娼婦を呼んだ。
テレサ以外の女と交わるのは、一体いつぶりだろう。名前も忘れかけたあの女と最後に会ったのは、もう半年は前かもしれない。
いつしか、テレサだけで事足りるようになってしまっていた。以前は物足りなくてよくこの女を使っていたのだ。久しぶりに会うその女は、少し緊張したような面持ちだったが、変わらない懐かしい香水の匂いがした。
少しだけ視線を交わして、女の髪を撫でるように頭に手を添える。静かに唇を重ね、数回バードキスを交わす。
女は内心困惑していた。何度となく体を重ねてきて、それなのに、一度としてXANXUSからキスされたことは無かった。自分からすることはあっても。
それに、なんて意外なんだろう。こんなにも優しいキスをするなんて、誰が想像しただろう。頭を撫でるように抱擁して、まるで繊細なガラス細工を扱うかのような力加減で、ゆっくりと。
いったい、誰と間違えているんだろうーーつい、そう思ってしまうかのような。
「んっ……XANXUS様…」
女はXANXUSの首に腕を回す。こんなに優しいキスをされたら、きっと誰だって勘違いしてしまうだろう。
XANXUSも拒みはせずに、一段と深く唇を重ねた。
しかし、ふと頭に浮かぶテレサの姿に、薄く目を開けた。
思い返せば、テレサは何回キスしても慣れなくて、いつもいつも、まるで初めて口付けされるかのように緊張していた。息を吸うタイミングを与えないとすぐに苦しくなるから、最初は離しながら啄んで。何回やっても頭が真っ白になるのか、上手くキスを受けられないあの要領の悪さは、今になって思い返せば笑えてくるほどだ。
舌を絡ませるのも、結局最後までマトモに出来なかった。それでもテレサにとっては精一杯に、注がれる唾液を飲み込んで、応えようとはしていたらしい。今考えてみれば、そんなテレサの姿はなぜか唆られるものがあった。後になって考えればの話だ。
今、目の前の女が器用に舌を絡ませて、体を擦り寄せてくるのになぜか少し気持ちが白けて、初めて分かった。いつまでも不器用で幼稚なテレサに呆れて、諦めてやっていただけと思っていたのが、案外そんな姿を見るのは、楽しかったかもしれない。
「、……」
テレサ、と、癖で言いかけて、つい唇を離した。目の前に映るのは別の女だ。この女の名前は何だったか。2、3秒のうちに思い出して、その名を口にする。
「……ローラ」
「…!」
数年の付き合いがあるのに、きっと初めて名前を呼んだ。いったいどんな気紛れなのか心変わりなのか、ローラは一瞬戸惑ったが、途端に嬉しいような幸福感が湧き上がった。
「……XANXUS様」
ローラは、今度は自分から唇を重ねた。ふと足が浮いて、XANXUSに抱き上げられたのに気づいた。
ずいぶん慣れているようで、体が浮いているのに痛くも怖くもなくて、むしろ少し安心するような。まるで、どこかの国のお姫様みたいな気分になる。ロマンチックな気分になって、つい抱きついて頬にキスをした。
ベッドに降ろされると、頬に手を添えてキスをして、首筋、鎖骨とゆっくり撫で下ろしながら、やがて服を脱がされる。
こんなこと今まで無かったのに。よほど気分が乗っている時じゃないと、XANXUSが自ら動くなんて無かったのに。
「(……そういえば、"あの人"は今日はいないのかしら)」
いつものあの桃色の髪の女性も、てっきり寝室にいるのかと思っていた。以前よくあったように、その人の埋め合わせで呼ばれたのだと思っていた。
会話を交わしたことはないけれど、その人は目を覚ますなり自分が邪魔者だと思って部屋を出ようとするから、遠慮がちな人だという印象はあった。
ほとんど横になっている所しか見たことがないけれど、何度か盗み見たあの人の素顔は、今まで会ったどんな人より美しかった。もはや羨望も劣等感も感じる余地も無いほどに。
名前は確か、テレサと呼ばれていたと思う。XANXUSも他人の名を呼ぶんだと、衝撃を受けた記憶がある。
「(………溶けそう……)」
XANXUSの指が肌を撫でて、そっとキスをされるたび、脳の中で甘い涎が垂れるように、悦びを感じた。
それはまるで、花びらが落ちないように繊細な小花を愛でるかのような手つきで。
