刀さに
泡が上る。
私の体はそれを見ながら、ゆっくりと沈んでいた。
冷たい海水に寒さを感じて身を震わせる。
ただ…不思議と苦しくはなかった。水面の光が遠ざかり、私の視界は碧一色に染まりながらどこまでも落ちていった。
静寂が支配する海の底に向かって…
私は、そこで目を閉じた。
閉じていた目を開くと、そこは本丸の自室だった。早朝の5時、厨当番の作る味噌汁の出汁がほんのり香っている。耳をすませば、馬当番や畑に向かう刀剣男士の足音や話し声がうっすらと聞こえるくらいで大半の者はまだ眠っている時間だった。
ここ1週間ほど、私は同じ夢を見て早朝に目を覚ますことを繰り返している。
海に沈む夢。悪夢というほどではないが、1週間も続くとさすがに堪えてくる。私は小さくため息をついた。一度病院に行った方が良いと思うのだが、原因について心当たりがあるため少しためらっている。
刀剣男士の笹貫。主として決して口には出せないが、私はこの太刀が苦手だった。彼が顕現したのは1週間前。目を合わせたら心を囚われそうになるほど深い碧い瞳が怖かった。それからずっと私は海に沈む夢を見続けている。
「主、もしかして起きてる?」
扉越しの声に思わず心臓が跳ねた。笹貫だった。
「昨日、うなされてたからさ…眠れなかったのかと思って。ああ、オレの声で起こしたなら謝るよ」
「さ、笹貫。ううん、大丈夫もう起きてたから」
「そっか…あのさ、ちょっと話したいコトあるんだけど入っていい?」
「ごめん…まだ寝間着だから、ちょっと待って」
「ん…わかった」
手早く布団を片付け、着替えと最低限の身だしなみを整えた後扉越しの笹貫に声をかけた。遠慮がちに入って来た笹貫に座布団を出し、私もその前に座布団を敷いて座った。
「どうしたの?改まって話なんて」
「オレの勘違いかもしれないんだけど、主ってオレのこと苦手…だったりする?」
碧の瞳と目が合い、反射的に視線を反らしてしまう。まずいことをしたと思って背に冷や汗が流れた。
「やっぱりそっか。ごめんね、怖いのにオレとふたりっきりにさせちゃって」
「ごめん私、笹貫の主なのに」
「いいよ。誰でも苦手なものはあるだろうし。オレはね、実は海が苦手」
「海…」
「海に捨てられたこと、思い出しちゃうからかなあ。あの時は手も足もない刀の姿だったから、静かに自分が沈んでいくのを感じているしかなかった。水面の光が遠ざかって、段々碧一色になって最後は…」
「やめて…笹貫」
「主、オレのこと苦手なら解かしてもいいよ。ずっとゆっくり眠れてないでしょ、オレが顕現してからの1週間」
「気付いてたの?」
「みんな知ってるよ。主が言わないから聞かないだけで。いい本丸だね」
話はそれだけ、と笹貫は部屋を出ていった。
私は笹貫が座っていた座布団を見つめ、溺れるような苦しさを感じていた。
「大将!…笹貫が重傷だ。手入れ部屋に来てくれ」
執務室に駆け込んできた薬研に連れられ、急いで向かった手入れ部屋には意識のない笹貫が横たわっていた。彼の右腕は肘から先が失われ、左足も膝から下がない。血の気が失せた顔は苦悶の表情を浮かべていた。
傍らには破れた御守りと並べて、刃毀れだらけの笹貫本体が置かれていた。触れればそのまま折れてしまうような危険な状態だ。直接霊力を流し込んである程度まで直すことにした。
「大将、無理はするなよ。最近、あまり眠れていないだろう?」
「やっぱりみんな気付いてたんだ。心配かけちゃったね」
「ああ、その中でも特に笹貫は主を気遣っていたんだ。自分の手入れで主が倒れたことを知ったら、更に気に病むだろう。ほどほどにな」
「わかった」
集中したいからと言って薬研には外に出てもらい、手入れ部屋には笹貫と私だけが残った。
深呼吸をして彼に向き合い、こんな時でも襲ってくる苦手意識を追いやった。
