このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

第1話 目を奪われる



等間隔で並ぶ柱の上方の明かりは橙色で、その上新月の夜では、足元までは届かない。廊下も階段もよく見えないのは防犯上だろうか。敵の侵入時に侵略を困難にするためのように思われた。必要なことなのだろうが、テレサにとってはハード過ぎた。
恐る恐る踏み出す足取りではXANXUSに取り残されそうになり、XANXUSもテレサに合わせることなどするわけもなく、頻繁に現れる短い階段で差がついては廊下で走って追いつき、それを繰り返してなんとかついていった。しかし、とうとう微かになったテレサの足音に、XANXUSは歩みを止めた。
城内はかなり複雑で、短い廊下でもいくつも分岐がある。これだけ離れてしまえば正しい道を選ぶのは不可能だ。やはり、テレサの足音が止んだ。はあ、とため息をついて、XANXUSは仕方なく来た道を戻った。

「早く来い」

恐る恐る前に進みながら、不安げに分かれ道を見送るテレサに声を投げた。
テレサはXANXUSの姿を視認すると、泣き出しそうに顔を綻ばせ駆け寄った。

「………(なんだこれは)」

目の前のテレサはすまなそうに、それでも安心した顔で俯き、胸に手を当てて乱れた呼吸を必死で整えている。想像以上に体力も筋力も無いのか、少しふらついていた。
たかが30秒歩いただけだ。複雑な城の深淵部にあるXANXUSの部屋までは、XANXUSの足でも五分かかる。文字通り朝になってしまうのではないか。
何より、一体何が怖いのか、それとも寒いのか、テレサの体は震えていた。未だ嘗て遭遇したことのない生き物だった。

「……面倒なことしてんじゃねえ、」

––––ドォン!

グズが、と言いかけて、爆音に掻き消された。強烈な音の振動が石造りの城を揺らし、小さな粒手がどこかでパラパラと落ちた。
誰かが大型の銃器をぶっ放したのだろう。荒くれ者揃いのこの城ではよくあることだ。
しかしテレサは、そんな音には何十年も縁がなかったのだった。

「きゃっ!」

びくっと跳ねたテレサの体は、気づいたら胸の中にあった。見下ろすテレサは、両手で顔を覆って肩が微かに震えていた。
"気づいたら"––––そう、楽器のように響いた澄んだ高い音がテレサの悲鳴だと合致するのに意識が持っていかれ、テレサが胸に飛び込んできたのに反応が遅れたのだ。
不思議と悪くはない匂いが微かに漂った。女という生き物は人工的な香水の匂いがするとばかり思っていたが、いつもの甘だるく尖った感じではなく、思わず眉を顰めた。
何の香りと言うことはできないが、懐かしい匂いだった。何かの花だろうか、仕事で嗅いだのだろうか、それとも同じ匂いの女だろうか。思い出せるとしても、かなりの時間がかかると直感し、その思考は打ち切った。
それはそうとして、この女を、この状況をどうすればいい?わからないまま、何もしないのもどこか癪なので、震える肩に手を置き、少し引き剥がした。
すると顔を上げたテレサと目が合った。不安げに眉尻を下げ、今にも泣きそうだ。それにしてもこうしてみると、ずいぶん身長差があるものだ。

「あっ…」

テレサは自分が何をしでかしたか理解したようだった。ふらっと後ろに下がって、頭を下げる。

「申し訳ありません…っ!」

薄い涙の膜で揺れる瞳を伏せ、胸の前でぎゅっと手を握っている。それほど濡れていながら溢れないのが不思議だった。

「慣れろ」
「……はい」

その後も何度かテレサは置いていかれながらも、なんとか XANXUSの自室に辿り着いた。
XANXUSは自室の扉を足で蹴り開けると、後ろからついてくるテレサの腕を掴み、軽く引っ張って部屋の中に放り入れた。なんとなく、遠慮して入ろうとしないのではないかと思ったのだ。
しかし、テレサは…

「ぁっ…」

小さな悲鳴のあと、ドサッと床に手をついた。
XANXUSは良い大人が転ぶところなど見たことがなく、訝しげな顔をその背に向けた。

「……何してる?」

XANXUSは一瞬、本気で何が起きたかわからなかった。次の瞬間には、自分の力がテレサにとっては強過ぎるのだと合点したが。
しかし、自分のせいだとは少しも考えなかった。なにせ、テレサの体はまるで中身が空っぽの人形のように軽く、抗うための力が常に入っていないのだから。それに一応加減はしたのだ。少なくともヴァリアー基準の力加減ではなかった。
とはいっても、何度もこう突き飛ばしていてはすぐに死ぬのではないかという印象を受け、至極面倒だがテレサ用の力加減という項目を頭に作った。
慌てて立ち上がったテレサの肩を抱いて膝の裏に手を通し、抱き上げた。テレサは息を詰め、自分の胸元で手をぎゅっと握っていた。まるで、極力XANXUSに触れないようにしているかのようだった。
寝室に入ると、天蓋のついたキングサイズのベッドにおろした。XANXUSにしては控えめに扱ったつもりだが、テレサは衝撃に少し声を漏らした。力加減にはまだ調節が必要なようだ。
そのままの勢いで、テレサの顔の横に手を付く。半身を起こしかけていたテレサと、拳一つほどの距離となった。部屋に入ってからここまでが一瞬だったテレサは、突然の状況にハッと顔を上げる。XANXUSが何をしようと言うのか、わからなかった。傍目には行為に至ろうとしているのは明らかだったが、テレサにとっては考えもつかないほどあり得ないことだった。ただ痛いほどしっかりと瞳が絡み合い、畏れ多いだの申し訳ないだの、湧き上がる負の感情で息ができなくなった。
至近距離で目が合った後、すぐに視線をうつむけ、後ずさりしようとした。しかし、動きを読んだかのように腰を引き寄せられ、そのまま口付けられる。