「(……こんなに優しく触れてくれるなんて、知らなかった……)」
誘うようにXANXUSを抱き寄せて、心地良さについ目を閉じた。下に硬いものが当たって、ゆっくりと中に入ってくる。奥に当たると、キスをしながら少し止まって、緩く動き出す。
「んん…あ、ぁ……」
「……ローラ」
耳元で名前を呟いて、髪を撫でる。
テレサにするのと同じ力加減で。忘れるためにあえて同じやり方で他の女を抱いていると、少しは瞼の裏に浮かぶテレサの記憶が薄れてきたような気がする。テレサとは違う声や反応が返ってくるおかげもあるだろう。
忘れるなんて簡単なことだ。
上書きして忘れ去るまで、他の女を抱けば良い。
簡単なことだ。テレサ以上に難解な女はいないのだから。何も抵抗しないくせに、本当は要望が多くて、贅沢で我儘で、そのくせ何を考えているかわからなくて、少しでも加減を間違えるといつの間にか静かに泣いている。
しかも厄介なことに、人一倍感度が良くて、体力も無い。いや感度というのか、我慢をしないというか、耐えようという気がさらさら無いと言うのが正しいだろうか。
骨格が華奢なせいで中も狭くて、何度体を重ねても挿れるたび中が一杯になる。顔が見えないと不安になるのか、正常位しか受け付けないし、最後は一緒に絶頂を迎えたいとか面倒な注文を付けるし、不満を挙げればキリが無い。
ここ最近はそれにも慣れて、泣くまで追い込むことは無くなっていたが、もともと特別意地の悪いことをしているわけではない。むしろ、今までに無いくらい壊れ物のように扱ってきた。テレサは、自分がどれだけ特別扱いされてきたか、何も分かっていない。
それでも何度抱いても、生娘のように震えて、羞恥に顔を赤くする。考えれば考えるほどあの鈍感さにイライラしてくる。あの無自覚で鈍感で不器用で虚弱で贅沢な女を壊さずに抱くことができる男が、他にいるか?
……ああ、またテレサのことを思い出していた。ありとあらゆる暴言が混ざっていたとしても。
思い返せば、実情は傲慢な奴だ。与えられることしか知らない。テレサが自分から何か与えようとしたことがあっただろうか?それどころか、気付かれるのを待つばかりで、何か欲しいと伝えたことさえ無いのではないか?
プライドが無いのか、余裕が無いのか、感じているのを隠そうという気もハナから無いのか、与えられるがままに鳴くだけで。
ただ一人の男しか知らない初心な体は、心も体も、その一人のために仕込まれただけに思い通りで、テレサのことは本人よりもずっと理解している。その分かりやすくて単純な体は面白いくらいだ。それでも当の本人は必死なようで、その小さな体で精一杯に受け止めて、気持ち良くて泣いたり縋ったりするのは、ある種の欲が満たされる感覚があった。
良いように言えば素直なのか、いや、テレサの場合はただアホなだけか。だからこそなのか、嘘だけは付かない性分だったか。だからこそ、疑うことも知らない。
今までの全てが嘘だと、愛だ何だと気色の悪い物は存在しないと言った時の傷付いた顔を見れば、テレサがどれほど単純に純粋に、信頼していたか分かる。
最後まで何もかも下手な奴だった。咥えようにも結局、口が小さくて先端だけしか入らなくて、一度に二つのことを出来ないのか舌を動かせば手が止まるし、よく痺れを切らさず教えたものだ。犬のように頭を撫でれば少し嬉しそうな顔をしたが、そうすると逆に頑張ろうとするのか奥に入ってえずくのを何度も繰り返して、本当に馬鹿なのかと思った。
柔らかな舌の上に精を吐きだすと、それだけは溢さずに何度か喉を鳴らして飲み干した。結局あの控えめで優しい手つきに慣れてしまったのはこっちの方で、気紛れに延々と舐めさせても飽きなかった。退屈に感じてもおかしくないはずなのに。
そういえば意識が蕩け切った時には、たまに、本当にたまに、自分から手を伸ばすことがあった。
テレサの指が肩や胸板に触れて、その指先は微かに震えていて、きっとテレサにとっては、勇気の要る行動なのだろう。数えきれないほどキスをして、抱きしめて、心も体も交わって、ようやくそれだ。やはり、世界で一番贅沢な女だったに違いない。自分をどこぞの姫か何かと勘違いしていたんじゃないか。いや、そんな扱いをして勘違いさせたのは自分なのか?
