刀さに
「審神者さま、おはようございます」
煙と共にこんのすけが姿を現した。耳がしゅんと垂れ、元気がない。
「おはようございます、こんのすけ。どうされました…わざわざこちらに来られるということは、急ぎの用でしょうか」
「昨夜遅く櫻音様が逝去されました」
「師匠が…?」
「はい。その件に関して、特別任務の要請がございます。任意ですので、お断りいただいても構いません」
「そうですか。その任務とは?」
「櫻音様の本丸に赴き、夜伽役を務めていただく任務になります。お引き受け下さる場合には護衛の男士を一振りお連れください」
「わかりました。師匠には研修生時代大変お世話になりましたからね。その任務お受けします。準備がありますので、出立は夕方で構いませんか?」
「問題ありません。では、またお迎えに上がりますね」
「主、おはよう。政府から文が届いているぞ。定例会議の知らせのようだが…どうした」
執務室に入って来た鶴丸が涙ぐむ審神者の姿を見つけた。金の目を見開き、審神者に駆け寄る。慌てて懐紙で涙を拭った審神者は、先程こんのすけに師匠の訃報を伝えられた事を話した。
「そうか。本丸の連中には近侍の俺から伝えておこう。急ぎの業務はないから、きみは休んでいろ。酷い顔色をしているぞ」
「ありがとうございます。しかし、どなたかに護衛を頼まなくては」
「俺でいいだろう。明日は非番だから、気にすることはない。きみの不在時の采配は初期刀に頼んでおくから、少しでも休んでくれ」
自室に戻る審神者を見届け、届いた文を机に置き鶴丸は執務室を後にした。
「主、入ってもいいかい」
昼餉ののった盆を手に、鶴丸は審神者の私室の外から声をかけた。開いた障子から顔を出す審神者の目の縁は赤く、泣いていた事がわかる。それには触れず、鶴丸はわざと明るい声を出した。
「光坊お手製の鍋焼きうどんだ。ちなみに麺は青江が打った。食べられそうかい」
「本格的ですね、もちろんいただきます。ありがとうございます、鶴丸」
「光坊も青江も喜ぶだろう、後で二振りに声を掛けてやってくれ。器は適当な時間に取りに来るから、食べ終わったら出しといてくれよ」
「あの…お昼、もう済ませましたか」
盆を渡し、踵を返そうとした鶴丸に審神者は問い掛けた。
「いや…俺はまだだが」
「良ければ、一緒に…どうですか」
「いいぜ、用意してくる。伸びる前に先に食っててくれ」
「ありがとうございます」
折りたたみ式の丸テーブルに向かい合って座り、食事を済ませた。湯呑みの茶を一口飲み、審神者は生前の師匠との思い出を話し始めた。見習い時代の審神者の話は興味深く、時折相槌を打つ以外、口を挟まないようにして鶴丸は聞き入っていた。浮かない顔をしていた審神者の表情が段々と明るくなっていく様子を見て、内心安堵した。
「師匠から主命を受けた私の世話係…というか教育係は鶯丸だったんです。厳しい刀剣男士でしたから、この本丸に顕現した時はとても緊張しました。でもまさか、顕現の口上の次の言葉が『茶が飲みたい』とは思いませんでした」
「だからあの時、通販で高級玉露と茶道具一式を取り寄せていたんだな」
「半端な物を出したら叱られると思っていたので。随分と前の出来事ですが、よく覚えていますね」
「いつも冷静なきみが鬼気迫る顔をしていたからな。珍しくて、驚いたんだ」
「そうでしたか。主として常に冷静であることを心掛けていますが、まだまだ未熟でしたね」
「いや、きみはそのままでいい」
審神者は目を見開き、鶴丸の黄金色の瞳を見つめた。そこに、驚きを求める飄々とした神様はいなかった。ただ真摯に己の主の心痛を憂う一振りの姿があった。
「隠さないでくれ…心を殺すな。今の俺にはきみの涙を拭う手がある。一人で堪える必要はない」
「つ、鶴丸…」
一人と一振りの間を隔てるテーブルを強引に脇に寄せ、鶴丸は審神者を抱き寄せた。
「安心しろ、こうすればきみの顔は誰にも見えない」
鶴丸の腕から逃れようと審神者は抵抗したが、その度に強くなる抱擁の力には勝てず大人しくなった。やがて、小さな嗚咽が漏れ出す。規則正しいリズムで優しく背中を叩かれ、審神者は静かに涙を流した。
「もう大丈夫です。ありがとうございます、鶴丸」
ひとしきり泣いて、審神者は幾分すっきりとした顔つきになった。
「そうかい、少しは吐き出せたようだな。普段からもう少し頼ってもらえるとありがたいんだが…」
「ごめんなさいね。あまり心配を掛けないように気を付けるようにします」
「きみというやつは全く…」
呆れた様子で、鶴丸は2人分の食器をまとめ始めた。自分で片付けるといった審神者を制し、重ねた食器を持って出ていった。時計を見ると、こんのすけが迎えに来る時間が迫っている。鶴丸には後で礼を言う事にして、まずは準備を済ませることにした。
