第1話 目を奪われる



引きずるようにヴァリアーのアジトに連れ込んだ頃には、すっかり夜だった。とはいえ、この城にとっては活動時間のど真ん中だ。

複雑に曲がる廊下に等間隔で並ぶ柱の明かりは薄いオレンジ色で、その上新月の夜では、足元までは届かない。廊下も階段もよく見えないのは防犯上の仕様だ。この城にとっては必要なことなのだろうが、テレサにとってはハード過ぎた。

恐る恐る踏み出す足取りではXANXUSに取り残されそうになり、XANXUSもテレサに合わせることなどするわけもなく、頻繁に現れる短い階段で差がついては廊下で走って追いつき、それを繰り返してなんとかついていった。

しかし、とうとう微かになったテレサの足音に、XANXUSは歩みを止めた。城内はかなり複雑で、短い廊下でもいくつも分岐がある。

テレサの足音が止んだ。道に迷っているのだろう。はあ、とため息をついて、XANXUSは仕方なく来た道を戻った。

「早く来い」

恐る恐る前に進みながら、不安げに分かれ道を見送るテレサに声を投げた。
テレサはXANXUSの姿を視認すると、泣き出しそうに顔を綻ばせ駆け寄った。

「………はあ……、は、っぁ……」
「(………なんだこれは)」

目の前のテレサはすまなそうに、それでも安心した顔で俯き、胸に手を当てて乱れた呼吸を必死で整えている。

たかが数分歩いただけだ。複雑な城の深淵部にあるボスの部屋までは、XANXUSの足でも10分かかる。文字通り朝になってしまうのではないか。
それに、怖いのか寒いのか、テレサの体は震えていた。未だ嘗て遭遇したことのない生き物だった。

「……面倒くせえ、」

––––ドォン!

気怠げな呟きは、爆音に掻き消された。
強烈な音の振動が石造りの城を揺らし、小さな粒手がどこかでパラパラと落ちた。

誰かが大型の銃器をぶっ放したのだろう。荒くれ者揃いのこの城ではよくあることだ。
しかしテレサにとっては、そんな音には縁がなかったのだった。

「きゃっ!」

びくっと跳ねたテレサの体は、気づいたら胸の中にあった。見下ろすテレサは、両手で顔を覆って肩が微かに震えていた。

"気づいたら"––––そう、楽器のように響いた澄んだ高い声がテレサの悲鳴だと合致するのに意識が持っていかれ、テレサが胸に飛び込んできたのに反応が遅れたのだ。

それと同時に、不思議な香りが微かに漂った。
それは桃のような甘さと、小花のような清純さを想起させるような香りだった。香水でも付けているのか。それにしては他の女のような甘だるく尖った感じが無く、思わず眉を顰めた。

不思議と、懐かしい匂いだった。知っている香水だろうか、それとも同じ匂いの女か花か。思い出せるとしても、かなりの時間がかかると直感し、その思考は打ち切った。

それはそうとして、どうすればいい?わからないまま、何もしないのもどこか癪なので、震える肩に手を置き、少し引き剥がした。
顔を上げたテレサと目が合った。不安げに眉尻を下げ、今にも泣きそうだ。月明かりが柔らかく当たる肌を近くで見ると、作り物の陶器のように滑らかで、唇は赤子のような薄桃色で、流石のテレサも化粧くらいはしているのかと思わせた。ならば、香水を付けていても不思議じゃない。

「あっ…」

テレサは自分が何をしでかしたか理解したようだった。ふらっと後ろに下がって、頭を下げる。

「ごめんなさい…っ!」

うるうると揺れる瞳を伏せ、胸の前でぎゅっと手を握っている。それほど濡れていながら涙となって溢れないのが不思議だった。

「慣れろ」
「……はい」

その後も何度かテレサは置いていかれながらも、なんとか XANXUSの自室に辿り着いた。

XANXUSは自室の扉を足で蹴り開けると、後ろからついてくるテレサの腕をひっ掴み、軽く引っ張って部屋の中に放り入れた。
しかし、テレサは…

「ぁっ…」

小さな悲鳴のあと、ドサッと床に手をついた。
XANXUSは良い大人が転ぶところなど見たことがなく、訝しげな顔をその背に向けた。

「………?」

XANXUSは一瞬、本気で何が起きたかわからなかった。次の瞬間には、自分の力がテレサにとっては強過ぎるのだと合点したが。

しかし、全く自分のせいだとは考えなかった。なにせ、テレサの体はまるで中身が空っぽの人形のように軽く、抗うための力が常に入っていないのだから。
それに加減はしたのだ。少なくともヴァリアー基準の力加減ではなかった。
とはいっても、何度もこう突き飛ばしていてはすぐに死ぬのではないかという印象を受け、至極面倒だがテレサ用の力加減という項目を頭に作った。