「(…………いや、アイツが勝手に勘違いを……、)」
XANXUSは現実に引き戻されたようにハッとした。油断すると、つらつらとテレサのことを考えてしまう。どんなに忘れたくても。
この女の声や体が、どこかしっくり来ないせいかもしれない。続けていれば慣れるだろうか。
そういえば、なぜかテレサのあらゆるものが良く手に馴染んだ。形も質感も、重さもサイズも、なぜか全てが収まりが良くて、それだけは代わりを探すのは無理かもしれない。
妙な色の髪も、海のような瞳も、見慣れてしまえば目に馴染んでしまった。むしろ、近くで見たり光に透かしてみたりすると色味が変わるから飽きもせずに遊ぶ時間があったくらいだ。あの体だけは離れるのが惜しいと認めてやっても良い。
「(………殺すのは……まだ早かったか)」
別に心が壊れていても、体だけの目的で、側に置いておくのでも良かったかもしれない。
他の女を抱いて分かる。性格には難ありとしても、体の相性だけは良かったらしい。それに、テレサ以上に美しい物には、今後出逢えないだろう。
あんな性格でも容姿は抜きん出ていたし、あの控えめな楽器のような声も、啜り泣くように潤んだ体も、抱きしめた時に肌から香る匂いも、悪くはなかった。
触れていると少しだけ上がる体温も、どきどきと胸から伝わる鼓動も、キスだけで潤む瞳も、テレサがどれだけ少女のように純真な心で、ただ一人に恋しているかと伝えていた。
臆病なくせに、吸い込まれるような青い瞳で見詰めてくる。いつからか目を逸らすことも無くなって、感情を隠したり、変に自分を抑え込むこともしなくなった。
今は嬉しいとか幸せだとか、表情を見れば一瞬で分かる。見間違えるように、いつでも幸せそうな顔をするようになった。本当に、いつの間にかそうなっていた。時間をかけて毎日少しずつ、分からないくらい少しずつ変わっていったのだろう。
「(………アイツは変わったのか)」
何も出来ない、変わることも出来ない、与えられるだけの存在だと思っていた。
しかし思い返せば、知らないうちにずいぶん変わったかもしれない。
たまには自分から話しかけてきたり、本当にたまには体を寄せてきたり。それに、撫でたりキスしたりすると、照れて嬉しそうな顔をする。あれほど血に縛られていたテレサでも、素直に愛でられることは出来るようになったのだ。
「(……アイツは俺を………)」
ーー信頼していたんだろう。
血統に拘らないことを。
なにより、テレサ自身が言っていたではないか。「愛されている」と、信じ始めていた、信じていたんだろう。
そういえば、馬鹿みたいに眠ることも最近は無かった気がする。抱き潰した後は目を瞑るとして、普段の生活の中で、以前のように夜も昼も異常に長く眠ることはなくなった。テレサにとって、夢の中より現実の方が居心地が良くなったのだろうか。
なにかにつけて泣いてばかりだったのも、そういえばしばらく泣くところを見ていない気がする。別に、まじまじと観察しているわけではないから正確には知らないが。
それどころか、最近はどことなく微笑んでいるような、いつでもどこか嬉しそうな眼をしていた気さえする。なぜだろうか、隣に居るテレサは、心の底から安心していて、信頼されていると雰囲気で伝わる。
信じられない所業だ。
どんな単純な精神構造だったら、他人を心から信頼できるのだろう。
なんだか先を越された気分だ。自分の中の時間は、まだボンゴレに裏切られた時のままなのだから。
全てが嘘だったことへの怒り。自分以外の存在への不信感と嫌悪感。それらは生涯、消えることは無いだろう。
「(クソ……うぜぇ)」
今気づいて何になる?