本体に霊力を込めていくと、少しずつ刃毀れは少なくなり笹貫の碧い目がゆっくりと開いた。
「ん…主がいる」
「笹貫、気が付いたんだね。ここは手入れ部屋だよ。気を失ってたから、部隊のみんなが運び込んでくれたの。まだ痛みはひどいと思うけどもう少し直したら手入れ札使うから。ちょっと我慢してね」
「時間掛かってもいいから、主に最後まで治して欲しいなあ、なんてジョーダン。
ありがと、怖いのにオレに触れてくれて」
「朝の話なんだけど、あなた自身が怖いわけじゃない。苦手なのはあなたの目。吸い込まれて溺れそうになるの…まるで、海みたいに」
「へぇ…」
「よく覚えてないけど、幼少期に溺れかけたとか…そんな体験があってトラウマになってるのかも。だから笹貫は悪くない。解かしてもいいなんてもう言わないで」
「そっか。ねえ、オレずっとここに帰ってきていいの?」
「当たり前でしょ。私はあなたの主で、ここがあなたの…刀剣男士笹貫の居場所。ずっとは約束できないけど、少なくとも私が審神者である限りはね」
「わかった。いいよ、今はそれで」
笹貫は安心したように目を閉じた。喋って体力を消耗したのだろう。穏やかな寝息が聞こえた。手伝い札を使った後も笹貫がすぐ目を覚ます様子はなかった為、手入れ部屋の妖精さんたちに断りを入れ、しばらく寝かせておくように頼んだ。手入れ部屋の外に控えていた薬研は、何も聞くことなく私に休息を取るように助言した。自室に戻され、緊張の糸が切れてしまった私は薬研が整えてくれた寝床に倒れ込んでしまった。
引きずられるように体が重い。まるで毎夜見る夢のように薄暗い海の底に沈んでいくような気がした。
ドボン
泡が上っていく
水面の光に手を伸ばしながら、私はゆっくりと沈んでいた。
冷たい水が体を浸食していくいつもの夢
いつもと違うのは、隣に1振りの太刀がいて一緒に沈んでいること。私よりわずかに速く沈んでいく太刀に手を伸ばし、強く抱き込んだ。
彼を二度と捨てるわけには行かない。その一心で私は水面に手を伸ばし、もがいた。
息が苦しい。私の抵抗を嘲笑うかのように、冷たい水が肺を冒していく。
(ごめん、笹貫。もう限界)
力尽きる寸前、水面から伸ばされた手に強く引き寄せられたような気がした。
「主、しっかりしろ…目ぇ覚ませ!」
「あれ…笹貫?」
「良かった…うなされてたからさ。勝手に部屋に入ってごめんね」
安心したように笹貫の目が細められた。彼は私の手を強く握っていた事に気付くと、慌ててその手を解いた。手に残った赤い跡から、笹貫の必死さがよくわかる。
「痛いよね、ごめん冷やすもの持ってくるから」
踵を返す笹貫の羽織を反射的に掴んだ。彼は碧い瞳にわずかに驚きの色を浮かべていた。
「大丈夫だから、行かないで…そばにいて」
「…いいの?」
躊躇いがちにそばに座ると、笹貫は壊れ物に触れるかのように優しく私の手を握った。
「夢を見てたの。海に沈む夢…横に笹貫の太刀があって、一緒に沈んでいってた。もがいても、なかなか水面に上がれなくて、どんどん力がなくなって溺れかけた時に誰かに引き上げられた気がしたの。それで目を開けたらあなたがいた。
助けてくれてありがとう、笹貫」
「それなら礼を言うのはこっちの方…かな。主はオレを助けてくれたんだ。夢でも、現実でも」
「あー…そうなる、のかな」
なんだか可笑しくなって、ふたりで一緒に笑ってしまった。笹貫の目はもう怖くなかった。
「ねえ、主。オレがまた海に捨てられたら助けてくれる?」
「捨てさせるつもりはないけど、いいよ。
代わりに、もしまた私が溺れかけてたら笹貫が手を引いてくれる?…なんてね」
「ん…約束する。でもオレ、夢の中には行けないからさ。主がうなされてたら起こすってことでいい?