慌てて立ち上がったテレサの肩を抱いて膝の裏に手を通し、抱き上げた。テレサは息を詰め、自分の胸元で手をぎゅっと握っていた。まるで、極力XANXUSに触れないようにしているかのようだった。

寝室に入ると、天蓋のついたキングサイズのベッドに放り投げた。XANXUSにしては控えめに扱ったつもりだが、テレサは衝撃に少し声を漏らした。力加減にはまだ調節が必要なようだ。

「脱げ。期待はしてねぇが…味見くらいはしてやる」

テレサを見下ろしながら短く命令する。
しかし、本人は数秒固まって、小首を傾げた。

「…?」

場の雰囲気にはそぐわない、幼稚な反応にXANXUSは少し苛立った。分からないフリというより、本気で理解していないような顔で。

手を煩わせるなとも思った。XANXUSにとって女というものは、勝手に脱いで求めてくる存在だった。

「チッ……聞こえなかったか?カスが」

テレサの膝に跨るようにして肩を押し倒すと、ようやく少しは状況を理解したらしく、顔の血の気が引いて、体を強張らせた。

体が緊張したせいか、ようやく少しの抵抗感が生まれたテレサに、「一応は嫌だとかいう感情があるのか?」とXANXUSは思った。何でも言うことを聞くのかと思っていたが、流石に股を開くのは違うのかと。

「(……どうすれば………?怖い……)」

あまりに急な出来事に頭の中はパニックで、体が微かに震えてきた。ぎゅっと手を握って耐えようとしても、恐怖感は拭えなかった。

どこにも逃げられない。ただ少しでも痛くなくて、少しでも早く怖い時間が過ぎ去ることを、願うしかできない。自分でさえ、自分を助けることなんて出来ないのだから。

今までずっとそう。カリタの血は、どこに行っても蔑まれ疎まれる。皆んな、日陰者には何をしても許されると思っている。

「(………私がどんなことをされても……誰も、何も………)」

ーーぽろぽろ

ぎゅっと瞑った瞼の目尻から、何粒か涙が零れた。何をされるのか分からない恐怖と、あまりに現実離れした現状に、耐えられなかった。

「……ごめんなさい…なんでも、無いので……」

ぽろぽろと涙を溢しながら、口から出るのはそんな言葉。

まるで自分に言い聞かせるようにその言葉が呟かれると、本当にテレサの体から力が抜けて、一切の抵抗感の無い人形のような躯に戻ってしまった。

XANXUSは、その通りだと思った。
血統の呪いのようなもので、この裏社会ではテレサに流れるのは穢れた血。テレサがどう扱われようが、誰も助けたりしない。誰がどんな扱いをしようが、文句を言う奴はどこにも居ない。その事実は虐げられてきた人生を通して、テレサ本人に一番深く刻まれているのだろう。

どいつもこいつも馬鹿みたいだ。血統なんてものに踊らされて。
もしテレサが普通の血筋だったら、こぞって奪い合うくらいには、容姿だけは良いだろう。
血統が外れを引くだけで、こんなものだ。そんなものに化かされて真価を見抜けないなんて、滑稽ではないか。

無性にイライラしてきた。ここでテレサを思うままに弄ぶことは簡単だ。だがそれをしたら、自分まで血統に眼を曇らせることになる気がした。

それもこれも、テレサがあっさりと諦めるからだ。テレサが自分の血筋を受け入れて、抗わないからだ。
泣いたり怯えたり、テレサなりに感情は動くらしいが、なぜ負の方向にしか働かないのか理解ができない。なぜ怒りを抱かないのか分からない。

考えれば考えるほど苛立ちが積もり、到底抱く気分にはならなかった。

「……チッ…」

XANXUSは舌打ちをしてテレサの上から退くと、何も言わずに苛立った足音を立てながら部屋を出た。

「……??」

テレサはふらりと起き上がると、何がどうなったのか、分からないまま呆然と扉を見つめた。

よく分からないけど、許してもらえたのだろうか。とにかく、一人になった部屋に訪れた沈黙が安心する。耳鳴りがするほどの静寂に、あまりにも安堵を感じて、思い出したように疲れと眠気に襲われた。

耐えられず、ぱたりと体を倒すと、テレサは目を瞑って意識を落とした。

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