テレサが微笑んで、いつでも安心している。そんなテレサに満足している自分がいたことが、我ながら信じられない。
今更、テレサから"なにか"を得ていたことに気付いても、もう二度とテレサを抱くことも、声を聞くことも、触れることも無いのだから。思い出しても仕方ない。
頭では分かっていても、テレサの鈴のような嬌声や、体を震わせて達する姿を目の前の女に重ねて、ようやく気分が少し上がったのが事実だ。
今までにないほど、泣きじゃくるテレサを思い出す。「愛なんてものは存在しない」と突き放した時の、テレサの瞳が空っぽに抜け落ちる様を思い出す。
ようやく取り戻したテレサの心が壊れる音が、耳の奥で鳴り止まない。
愛なんて無い。必要無いーーその考えは変わらない。なら、テレサに感じるこの感情は何だ?
テレサに触れたい、声を聞きたい、抱いて抱きしめて、あの青い瞳を見詰めたい。テレサの物言う瞳と交わるだけで良い。テレサが心の底から、ただ一人の男を想っていることが分かる、あの瞳を。テレサからしか得られない、あの心が満ちる感覚を、もう一度味わいたい。
分からない。テレサに触れられた時の、あの一瞬心が震えるような感覚は、一体何だ?
そういえば、アイツは最後まで手を差し伸べて、何か伝えていたような。
テレサの骨が軋む感覚が手に蘇る。伸ばされた腕を掴んで、細い腕に力を込めた。あんなに大切に扱ってきたものを。
涙も枯れたのか、泣きもせずに。感覚も抜け落ちたのか、痛いような顔もせずに、何かを言った。波に飲まれて消えそうなほど儚い声で、最期はあんな自分さえ受け入れようとした。
頭に来る。
テレサに出逢わなければ。最初から与えられなければ、失うことも無いのだから。
知ってしまったら、元には戻れないのだ。単純に、テレサのいない世界に帰ってきたという話じゃない。"テレサを知っている自分で、テレサのいない世界に戻った"のだ。
ああ、頭に来る。
一度、手に入ったと見せかけて、どうせいなくなる。ボンゴレも、全てがそうだ、どうせテレサもーー
もうこんなこと、考えたくない。
死んだテレサの呪いか?
一寸先には、底の無い喪失感があるような気がする。その穴に落ちるのは時間の問題で、それはいつだろうか。本当にテレサがこの世界から居なくなったと自覚する時だろうか。
考えてしまうのは、心のどこかでテレサがまだ生きて居ると思っているからか?城に戻れば、いつものようにテレサの髪を撫でて、抱き締めて眠ることができる気がしている。
今更だ。時間が戻るわけじゃない。
でももしも、やり直せるとしたら、今度は……言わない言葉があるし、手も出さないかもしれない。
……今更、忘れてしまうことも出来ないなら、それこそ本当にテレサの呪いかもしれないーーーー…
もう何時間経ったのか、娼婦も抱き潰してしまった。次の女を呼んでも良いが、香水の匂いが鼻に残って気分が悪い。
それに、満たされた感覚が無い。欲は吐き出したはずなのに。
いつもはテレサを抱きしめると自然と眠気がやって来た。体温と厚みがあれば誰でも良いと思っていたが、何かが違う。
五感に蘇るのは全てテレサの感覚だ。二度と手にすることはできない。それはボンゴレのように、奪うことも壊すことすら出来ない、もう存在しないもの。
もういい。どうせ、堂々巡りにテレサのことを考えるだけだ。もう、うんざりだ。当分は女を抱きたくない。
XANXUSは頭の中で糸が絡まったまま、寝落ちするつもりでソファに横になった。
珍しく夢を見た。
XANXUSは気付くと白い砂の上に立っていた。目の前には海が広がり、静かな波音だけが響いていた。その海の前には、誰かが佇んでいる。
見慣れた後ろ姿だ。腰まで伸びた桃色の髪に、月明かりに浮くような白い肌。ドレスのような白いワンピースの裾が風に揺れる。どこに行くでもなく、立ち尽くしている。
「…テレサ」
声が届いたのか、テレサは俯いた顔を上げて、そして振り向いた。
テレサはXANXUSの顔を見ると、驚いたような顔で息を呑んだ。そして嬉しそうに穏やかな笑みを浮かべた。でもどこか寂しげで泣きそうな瞳だった。
XANXUSはそんなテレサに歩みを寄せた。なんだか、こんなに近くでテレサを見るのが酷く久しぶりな気がする。それに、テレサを探してずいぶん遠くからここまで来たと思う。でもその感覚の理由はわからない。