すぐ気付けるようにそばにいるよ」
「…そんなつもりじゃなかったんだけど。ずっとそばに、って無理があるじゃない」
「そう?それなら良い方法があるよ」
頭に疑問符が飛ぶ。それから一度まばたきをすると海がそばにあった。
「だからさ、こっちの海 に主が溺れればいい。いつだって手を引いてあげるよ」
吐息が触れるほど近くの碧
私はこの碧に墜ちた
私の体はそれを見ながら、ゆっくりと沈んでいた。
冷たい海水に寒さを感じて身を震わせる。
ただ…不思議と苦しくはなかった。水面の光が遠ざかり、私の視界は碧一色に染まりながらどこまでも落ちていった。
静寂が支配する海の底に向かって…
私は、そこで目を閉じた。
閉じていた目を開くと、そこは本丸の自室だった。早朝の5時、厨当番の作る味噌汁の出汁がほんのり香っている。耳をすませば、馬当番や畑に向かう刀剣男士の足音や話し声がうっすらと聞こえるくらいで大半の者はまだ眠っている時間だった。
ここ1週間ほど、私は同じ夢を見て早朝に目を覚ますことを繰り返している。
海に沈む夢。悪夢というほどではないが、1週間も続くとさすがに堪えてくる。私は小さくため息をついた。一度病院に行った方が良いと思うのだが、原因について心当たりがあるため少しためらっている。
刀剣男士の笹貫。主として決して口には出せないが、私はこの太刀が苦手だった。彼が顕現したのは1週間前。目を合わせたら心を囚われそうになるほど深い碧い瞳が怖かった。それからずっと私は海に沈む夢を見続けている。
「主、もしかして起きてる?」
扉越しの声に思わず心臓が跳ねた。笹貫だった。
「昨日、うなされてたからさ…眠れなかったのかと思って。ああ、オレの声で起こしたなら謝るよ」
「さ、笹貫。ううん、大丈夫もう起きてたから」
「そっか…あのさ、ちょっと話したいコトあるんだけど入っていい?」
「ごめん…まだ寝間着だから、ちょっと待って」
「ん…わかった」
手早く布団を片付け、着替えと最低限の身だしなみを整えた後扉越しの笹貫に声をかけた。遠慮がちに入って来た笹貫に座布団を出し、私もその前に座布団を敷いて座った。
「どうしたの?改まって話なんて」
「オレの勘違いかもしれないんだけど、主ってオレのこと苦手…だったりする?」
碧の瞳と目が合い、反射的に視線を反らしてしまう。まずいことをしたと思って背に冷や汗が流れた。
「やっぱりそっか。ごめんね、怖いのにオレとふたりっきりにさせちゃって」
「ごめん私、笹貫の主なのに」
「いいよ。誰でも苦手なものはあるだろうし。オレはね、実は海が苦手」
「海…」
「海に捨てられたこと、思い出しちゃうからかなあ。あの時は手も足もない刀の姿だったから、静かに自分が沈んでいくのを感じているしかなかった。水面の光が遠ざかって、段々碧一色になって最後は…」
「やめて…笹貫」
「主、オレのこと苦手なら解かしてもいいよ。ずっとゆっくり眠れてないでしょ、オレが顕現してからの1週間」
「気付いてたの?」
「みんな知ってるよ。主が言わないから聞かないだけで。いい本丸だね」
話はそれだけ、と笹貫は部屋を出ていった。
私は笹貫が座っていた座布団を見つめ、溺れるような苦しさを感じていた。
「大将!…笹貫が重傷だ。手入れ部屋に来てくれ」
執務室に駆け込んできた薬研に連れられ、急いで向かった手入れ部屋には意識のない笹貫が横たわっていた。彼の右腕は肘から先が失われ、左足も膝から下がない。血の気が失せた顔は苦悶の表情を浮かべていた。
傍らには破れた御守りと並べて、刃毀れだらけの笹貫本体が置かれていた。触れればそのまま折れてしまうような危険な状態だ。直接霊力を流し込んである程度まで直すことにした。
「大将、無理はするなよ。最近、あまり眠れていないだろう?」
「やっぱりみんな気付いてたんだ。心配かけちゃったね」
「ああ、その中でも特に笹貫は主を気遣っていたんだ。自分の手入れで主が倒れたことを知ったら、更に気に病むだろう。ほどほどにな」
「わかった」
集中したいからと言って薬研には外に出てもらい、手入れ部屋には笹貫と私だけが残った。
