第6話 昔のはなし




夢を見ていた。
かつてのあの城で、ただの一人で、草花の寂しい音をなるべく聞かないようにしながら、月を見上げることすら許されずに、ずっと一人で、あの人を待って……




生まれた時から自分は汚れていたように感じていた。自分に許されることなんて、何一つ無いのだと思っていた。
父に連れられていったマフィアの会合なんかは、大の苦手だった。この血の地位は誰よりも下であることはわかっていた。特に子供にはみんなが辛く当たった。

だからいつも、ワインの代わりに子供が受け取る葡萄のジュースに、口をつけることはできなかった。
少しでもグラスを口に近づけたら、「同じものなんて飲みたくない」とみんなグラスを置いた。だから、私はなるべく食べてはいけないんだと思った。

会場の隅に身を寄せていると「あら、虫だと思ったら、カリタの娘だわ」と同年代の可愛い女の子達の愉快な声が飛んだ。だから、いつでもどこにいても、自分を嗤う声が聞こえる気がしていた。

一歩でも足を動かせば隣の知らない大人に蹴り倒されたし、話そうとするとぴしゃりと頬を叩かれた。だから、なるべく自分の意思では動かないようにした。

恐くて恐くて、惨めで悲しくて虚しくて泣きそうになるのを、俯いて隠すしかなかった。
"逆らわないように、視界に入らないように"。そんなことばかり考えていたら、気づいた時には後戻りはできなくなっていて、自分が一番自分を罵るようになっていた。

どうして辛いことに負けてしまうんだろう、どうしてもっと強く在れないんだろう。私は自分が嫌いだった。無責任に自分を責める自分も嫌いだった。
どんなに自分を嫌っても、それでも愚図な私は、いつでも何か失敗してしまった。

その日も、人に軽くぶつかられた時に、グラスを落としてしまった。転んだわけでもないのに。しっかり両手で持っていたはずなのに。まるで幽霊のように手をすり抜けて落ちていった。
飛び散ったガラスの破片に手を伸ばした時、慌てて一番大きな破片を力一杯掴んでしまって、赤い血が落ちた。すぐに「汚い」という悲鳴が上がって外に追い出された。

罪悪感、恥ずかしさ、情けなさ、惨めさ。あらゆる負の感情で泣きそうになりながら、外の水道で手を洗おうとした時。
自分の不格好な手の親指の付け根から、血がどんどん流れていくのに衝撃を受けた。温かいものが、体の中から外へと流れ出て行く感覚を今も覚えている。
それを見ていて、なぜか泣いてしまったの。

––––本当に生きていたのね。

そう思うと、"嬉しい"より、"悲しい"と感じて、もっと泣いてしまったの。

溢れる血が次第に黒い虫に変わっていく。
汚い体から汚い物が出てくるのは当然。考えるまでもなくそう納得してしまったのに、もっと泣いてしまったの。

『汚い』鼓膜に張り付いて離れない声。
その声にごめんなさいと何度も必死で謝りながら、体の中から虫を掻き出そうと傷を掻けば掻くほど虫は沸いてきた。

落ちた涙がミミズのようになって、不快な動きをし始める。
怖い、汚い、もう嫌、頭が割れそう。今に、上から後ろから、笑い声が降ってくる。ほら、今に………


「何してる」


真横から耳に入る声に、傷口に当てられるハンカチ。隣から伸びる手が傷口を押さえる。上質な布は、黒くて光沢があり、血を吸っても分からなかった。
そんなことをしてはだめ––––そう思って声のした方を向いた。

赤い瞳と、青い瞳が出会った。

その瞬間、二人の手から、わずかに炎が立ち上がる。
少年は手の違和感に、すぐに視線をやるが、その瞬間にはもう消えていた。

勘違いかと結論づけると、蛇口の栓を緩め、水で両手の血を流し、ハンカチの血の付いていない所で軽く拭いてやった。止めどなく溢れる涙だけはどうしてやればいいかわからなかった。