「んっ…!」

思わず、XANXUSの胸板を力一杯押し返した。テレサの腕力ではその体躯を動かすことは出来なかったが、XANXUSはテレサからの拒絶に、さすがに交わるのは嫌なのかと、興味半分でそれに応え解放してやった。しかし、解放された唇から飛び出た言葉に、予想が裏切られた。

「いけません…!こんな、汚れた体……貴方様まで……」

今にも泣き出しそうな顔で縮こまるテレサに、XANXUSは一瞬ハテナを浮かべた。犯されそうになって案じるのが相手の身とは、新しい概念だった。

(俺の身を案じる…?何様のつもりだ、こいつは)

「俺に指図するな」

XANXUSが軽く睨みをきかせて言うと、テレサは自分が何をしたか自覚して、高所から落ちた時のように力が抜け、クラっとした感覚に襲われた。

「お…お許しください……そのようなつもりは、」
「黙れ」
「ぁっ…!」

後ろ髪をガシッと掴み上げられ口を塞がれると、その荒々しい衝撃に短い悲鳴のような吐息が漏れた。
腰と頭を力強く押さえつけられると、もう逃げられないと思わざるを得ず、体の力を抜いた。

(私が、このお方に逆らう権利は…ない)

何度も角度を変えて交わる口付けに、テレサは息を吸うのと同時に声が漏れた。少しして再びグイッと髪を後ろに引かれ、唇が離れる。テレサはもうすっかり息が上がっており、尾を引くめまいに顔を歪めていた。
それに、XANXUSは少し面食らう思いだった。なんだコイツは、下手すぎる。その歳でまともにキスも受けられねえのか、と。

(………まさか、こいつ…)

「…男を知らねえのか?」

一瞬息を止め、頬をかすかに赤らめるテレサに確信する。二十歳にもなる女が、しかも仮にも裏社会に身を置く女が男性経験の一つもないとは、またも常識が覆された。
すると、急速に気持ちが萎えた。
仕事をサボって処女の相手など、お笑い種だ。馴らしてやるなんて面倒もごめんだ。XANXUSは小さくため息をつくと、テレサから体を離した。

「もういい」

テレサはほっとしたような顔をしたが、それはXANXUSは見ていなかった。
それにしても人形と話しているようだと、バカバカしい気持ちになった。逆らうなと言えば簡単に抵抗も放棄するテレサは、なんの比喩でもなく本当に命が無いのだと思った。

––––そこで、交わることが目的ではなかったと気づく。

犯すことならできた。初めても何も関係ない。泣こうが喚こうが––––喚く所は想像できないが––––押さえつけて、こっちの好きにすればいいのだ。人形のようならやかましいこともないし、尚更都合だって良いだろう。これまでの娼婦だって、選ぶのは大げさに声を出さない女だった。

––––だったら何をする?

疑問も半ばに答えが出た。
"あの光景"を求めているのだ。目に焼き付いて離れない、頭では拒否しているのに自分の中の何かが焦がれるあの空間。そのせいで抗いがたい力に引かれるかのように、勢いでここまで連れてきたのだ。

––––だったら、何をする?

心底バカバカしいとため息が出た。テレサに出会う前の自分が見たら他人だと思うだろう。自分ではない誰かの機嫌をとるような真似をしようなど。

「おい」

テレサはわずかに視線を上げる。それが返事のように感じた。

「何とか言え」
「…は、はい…」

消え入りそうな声。
まったく、バカらしい。
こんな対義語のような人間に付き合うなど。

「もう黙れとは言わねえから自分の考えくらい話せ」
「…はい」

とりあえずは良い、と思い、寝室から出ようとすると、テレサの戸惑いが空気を伝ってきたので、うんざりしながら顔だけで振り向く。

「…なんだ」
「あ、あの……私は…なぜここに?」
「知らなくて良い。今からここで暮らせ」
「え…?」

さすがに目を丸くして、XANXUSの後を追う。

「問題はねえだろ」

XANXUSは全て知っているのか、その通りだと思った。
別に心残りがどこかにあるわけではない。大切なものはこの指輪と思い入れのあるハンカチくらいだし、どちらもいつでも持っている。それにカリタの城も、もう住んでいる人は自分しかいないのだ。
テレサは、これから住むことになるらしい部屋を見渡した。黒と、少しの白で統一された、広い広い部屋。無駄なものがひとつもないのが一体感を生んでいた。テレサはまるで違うパズルから持ってこられたピースのように、自分が酷く場違いに思えた。








3/4ページ
スキ