テレサは素足で、その足元を優しい波が押したり引いたりしている。またいつかのように、波に攫われて転ぶハメになるのだから、早くこちらへ来い、と手を伸ばしたときーー
ーーとん、
テレサは自分からXANXUSの胸に飛び込んだ。
そしてXANXUSを見上げると、微笑んだまま口を開いた。
「………XANXUS様、…私を探して、ここまで……?」
何のためにどうやってここに来たのか、今まで何をしていたか、何も思い出せないが、自分の直感を信じるならそうなのだろうと思った。
「…ああ」
「…………嬉しい。もう、二度と来てくれないと思って…いました」
テレサは本当に嬉しそうに微笑みながらも、瞳には涙が薄く浮かんだ。
XANXUSはそのテレサの言葉に疑問を抱きながらも、その背に手を回し、軽く抱き寄せた。
テレサの首元の髪に手を透かして、髪を撫でながら耳にかけた。懐かしい匂いがほのかに広がる。テレサもそれが気持ち良さそうに目を瞑って、XANXUSの手に頬を寄せた。
「(……そういえば、時々こんな仕草をしたな、あいつは)」
何故だろう。いつでも、テレサに触れるだけで満たされる心地がするのは。
テレサの女神のような微笑みが、鈴のような声が、桃のような芳香が、少女のような心や仕草が。テレサの総てが、XANXUSの渇きを癒し、満たされない心を埋めた。
何故だか、遠い昔の話だった気がする。何故だろう、何かを忘れている気がする。何故こんなにも、久しぶりに触れたのだろう。
その答えなんてどうでも良くなるほど、テレサの声や匂いが心地良くて、深く考えることができなかった。
「………XANXUS様」
「…なんだ」
XANXUSの思考を遮るように、テレサが小さく言う。腕の中でXANXUSを見上げて、じっと目を見つめながら。
「…………ずっと伝えたかったこと……言っても……良いですか………?」
「あ?……好きにしろ、そんなこと」
「……ふふっ」
そよ風に揺れる小花のようなテレサの笑い声が、耳に心地良い。楽しそうに微笑む顔は女神のようで、本当に綺麗だと思った。
「………あなたのことが、大好き」
ぴっとりと胸元に頬を寄せながら、少し声を震わせる。
テレサがそれを言葉にするのは初めてだろう。"言葉に"するのは。
「…….知ってる」
「…………気付いて、一緒にいてくれたんですか……?」
「あ?……うるせぇよ」
思いがけず足元を掬われた気がして、乱雑に会話を切った。
「……私は………私は、気付けなくてごめんなさい。XANXUS様の……本当の気持ち」
途端にテレサの瞳に悲しげな影が落ちて、何かに堪えるような顔をした。
言葉の意味はよく分からないが、テレサのそういう顔を見るのは久しぶりのような、そんな気がする。
「……めんどくせぇから泣くなよ」
頬を包むように撫でる。テレサは涙を堪えて瞳を濡らして、寂しげな目でXANXUSを見上げた。
「………いつもみたいに、わがまま…聞いてくれますか……?」
「…泣かなかった褒美に聞いてやる」
テレサにも自覚があったとは意外で、少し笑えた。何かにつけて態度と瞳で注文を付けたり文句を垂れたり、本当は我儘で贅沢な女だと、XANXUSはとうの昔に気付いている。
「………………私のこと、忘れてください」
珍しく、テレサの方から何を言い出すのかと思えば、泣きそうに微笑みながら零れたのはそんな言葉だった。
理解ができないまま顔を顰めるXANXUSに、テレサは言葉を続けた。
「………あなたに、あんな姿……見せたくないの……」
テレサは影のある瞳を伏せると、ぽろぽろと涙の粒が溢れ出た。
「……何の話だ?」
あんな姿?
一体何の話をしているのか、なぜ泣いているのか、XANXUSには理解ができなかった。
「……あなたの前では、ずっと、…………幸せな女の子でいたいから……」
テレサは泣きながら、XANXUSの胸に頭を寄せて言った。
そんなことわざわざ言わなくても、とうの昔から、テレサはーー
「……お前は、………俺の…」
テレサはどこか期待するような目でXANXUSを見上げた。続きを待っているのだろうか。
しかし、XANXUSの唇がいつまでも動かないのを見て、また俯いてしまった。まるで何かの時間に追われているような、少し焦っているような気がした。
「最期に………キスして…」
ーー最後?
