第7話 与え与えられる関係
…どうしてこんなことを思い出すのだろうか。
忌々しい記憶の荒波にもまれながら、数える程しか経験のない感覚に気づいた。
"頭を撫でられている"
慈しむような繊細な動作だった。母親が暴れた後に自分の罪悪感を晴らすために頭を撫でることが時々あったが、そのような白々しさは感じない。ティモッテオにも何度か手を置かれたが、すぐに振り払っていたので撫でられるまではいかない。
感覚だけは知っているが、初めて"頭を撫でられている"と認識した。
薄く目を開いてみる。
目の前に広がる女の胸元。
その体からわずかに香る匂いが心地いい。
目線を少し上げた先に、青い瞳。
そこでようやく、幼少期から引き戻された。
テレサはXANXUSを胸に閉じ込めるように抱きしめ、ゆっくり舟を漕ぐような一定のリズムで背をぽん、ぽん、と叩き、髪を撫でていた。どこまでも優しい手付きに、絵画のように穏やかな微笑。
これが半覚醒の理由か、と納得した。控えめながらもしっかり心臓まで届く力加減で背を叩かれると、なぜか眠くなってしまう。
不思議な空間だった。
テレサはXANXUSとしっかり目を合わせて微笑んでいるし、XANXUSも普段ならこの状況を打破しないなどあり得ないことだ。
音も無く額にキスが落ち、つい、もう一度目を瞑ってしまう。ゆらゆらと穏やかな波に揺られるような意識の中、テレサが静かに歌を歌い始めた。
細く、柔らかい、綺麗な一本の糸を大事に紡いでいくかのようなか細い声だが、その、ありふれた片想いの、寂しい恋の歌は、優しくXANXUSを包んだ。聴いたことのない歌だった。テレサが世の歌を知っているとも思えないし、自分で作ったか、誰かから教えられたのだろうか。
テレサの声は、嫌に心地良い。
自分以外の声で、不快にならない声はテレサが初めてだ。
穏やかな波が押しては引くようなリズムでテレサの手が動く。それに合わせて呼吸をすると、なんだか頭が空っぽに軽くなってきた。
他人のこんな行動を許容する日が来るなんて、誰が想像できただろうか。
もう目を覚さなかったことにして、眠ってしまおうか。こんな状況、知らなかったことにして。
そんな意地を張ることさえ、テレサ相手にはバカバカしいと感じてしまう。
テレサの心があまりにも単純で、純粋だからだろうか。意地とかプライドとかは、テレサの世界には最早存在さえしない概念かもしれない。そんなヤツ相手に、どんな虚構を張っても物悲しいだけだ。
全てがどうでもよくなる。
頭が軽くて、意識が溶けていく。
眠りたいけど眠りたくない。眠って、次に意識が戻った時には、きっとこの時間は終わっている。そう思うと、眠りたくない。
テレサの声、香り、肌、鼓動、全てが暖かくて、心地良い。こんな存在は、何と言うんだろうか。
いや、なんでも良いか。どうでもいい、ふたりの関係の名前なんて。
何の因果か知らないが、偶然にもテレサはかなりの特殊な存在らしい。こんな時間も悪くないと思えるのだから。
もし、もしもーーテレサが居なかったら、どうなるだろう?
居ても居なくても良いと思っていた。少し珍しい拾い物をしただけだと。
今もそう言えるだろうか?今や拾い物以上の、少しは贔屓にしている存在だお、認めざるを得ないかもしれない。
自分以外の全てが不快だった。そんな世界の中に、テレサだけが嫌に手に馴染む。もしかしたら、テレサの全てがーー…
いや流石に、それは言い過ぎか。流石に、テレサは手が掛かりすぎる。ここまで飼い慣らすのに、一体どれだけの手間暇を掛けさせられたことか。
いまだに体の虚弱さと自信が無くて控えめな性格は許容していない。
ああ、普段の愚図でドジで鈍間なテレサを思い出すと、少しイライラしてきた。せっかく良い気分だったのに、眠りから覚めるように意識が浮上していく。
「…………チッ…」
完全に夢心地から覚めてしまった。
すると、途端にこの状況にイライラしてきた。
「………あり得ねえ」
それはこの状況だけではなく、数秒前の自分に対しても向けられた言葉だった。
受け入れるわけがない。こんな状況を。
「…触るな」
テレサの腹をグッと押して、体を離す。流石に、ベッドから転げ落ちないくらいの力加減は覚えた。
すっかりXANXUSが眠っていると思っていたテレサは、驚いて少し息を詰めた。
「…!」
XANXUSはさっさと体を起こしてベッドから出た。わずかに後ろ髪を引かれるような気分がしたが、また「あり得ない」と頭の中で呟いて打ち消した。
今は少しテレサから離れたい。
これ以上そばにいたら、また気がおかしくなりそうだ。
テレサが慌てて後をついてきたのには気付いたが、あえて扉を強く閉めて、暗に「来るな」と伝えた。
その意図を察したのか、テレサは少し心配そうな目で扉を見つめるだけで、ベッドに腰を落とした。
「(………私は、何も知らない……)」
…ーーあの人のこと、何も…。何かに縛られているのは、分かっても、それが何かはわからない……。
そんな無力感だけが心に残った。
少し寂しくて、切ないような感情。
知り得ないことなのだから、仕方がない。そう分かっていても、何もできないのが少し悔しい。
でも、抱きしめていると、少しずつ呼吸が落ち着いていくのを感じた時、すごく嬉しかった。こんな自分にも何か、出来たのかもと思った。
私はあの人を救いたかった。唯一、私を救ってくれた人として。だけど、私が誰かを救えるわけがないことなんて、わかってる…。
何も知らない。
私はあの人のこと、何も、知らないのだからーー…