第6話 昔のはなし





ある満月の夜の日、テレサをカリタの地に連れて行った。
XANXUSはその土地を住所でしか知らなかったが、灯りの一つも無いような場所のような気がして、月の明るい雲の無い日を選んだのだった。テレサは拒否はしないものの、かつてないほど嫌がっているのが見て取れた。
あの城での日々を思い出すだけで足がふわっとして、そこに近づけば近づくほど気分も悪くなるのだ。


遠くには城が小さく見える。草原を行くXANXUSの後をテレサが追いかけた。時々、石や土のへこみに足を取られてはXANXUSの背に激突するテレサに、お前の土地だろうと瞳に意図を込めて睨むと、顔を青くして謝った。

十数分ほど歩くと、穏やかな澄んだ川が現れた。向こうに橋はあるようだが、幅は1mと少しほどで、行くのも面倒なのでXANXUSは立ち止まることなく軽く跨ぎ超えた。超えた後にテレサのことを思い出し振り返ると、予想通り突っ立って眉尻を下げこちらを見ていた。

周りの人間がスクアーロやらベルやらあんなのばかりだから、どうにもこういうことは意識に入らない。とはいっても、たとえ身体能力が低くても大人の女性の飛び越えられない幅ではないだろう。

「なにしてる」

テレサは胸の前で握る手を、わずかに伸ばしたり引っ込めたりするだけだった。声だけではどうにも勇気が出ないようである。ハナっから頼ってんじゃねえ、と情けなく思いながらも、手を差し出した。いつからか、テレサに期待するのはムダだと気づき、諦めている自分がいる。

テレサはきゅっと目を瞑ると、片足で地を蹴った。

「(…何のために手を出したと思ってる?)」

手が掴めないなら意味がないだろう、と呆れながら、見事にこの程度も飛び越えられず川に飛び込みそうなテレサの腕を掴み、背に手を添え、引き寄せた。
胸に飛び込んだテレサの腰を支える。間もなく地に足がつき、ほっと息をついたテレサは恐る恐る目を開けた。解放してやると、すまなそうに一歩間を開けて歩き出した。

微高地なだけあって、ベリーや果実がそこらに自生し、世話する人間もいないだろうに、色の鮮やかな実をつけていた。日は既に沈み、辺りは暗かったが、登りかけの月の明かりが十分足元を照らした。

後ろのテレサを横目で見ると、かつてないほど磨耗した様子で、涙をこらえ口を手で覆い、それでも必死で足を動かしていた。それならまだ泣かれた方がマシだ、とさすがのXANXUSも虐めている気分になり、立ち止まる。

「どうした」
「………いえ、……」

なんだかテレサの様子が、出会った頃に逆戻りしたようだ。
こんなテレサでもゆっくりとではあるが変化は起きるようで、聞けば素直に答え、時には泣きもするし、顔を隠すこともなかった。カリタの土地で何か思うところがあるということだろう。

「(……まあいい。そのために来たんだからな)」

素っ気なくテレサに背を向け、歩き出す。
やがて城までの距離は縮んで行き、来るもの拒まずといった風に開いたままの錆びた門から中に入った。

鍵はかけてはおらず、窓も開けっぱなしのホールは埃も落ちていなかった。
そこで、テレサの足音が途絶えたのに気づいた。後ろを振り向くと、テレサは何かに耐えるように目を固く瞑ってしゃがみこんでいた。行きたくないと駄々をこねてリードを引っ張る犬のような態度に、小さなため息が出た。

テレサとしては、ただ何もかも恐いだけなのだ。階段が恐い、寒さが恐い、暗闇が恐い、静寂が恐い、窓から射す月の光が恐い、あの永い永い失われた日々の感傷が恐い…。

「(あの人を待っていたのよ……ここで、10年もずっと……。私は延々、何を考えていたのかしら…?)」

––––あの人は今どこにいるの…私のことを、覚えているの…?

12の時に父が死んで、喪失感やら孤独感やら寂しさやらで体が動かなくて、とうとう学校にも行けなくなり、それからはずっと独りだった。

いつでも考えるのはあの人のことばかり。

最初の数年はまだ良かった。本を読んでいれば孤独は紛れたし、いつかまた彼に出会えるのではないかと期待して、少しは楽しかったから。

楽しい時期が終わると、何年もの長い長い自己嫌悪に陥った。その一つにしがみつく自分が嫌で、情けなくて、気持ち悪くて気持ち悪くて、消えてしまいたいくらい。その度に彼の幻像が手を包んでくれた気がして、何とかこちら側に留まれたのだった。

朝の酷く優しげな陽の光が苦痛になって、夜に起き、窓の無い部屋に一日中閉じこもっていた。朝の来ない世界で、知らないうちに孤独は加速していった。何も考えていないはずなのに、涙が勝手に溢れて一日中泣いていた。目が覚めた時、月灯りに包まれる時、眠る時…あらゆる時間が牙を剥いて、世界も、自分すらも、味方は一人もいなかった。