何の話だ。XANXUSは意味が分からなかった。
ただ、テレサの涙を止めようと目元の粒を拭った。
「……ありがとうございます…」
泣きながら、にこりと微笑む。
キスは出来なかった。キスしたら、それが最後になると直感した。
テレサは諦めたのか、瞳を閉じた。
「………私から終わりにするから……私のこと、……どうか赦してください」
XANXUSが目を見開く。テレサの髪が、先の方から白い砂となっていくのだ。
テレサの体を強く抱き締めたその瞬間、その体は灰のような砂となって跡形も無くなった。
ーー「テレサ!!」
XANXUSはバッと起き上がった。
テレサの背を抱き締めた手は、すり抜けたように自分の胸に当たる。嫌な汗が流れる。乱れた呼吸を整えると、自分がどこにいるのかようやく思い出した。悪夢を見ていたようだ。
「最後」「さようなら」
泣きながら笑うテレサの顔が頭から離れない。声も匂いも触り心地も、全て五感が覚えていたようだ。
夢の中のテレサにしたように、頬に手を添える仕草を空に向かってしてみる。
テレサは微笑んで頬を寄せてーーあれは確かそうだ、初めてテレサと体を重ねた時に。
ーー「……………私の初めて、……ぜんぶXANXUS様のために…あるから………」
あの時のテレサの声が、ひとつも形を変えず耳の中で響いた。あの時XANXUSの手に伝った涙の温度も、それが一瞬のうちに冷めていく感覚も、克明に覚えている。
本当にその通りだった。テレサの初めては、全てXANXUSのものだった。キスも手を繋ぐのも、体に心に触れるのも。
テレサが微笑むのも、少女のように頬を染めるのも、どんな表情もXANXUSにだけ向けられる物だった。
ーー「……………私、今まで……気付かなくて、ごめんなさい……本当は、……………愛されてなかったって…………」
頬に手を添えて。テレサはそう言った。すり寄るのではなく、痛みに逃げるように顔を背けて。
「……!!」
思わず、空にかざした手を握りしめる。
そうだ、もう、テレサの心は壊れたんだ。壊したんだ。もう二度と、テレサの恋を受け取ることはないし、テレサから愛されることはない。
砕けた鏡は二度と元には戻らない。そもそも、あの部屋に閉じ込めてもう何日経った?生きているはずがない。もうテレサは死んだんだ。
記憶を振り払うように寝返りを打つ。とにかく眠ろうと目を瞑った。
ーー「……………………あなた、だけは………………」
テレサの傷ついた顔が瞼の裏に浮かぶ。
こんなことの繰り返しで、この数日まともに寝れていない。
ーー「………あなたのことが大好き。」
夢の中のテレサでさえ、もう少しはまともな顔が出来るというのに。
今のXANXUSの脳裏に浮かぶテレサはどれも、傷付いて、絶望して、濁った瞳から涙が溢れる。
夢の中のテレサが言った"あんな姿"にさせたのは自分だ。
いつでも幸せそうに、蕩けた瞳で悦びを感じてーーそれが一番テレサには似合うはずで。いつでもテレサは、穢れた存在とは正反対の、何よりも清らかで美しい女だった。
とにかく眠らなくては。
眠ったらまた、夢の中でテレサが会いに来るだろうか。
いや、俺が会いに行ったんだったか。どちらでもいいか、テレサに会えるなら。
今なら、テレサがやけに眠りこけていた理由が分かる気がする。あいつは、夢の中で誰かに会うために眠っていたんだろう。その誰かは、言うまでもなく。
ああ、テレサに触れたい。
テレサを抱いて眠りたい。
髪を撫でて、キスしたい。
テレサが眠っていても良い。
触れていることを知らなくても良い。
どうせ今までだって、眠っている間に自分がどれだけ愛の跡を落とされているか、テレサは知らないのだから。
泣いているテレサを、他の誰が抱き締めてやれるだろう?