傷にハンカチをあて、少女の手を取ってハンカチに重ねさせ、上から握りしめる。まるで自分では無いかのような行為に妙な感じがし、つい放るように手荒に離すと、少女は大袈裟に後ろに数歩ふらついた。
何も話さない、一つも動かない少女は命の無い人形のようだった。

少年は、少女を追って外に出たのだった。ゲスト席から見下ろすホールでの騒ぎを見て、腕を掴んで止めるボディガードを蹴っ飛ばして来た。ガラスを拾おうとする少女の仕草が、酷く綺麗だったから。

そして少女に目配せをして、くるっと背を向けて歩き出した。ここではすぐに大人に見つかってしまうだろうから、付いて来いという意味で。
しかし、背後に気配はない。怪訝な顔で振り返ると、少女は1ミリも動かず立ち尽くしていた。

「………」

俯いてこちらを見もしない奇妙な少女に、かける言葉も見つからない。全く生態がわからないのだ。話を聞く耳が付いているのかさえ疑っていた。

「おい、早く来い」
「…………はい…」

辛うじて聞き取れた声は、孤独な一輪の鈴らんのようだった。本当に綺麗なのに誰にも愛でられず、申し訳なさそうに日陰に咲く寂しい花だった。

鈍い足取りで近づくのを見ていると、状況も知らずにと苛立ちがこみ上げ、少女の手を引いて走り出した。

「きゃっ…」

小さな悲鳴にすぐ反応し振り返ると、少女は正に転ぶところだった。
ぐいっと腕を引くと、軽い体は勢いよく少年の胸に飛び込み、少年はそのまま尻餅をつくように後ろに倒れてしまった。

女がこれほど接近してくるのは社交辞令のダンスくらいだ。しかし、決定的に違うのは腕の中の体が小さく震えているということ。そして、何処からともなく良い香りがすること。嗅ぎ慣れた人工的な匂いではないそれに、どう処理して良いかわからず眉を顰めた。

「ご、ごめっ…なさ……っ…」

少女は怯えていた。同い年の女の子に足を引っ掛けられて転んで皆んなに笑われて、それから邪魔だと大人に蹴られるのは、本当に本当に痛いのだ。幾度となくその流れを刷り込まれ、あるはずのないかすかな笑い声が聞こえた。

「(女ってのは、転んだだけでこんなに泣くのか…?)」

少年は困惑した。そんなに手荒にした覚えた無いのだが。何がそんなに泣く必要があるのか理解できなかった。痛いのか、驚いたのか…理由が特定できない。全く違う生き物なのだと感じた。

「…!…チッ…」

近くに人の気配がする。地についた手に僅かに伝わる振動からすると、複数人の大柄な男に思えた。間違いなく、自分が目的だ。
音を立てないように立ち上がり、動けなくなった少女を抱えて走り出した。

窓から城の中に侵入し、礼拝堂の祭壇に少女を座らせ、その横に自分も腰を下ろした。
少女はまだしくしく泣いていた。その手は、お守りを握りしめるように傷口をハンカチで包んでいた。

「(……どうしてこうなった…?)」

勢いでここまで来てしまったが、正気に戻るとボンゴレの時期ボスである自分が関わっていい身分の相手ではないということを思い出した。
途端に、真横の少女が周りの人間が言うように愚図で鈍間で卑しい女に思えてきた。
頭の中は少女を罵っていた。でも、体は勝手に動いてしまった。
横顔を隠す髪を、カーテンを開けるように手で退けると、少女はきゅっと体を縮こませて目を見開いた。その驚きや困惑や緊張が見て取れる横顔に、少し好奇心が刺激された。

「(一応感情はあるんだな。……そりゃそうか。こんだけグズグズ泣いてりゃな)」

この一瞬だけで、少年の一生を5回かけても流し切れないほどの涙を流しているだろう。
そう呆れながらも、目は少女の涙を捉えて離さなかった。ガラスのように輝く瞳は青くて、ちょうどこの式場の壁を飾るステンドグラスに似ていた。