やがて自己不信が混じった。そもそもそんな人が本当に存在するのだろうか?幼い自分が救いを求めるあまり都合のいい夢を見たか、幻覚だったんじゃないか。自分さえ、誰かの夢の中の人物で、本当はもう存在していないんじゃないだろうか。それなら自分なんていてもいなくても、いや、とっくにそれはそうであるけれど––––だから、なるべく呼吸をしなかった。目覚めから眠りまで、始終溺れたように息苦しかった。

そして心は死んでいった。終わりなく繰り返される毎日にもう言葉を忘れ、何日も食べないことが常となり、涙が流れることもなくなった。ただ、時々彼の幻覚が現れて頭を撫でた。それに何かを感じることはなくなっていたが、それだけが自分を現実に繫ぎ止める鎖だった。

––––私が死んだら、誰かが私のことを思い出してくれるのかしら…誰かが、……泣いてくれるかしら………誰かが…………だれ…か…………………

「(独りは、寂しい………)」

この氷のように冷たい城で、孤独の海に溺れて、上手く息も出来なかった。10年という年月を眠りだけに費やしたかのように思い出なんて何一つなくて、それでも恐怖心だけは止めどなく溢れる。

「(これ以上思い出したくない……………、)」

そっとXANXUSの手が肩に置かれた。露出した肩は冷え切っていたが、その分XANXUSの体温が熱いほどに感じた。
そして、テレサは衝撃に目を見開いた。あのXANXUSが、地に膝をついている。
とんでもない事をさせている、と思わず肩に乗るXANXUSの右手を両手で掴んだ。

「XANXUS様…っ…!」
「元気そうだな」

さっと立ち上がったのにつられて、テレサも立った。
XANXUSはまるで紳士のようにテレサの手を取った。暗いホールをエスコートする様は、普段の粗雑さは微塵も感じさせない。

「(……………小さい頃、夢に見たわ………)」

純白のウエディングドレスを着て、素敵な人に手を引かれ、左の薬指に指輪がはめられて……そう、結婚式というものを。
そおっと、テレサの頬が赤く染まった。ドキドキする鼓動を鎮めるのに手一杯になると、恐怖心は小さくなった。

それから、ひたすら螺旋階段を登っていった。小さな窓しかない階段は、夜目が効かないテレサは神経を使うのか、息を切らしていた。

やがて城の塔に辿り着く。六本の柱に支えられた尖ったフォルムの屋根は、テレサの指輪と同じ蔓の模様が施されていた。微高地な上、丘陵に建てられたこの城は見晴らしが良く、四方が向こうまで見渡せる。ずうっと遠くにかすかに町の灯りが見えたが、その方角以外はなだらかな山や丘が続くだけだった。
風にさらされたテレサは、ぶるっと震えた。寒気がして、XANXUSに気づかれないように慎重に片腕を撫でた。
しかし、XANXUSは無言でテレサの肩を抱き寄せた。華奢なテレサはXANXUSの腕の中にすっぽり収まってしまう。安心感に気が緩み、今だけはその温かさを分けてもらうことにした。

空を見ると、もう月が上まで登るところで、満月が星ひとつ寄せ付けることなく輝いていた。
XANXUSはそのおおよその時間を告げるだけの事象に感動もなにも無かったが、腕の中のテレサを見下ろすと、もう涙がこぼれ落ちるところだった。なんとなく予想できたことなので、別に何も感じないが。

「なぜそう…一々泣くんだ」
「月が、きれいで…本当に、きれいで…………」

テレサはそれきりで、さめざめと泣き始めた。
まったく感性豊かな奴だと、ここまでくると感心してしまう。

「お前みたいだな」

星のようなクズは存在がかき消されるほどの、あの輝き。
…という意味だったのだが、テレサは何を取り違えたのか、俯いて月を見るのもやめてしまった。

「……はい。あんなに、ひとりぼっちで………」

––––ここでずっと、私は泣いていた。

「(最近その夢を見て、あの少年の夢を見て、それで涙が出るのかしら……)」

「………」

XANXUSは、おもむろにテレサの左手を取る。
中指の指輪をゆっくり外す。
テレサは十数年間つけない日はなかった指輪が外れ、中指と両隣の指の間に金属が挟まらないのに違和感を感じた。
そして次には、その手には指輪はなかった。もしや捨てたのか、と思ったところで、別の輝きが目に入る。
真鍮の指輪よりずっと輝かしい華奢な指輪が、薬指に腰を落ち着ける。