あんなにも独りを恐れているテレサを、他の誰が…
眠いのに眠れない。記憶の中のテレサが眠らせない。
XANXUSは眠ることを諦めると、静かに起き上がった。もうすぐ幹部と落ち合う時間だ。いや、実はもう過ぎているが、いつものことだ。スクアーロが良い具合にまとめているだろう。
ああ、足が重い。いつにも増してやる気が出ない。それでも夢の中で燻っているよりマシか。
「………めんどくせぇ」
XANXUSはコートを羽織りもせずに手に持ったまま、部屋を出た。
その夜、ヴァリアーの幹部が城に戻ったのは予定よりずいぶん遅い時間だった。
リラは迎えの支度をして待っていたが、出来ればXANXUSに鉢合わせしたくない、と祈るばかりだった。XANXUSの鋭いカンを掻い潜れる自信は全く無かった。きっと目が合ったら全てがバレるだろう。
遠くから早足に鳴らす足音が聞こえた時、嫌な予感がした。
ーーが。城の廊下を歩く銀髪は、闇の中でも一目で分かる、スクアーロだった。
そしてその肩に無造作に担がれるのはーーXANXUSだった。
「う"おぉ"い!!そこのメイド!!今すぐボスの部屋に医者の手配をしろぉ!!!」
「は、はい」
つかつかとリラの横を通り過ぎる。
「ったくふざけてやがるぜぇ!!上の空ってレベルじゃねえぞお!!寝てるボスさんの方がまだマシな動きをーー……」
スクアーロは大声で、ここぞとばかりに気絶するXANXUSに怒鳴り散らしながら遠くのXANXUSの自室の方へ消えていった。
なんて珍しいことだ。もう何年もここに勤めていて、スクアーロがXANXUSを運び込むなんてこと、一度も無かった。なんてことだ。と、リラは一瞬フリーズしてしまったが、これも不幸中の幸い、さすがは悪運の強い自分なだけある。と思い直して、医務室に走った。
リラはXANXUSの寝室で、医者が処置をした後片付けをしつつ、なにかと忙しく歩き回っていた。
部屋にはベッドに横たわるXANXUSと、スクアーロの3人のみ。空気が重くて重くて、早く逃げ出したかった。しかし、リラ以外に空いているメイドは3歳下の新入りのみ。緊張で泣き出しそうな顔をされたら、リラが対応に当たるしかなかったのだ。
「………うぉ"い」
「…はい」
リラはドキッとして、必死にそれを隠すように真顔を作った。
「お前、一番XANXUSの給仕に当たってるメイドだなぁ?」
「…はい」
「……テレサはどうしたあ?」
「…!」
ーークソが、コイツもか。
リラは内心毒を吐いた。口の悪いヴァリアーで生きるうちに、リラもそうなってしまったらしい。
XANXUSだけ警戒していた。失念していたが、スクアーロもアホに見えて相当頭が切れる。
「……テレサ様は……もう、……」
死んだから、片付けたことにする?
ーーいや、城内で死体が上がれば、幹部に報告が上がらないわけがない。
ああもう、どうにでもなれ。リラはゴチャゴチャ考えるのはやめて、開き直ってしまえと思った。
「……私はこの城のメイドです。最初にテレサ様の世話をしろと言ったのは、XANXUS様です。私は、仕事をしただけ」
リラは半ギレで言い返した。余計なこと気にしやがってこの野郎、とは心の中だけで付け加えて。
「………ぶはっ…!!そうだったなぁ!……マトモな奴だったらここで生きちゃいねえ」
「……」
リラは納得の意を込めた沈黙をして、スクアーロに背を向けた。
「…まあ、そんなことだろうと思ったぜぇ」
「…?」
「コイツの最近の態度を見てりゃあな……。テレサはどこにいる?」
「…………」
疑うような目をするだけで何も言わないリラに、スクアーロは時間の無駄だと悟り、扉に向かって歩き出した。
「……生きてるなら良い。XANXUSが一生あんなポンコツじゃあ、俺が迷惑するんでなぁ」
頭が働かなくてよく理解できないが、とにかくスクアーロには見逃してもらえた…のだろうか。
リラは胸を撫で下ろした。
さあ、XANXUSが目を覚ます前に、一度テレサの様子を見に行きたい。リラはさっさと片付けを終えると、静かに部屋を出た。