少年は祈りというものが大嫌いだった。そんな暇があったら少しでも鍛錬した方が余程現実にフィードバックすると思っていた。それなのに、神に対し人々が向ける感情を間接的に理解したような気がした。

「(奇妙な奴……)」

涙を止めようとするかのように硬い瞬きが、スローモーションのように見えていた。その横顔があまりにも綺麗だから、つい長い間魅入ってしまったのだ。

「(……………私にこんなことをしてくれる人は、初めて……)」

テレサは初めて父以外の人間に安心感を抱いていた。幼い心は失態を犯した後悔と親しみのない安心感との間で揺れ、整理がつかなくて涙が溢れた。

学校の同級生や今日のような場に集う同世代の子達に歩み寄っては突き放され、虐げられ、傷を負うたびに諦め、いつしか受け入れて欲しいなんて感情を持つことは許されないと自分に強要し、とっくに自分なんて消えてしまったと思っていた。

それなのに、隣の少年は自分に触れ、言葉をかけ、手を引いて嘲笑の渦から連れ出してくれた。
守られたと感じた。だから、涙が止まらなかった。

「(本当は、ずっと探していたの……こんなひとを…)」

少年は飽きもせずにその涙を見つめていた。強烈な歯痒さを持って。
別に助けたかったわけでも、まして見初めたわけでもない。ただ、気づいたら体が動いていて、退っ引きならなくなっただけだ。

「(クソッ……俺は何をしてる…)」

思い出すのは、汚いと悲鳴が上がった時の、遠目にもわかる傷ついた顔。近くにいた男がしゃがみ込む少女の細い腕を掴んで出口の門に引きずる。外に蹴り飛ばすと、その体はべしゃっと地面に打ち捨てられ、会場からはささやかな笑い声が上がった。扉が閉まる寸前見えた、なんとか立ち上がる少女の後ろ姿の、瞬きの間に消えてしまいそうな儚さ…

なぜそんなものに突き動かされたのか。消えていないのを確認したのは良いとして、今度はその涙が止むのかどうか気になった。それから次は、笑う能力はあるのか、そして次に––––なんて、冗談じゃない。

眉を顰めて自分を制しようと試みるが、視線は少女の涙を追うだけだった。禁断の実を頬張るような背徳感。拒絶しているはずなのに、意思に反して手が伸びる。その涙に、触れようと。まさか本気で泣き止ませようとでもするつもりなのか…自分でも真意がわからなかった。

何をしようとしている?もう触れてしまう。やめろ––––

寸前で、ぎゅっと拳を握りしめ、手を引っ込めた。自分の意思で動かなかった自分がわずかに怖くなって、立ち上がって早足で歩き出した。
それでも、あの涙は目に焼き付いたままだった。

少年がその場を去って少し後、テレサは恐る恐る口を開いた。

「……あの………お名前、……教えてくださいませんか…?」

しかし、その場に少年はもういない。答えが来るはずもない。その一言を言う勇気を絞り出すのに必死で、少年が去ったことに気づかなかったのだ。そして、髪で隠れた瞳には空白の隣人に気づくこともまた、できなかった。

心臓の鼓動をすぐそこに感じながら返事を待った。あまりの恥ずかしさに、両手でそっと顔を隠した。

何分も辛抱強く待っていたが、心臓の甘い高鳴りが不安故のものに変わったころ、ようやく隣の床を盗み見た。
誰の足も見えない。そこには自分一人だった。

「………?」

恐る恐る辺りを見渡してみるが、やはり誰もいない。

「(……夢…?)」

しかし、手の中には黒いハンカチ。

「………どうやって、お返しすれば………」

いつもこうだ。すぐ頭が真っ白になって戸惑って、肝心なことに何一つ頭が回らなくて。

「………また、いつか……会いたい………」

初体験の甘い恋心は長い間テレサの心に漂った。深い余韻に浸るように、ぼーっとハンカチを眺めていた。いつまでも、いつまでも…




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