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第5話 一歩進んで何歩下がる?



その日暮れ、テレサはメイドが髪や化粧を自分に施す間、至極申し訳なさそうに、そして所在無さげに椅子の淵ぎりぎりに座っていた。
そんな時、いつも視線の居場所は化粧台の上の黒いハンカチだった。
テレサが指輪以外に唯一大切にしているもの。いつでも持っているので、カリタの城に忘れないで済んだ。シックな黒に、エレガントな金の刺繍のそれは、もう十数年も前の思い出だった。ずっと昔のことなのに、見るたび触れるたび、色あせることなくあの時の暖かい気持ちが蘇る。
XANXUSは、テレサがどこに行こうにも、犬が宝物を咥えて歩くように持っていこうとするそれを疑問に思ったことがある。

「…なんなんだ、てめえのそれは」

胸元に握っているハンカチに視線を注ぎながら言うと、テレサはびくっと肩を揺らし、そうっとハンカチを両手に潜り込ませた。まるで隠すかのような仕草に苛立ちを覚えた。

「誰が取るか」
「いえ…すみません…」

実用しているわけでもないようだし、何より男物だ。シンプルなデザインだが拘りのある布や柄で品質の高さが一目で分かる。本来の持ち主がいるなら、高貴な人物かと思えた。そうでなければ、女への贈り物も心得ていない無粋者か、父親の遺品か、どうでもいいことだがハッキリさせておきたかった。

「これは………」

なんと説明すればいいのだろうとテレサは困った。
テレサは、昔一度だけ父以外の人から優しくしてもらったことがある。その時の思い出の品というわけだった。もう一つ、大事な事があるのだが…

「幼い頃、怪我をした時に……親切な方が、その……」

かああっ、と音が聞こえそうなくらいテレサの顔が赤くなり、わずかに目元が緩んだ。
そう、これはテレサの初恋の思い出だった。二度と会っていないし、彼の名前も分からないが、傷口にハンカチを当てて優しく手を包んで、泣くだけのテレサのそばにいてくれたのは忘れることはない。
XANXUSはそれに、なんだか面白くない心地がした。テレサはハッキリとは言わないが、その"親切な方"に甘い感情を抱いていることはXANXUSの目にも明らかであった。

「誰だ、そいつは」
「す、すみません…名前は…」
「特徴は」
「え、と……赤い髪の…すみません、それ以外は…」

目に焼き付いたその色は記憶にあるのだが、テレサにとって姿形より、あの手の温もりが刻まれていたので、それ以外の容姿は覚えていなかった。
XANXUSは、赤毛ということはイギリス系の可能性が高いかと思ったが、それだけで特定できるわけがない。
その男の抹殺は不可能だと割り切り、次に矢が立ったのはそのハンカチだった。

「……んな汚ねえモン、捨てろ」
「っ!?」

テレサは一瞬で顔を青く変えて、XANXUSを見上げた。じろっと睨むその目は本気そのものだ。
はいと言ってしまえば、これは捨てなくてはならない。それを考えるだけで、涙が滲んだ。

「あ、っ………」

よほど"はい"と言いかけたが、それは言えなかった。それほどまでに、このハンカチは、その思い出は、長年テレサの支えであった。これがなければ、自分の生きてきた長い長い孤独と苦痛の日々が全て嘘に変わってしまうような気がした。つまり、命より大切なもの…たとえ殺されてもそれが何だと言うのだろう。

「どうか、これだけは…ご容赦ください……」

蚊の鳴くような声と一緒に、涙が溢れそうになった。
そんな泣きそうな顔をされると、XANXUSの方が加虐しているような気持ちになる。

「…そんなにそれが大事か」
「はい………はい…」

あの人のおかげで、生きることを諦めずに来れた。命をかけるにふさわしい物なのだ。
XANXUSの手がテレサに伸びる。ビクッと肩が跳ね、目をぎゅっと瞑った。
しかし、その手はテレサの頭を軽く撫でただけだった。

「よく言った」

ふっ、と笑った。XANXUSは、何事も無かったかのようにテレサに背を向け扉の方へ歩き出した。テレサもその後を慌てて追うが、ひどく動揺していた。
XANXUSは少しテレサを見直したのだ。一世一代の勇気が必要だっただろう。ハンカチなどもうどうでもよかった。

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