「それでもまだひとりだと言うか」

テレサは驚きが過ぎ、ただ言葉も出なくて、その手の指輪を見ていた。

やがてゆっくり顔を上げると、涙の止んだ目でXANXUSの瞳を覗き込んだ。

––––あの少年の、瞳みたい。

これほど人の目をしっかり見たことは無かった。
XANXUSは、それがテレサにとっての精一杯の返事だとわかったので、ただ軽く笑ってキスを落とした。

「そんなに似ているか?」
「……え…?」

まるで考えを見透かされたかのような言葉に、テレサは小首をかしげる。

鈍感なテレサに、思わず眉を顰める。
もうこのアホさには慣れたもので、いちいちイラつかなくなった自分の方が驚きだ。

「………アホが」

ふいっと背を向けて道を戻ると、テレサも慌てて後を追った。



城から数百メートル離れたところでテレサを振り向くと、さすがに今日は肉体的にも精神的にも疲れたのか、疲弊した様子だった。
急ぐ理由もないか、とテレサを抱え、近くの幹の太い木に背を預けて座らせた。
XANXUSはテレサの隣に座り、その頭を腕によりかからせた。
あの夜のように、これがテレサの一番落ち着く姿勢なのだと思った。それは正解だったようで、テレサはすぐに目を閉じると、次第に穏やかな呼吸が戻ってきた。
自然に生えるストロベリーも赤々と宝石のようだった。テレサの涙で育つと野生でもこうも綺麗になるのだろうか。
つい一つ手に取る。食べごろに摘まれたそれは、小粒だが弾力がある。
なんだか捨てるのも惜しい気がして、それをテレサの口に運んでみる。
ふっくらとした唇に赤いベリーがあたる。
テレサはそれに目を開けると、XANXUSの方に視線をやった。
ためらいがちに震えながら唇が開き、ちろっと見える小さな舌に置くように唇を割って押し込む。
奥歯でその果実の肉を裂く。甘みと酸味の黄金比が喉を通っていった。

「………おいしい」

その言葉を使うのは、人生で初めてだった。
よく庭の果実を食べていたが、自分は食べてはいけないという罪悪感に胸がいっぱいで、味がしたことはなかった。
これが"おいしい"なのだな、と思った。
感謝の意を込めてXANXUSの瞳を覗き込む。

––––すると、またあの人の影が現れる。

なぜだろう、と考えたところでもう声は出ていた。

「………ずっとここで、あの人を待っていたんです。あの頃の私が今も、あの塔で月明かりの中で……今もまだ、泣いている気がして、泣いてしまったんです」

塔で見た月に涙した理由を語ると、また涙が出てきた。呆れられてしまうと焦ったが、止めることはできなかった。

「そのためにここに来たんだろう」

その言葉に、目を見開く。
月を見上げるその瞳を盗み見る。

「過去のお前を、置いてはいかない」

その瞳が下がり、テレサの瞳を捉えた。
優しい手つきで頬の涙を拭う。

「こうされるのを待っていたんだろう?」

その瞳が、過去の少年と重なる。

「……………あの時の……」

XANXUSは軽く微笑む。月明かりの柔らかさも相まって、ひどく穏やかだ。

「迎えに来た。テレサ」

そう手を取り、甲に口付ける。
テレサは驚きに呆然としていたが、途端にまるで少女のような気分になり、XANXUSの胸にそっと身を寄せた。首元に額を落ち着けると、最初から一つのものだったかのようにしっくりきた。XANXUSはその体を緩い力で抱きしめる。

「……夢を見ているみたい、で………」
「てめえはまたそれか」
「………あの夜も…?」
「一つ目には布切れのこととは、てめえらしい話だがな」

呆れたような小さな笑い声のあとには、もうどちらも話すことはなかった。
ただ心が触れ合う心地よさだけが胸を満たしていた。ただ、この瞬間が永遠に続くような気がした。

穏やかな風がテレサの香りを運ぶ。
ずっと前に知った、この香り。呼び起こされた記憶の中に見つけた、テレサの香り。眠気を誘うような、堪らず目を瞑ってしまうほど、懐かしい。

始まりは、ほんの出来心だったはずだ。たかがひとりの女に、こんなに肩入れすることになるとは。
認め難いーーーかと言って、手を離すことも出来ない。それどころか、髪に唇を寄せてしまう。
テレサは驚いて目を開けるが、すぐに少し嬉しそうに俯く。そんなテレサを、どっち付かずの心境で眺めながら、XANXUSは目を閉じた。

少し眠ろうか。テレサの呼吸や鼓動は穏やかで、近くに居ると酷く眠気を誘う。
それに、ここは何もかも静かで、そよ風も月明かりも草花も、テレサのように物静かに恥ずかしげに息を潜めている。だからだろうか、もう立ち上がるのが億劫で、時間も忘れて眠りたい気分になる。

XANXUSが目を瞑っていると、テレサはいつもの調子で、つられて眠ってしまった。
今だけは気が合うな、とXANXUSは心の中で笑って、ゆっくりと眠りについた。



4/4ページ
スキ