深呼吸をして彼に向き合い、こんな時でも襲ってくる苦手意識を追いやった。
本体に霊力を込めていくと、少しずつ刃毀れは少なくなり笹貫の碧い目がゆっくりと開いた。
「ん…主がいる」
「笹貫、気が付いたんだね。ここは手入れ部屋だよ。気を失ってたから、部隊のみんなが運び込んでくれたの。まだ痛みはひどいと思うけどもう少し直したら手入れ札使うから。ちょっと我慢してね」
「時間掛かってもいいから、主に最後まで治して欲しいなあ、なんてジョーダン。
ありがと、怖いのにオレに触れてくれて」
「朝の話なんだけど、あなた自身が怖いわけじゃない。苦手なのはあなたの目。吸い込まれて溺れそうになるの…まるで、海みたいに」
「へぇ…」
「よく覚えてないけど、幼少期に溺れかけたとか…そんな体験があってトラウマになってるのかも。だから笹貫は悪くない。解かしてもいいなんてもう言わないで」
「そっか。ねえ、オレずっとここに帰ってきていいの?」
「当たり前でしょ。私はあなたの主で、ここがあなたの…刀剣男士笹貫の居場所。ずっとは約束できないけど、少なくとも私が審神者である限りはね」
「わかった。いいよ、今はそれで」
笹貫は安心したように目を閉じた。喋って体力を消耗したのだろう。穏やかな寝息が聞こえた。手伝い札を使った後も笹貫がすぐ目を覚ます様子はなかった為、手入れ部屋の妖精さんたちに断りを入れ、しばらく寝かせておくように頼んだ。手入れ部屋の外に控えていた薬研は、何も聞くことなく私に休息を取るように助言した。自室に戻され、緊張の糸が切れてしまった私は薬研が整えてくれた寝床に倒れ込んでしまった。
引きずられるように体が重い。まるで毎夜見る夢のように薄暗い海の底に沈んでいくような気がした。
ドボン
泡が上っていく
水面の光に手を伸ばしながら、私はゆっくりと沈んでいた。
冷たい水が体を浸食していくいつもの夢
いつもと違うのは、隣に1振りの太刀がいて一緒に沈んでいること。私よりわずかに速く沈んでいく太刀に手を伸ばし、強く抱き込んだ。
彼を二度と捨てるわけには行かない。その一心で私は水面に手を伸ばし、もがいた。
息が苦しい。私の抵抗を嘲笑うかのように、冷たい水が肺を冒していく。
(ごめん、笹貫。もう限界)
力尽きる寸前、水面から伸ばされた手に強く引き寄せられたような気がした。
「主、しっかりしろ…目ぇ覚ませ!」
「あれ…笹貫?」
「良かった…うなされてたからさ。勝手に部屋に入ってごめんね」
安心したように笹貫の目が細められた。彼は私の手を強く握っていた事に気付くと、慌ててその手を解いた。手に残った赤い跡から、笹貫の必死さがよくわかる。
「痛いよね、ごめん冷やすもの持ってくるから」
踵を返す笹貫の羽織を反射的に掴んだ。彼は碧い瞳にわずかに驚きの色を浮かべていた。
「大丈夫だから、行かないで…そばにいて」
「…いいの?」
躊躇いがちにそばに座ると、笹貫は壊れ物に触れるかのように優しく私の手を握った。
「夢を見てたの。海に沈む夢…横に笹貫の太刀があって、一緒に沈んでいってた。もがいても、なかなか水面に上がれなくて、どんどん力がなくなって溺れかけた時に誰かに引き上げられた気がしたの。それで目を開けたらあなたがいた。
助けてくれてありがとう、笹貫」
「それなら礼を言うのはこっちの方…かな。主はオレを助けてくれたんだ。夢でも、現実でも」
「あー…そうなる、のかな」
なんだか可笑しくなって、ふたりで一緒に笑ってしまった。笹貫の目はもう怖くなかった。
「ねえ、主。オレがまた海に捨てられたら助けてくれる?」
「捨てさせるつもりはないけど、いいよ。
代わりに、もしまた私が溺れかけてたら笹貫が手を引いてくれる?…なんてね」
「ん…約束する。でもオレ、夢の中には行けないからさ。主がうなされてたら起こすってことでいい?
すぐ気付けるようにそばにいるよ」
「…そんなつもりじゃなかったんだけど。ずっとそばに、って無理があるじゃない」
「そう?それなら良い方法があるよ」
頭に疑問符が飛ぶ。それから一度まばたきをすると海がそばにあった。
「だからさ、
吐息が触れるほど近くの碧
私はこの碧に墜ちた