動きやすい黒のワンピースに着替えて転送ゲートに向かったが、まだこんのすけは到着していないようだった。
「すまない、待たせたか」
「いま来たばかりです。ご心配なく」
戦装束に着替えてきた鶴丸に先ほどのお礼を言い、転送装置の前に並んでこんのすけを待った。数分後、姿を見せたこんのすけに従い、師匠の本丸に飛んだ。
「着きましたよ」
転送装置から踏み出すと、清涼な風が頬を撫でていった。懐かしく、それでいて身の引き締まるような霊力に満ちた本丸には師匠の面影を感じる。
「よく来てくれたな」
出迎えに現れたのは審神者の元教育係の鶯丸だった。極めた戦装束を身に纏い、凛とした立ち姿は記憶のままだが顔には疲労と憔悴の跡が見える。
「鶯丸様、この度はご愁傷様です」
「主の最期の願いを聞いてくれたこと、感謝する。そして…本当に申し訳ない」
「そんな…謝らないでください」
「いいや、そうではない。
すまないな。これから迷惑を、かける」
その時、背後の転送装置から警告音が鳴った。驚いて振り返った先、転送装置の操作パネルに一振の短刀が突き刺さっていた。その下にはこんのすけが倒れている。
「おい戻るぞ主っ、ここはおかしい!」
血相を変えた鶴丸に手を取られ、バチバチと火花を散らし始めた転送装置に駆け出した。しかしそれは鶯丸によって阻止されてしまった。互いに刀を抜いて睨み合っているうちに、転送装置はこんのすけだけを連れて、その後沈黙した。完全に壊れてしまったのだろう。政府が異変に気付き救援を寄越してくれるまで閉じ込められることになってしまった。
「何の真似か知らないが、うちの主に危害を加えるつもりなら容赦しない」
審神者を背にかばい、鶴丸は鶯丸の喉元に切っ先を向けた。その様子を見た鶯丸は刀を納め、もう一度謝罪した。
「何を考えている…返答によってはお前を破壊することになるぜ」
「鶴丸、刀を納めなさい。閉じ込められた以上、ここで争うのは得策ではありません。
鶯丸様、納得のいく説明をして頂けますね」
「すまない、今は話せない。だが、君達の安全は我が名に誓って保障する」
「どうだかな」
鶯丸を睨みながらも、鶴丸はゆっくりと刀を鞘に納めた。
「感謝する。部屋を用意しているから、まずは体を休めてくれ。その後、主に顔を見せてやってくれるか」
「もちろんです。その為に来たのですから」
「そうだな。主…いや、おうかも喜ぶだろう」
「なぜ、その名を?」
目を丸くする審神者の隣で、鶴丸が合点がいったというようにほう、と息を吐いた。
「きみは自らの主を隠すつもりなんだな」
「…こっちだ」
鶴丸の問いに答えず、鶯丸は先導して廊下を歩き始めた。彼の表情を見ることは出来なかったが、その拳は硬く握られていた。
「足りない物があれば言ってくれ。また後で来る」
そう言って和室に審神者と鶴丸を残し、鶯丸は去った。
「やれやれ、どうする主」
「神隠しを企てることは重罪です。即破壊、もしくは刀解処分になります」
「そうだな。やっぱり折っちまうか」
「でも、まだ鶯丸様は何も言葉にしていない。彼の話を聞いてからでも、その判断は遅くないでしょう。しばらく救援もこないでしょうし」
「主がそう言うなら。これからどうするかい」
「この本丸、おかしいと思いませんか?刀剣男士の気配はするのに鶯丸様以外姿が見えません。それと転送装置に刺さっていた短刀、あれは平野藤四郎様のものでした。気配もそうです、姿はなかったけれど。
まずは他の刀剣男士を探したい。鶴丸、着いてきてくれますか」
「ああ、周囲の警戒は任せてくれ」
審神者と鶴丸はあてがわれた部屋から抜け出し、探索を始めた。薄暗い廊下を歩いて、手近の部屋の障子を1つずつ開けて中を伺うが、刀剣男士の姿は見えない。本丸全体からうっすらと気配を感じるだけだった。
「誰もいませんね」
「奴に見つかる前に一度戻るか」
「そうしましょうか」
もと来た廊下を戻ろうとした時、生臭い風が吹いた。吐き気を催すほどの臭気に足を止めて周囲を伺う。すると、瞬く間に廊下全体が暗闇に包まれた。墨で塗りつぶしたかのような黒の中、わずかに見える鶴丸の羽織りを掴んだ。
掴んだソレは首をぐるりと回転させ、血に染まった唇を三日月形に歪ませた。
ケタケタケタケタ
キャハハハハハッ
一緒にぃ逝こウよーぉ
土気色の無数の手が審神者の手足を拘束した。血に塗れた、鶴丸モドキの何かが白い手を審神者の首に掛け、ゆっくり力を込めていく。
「おい、しっかりしろ!」
「鶯丸、様?」
気付けば審神者は廊下に倒れており、少し離れた場所には刀の姿に戻った鶴丸が落ちていた。駆け寄ろうとしたが、足が震えて立ち上がる事が出来ない。
「まだ動くな。待っていろよ」
そう言い聞かせ、鶯丸は刀の鶴丸を拾い上げて審神者に手渡した。そのまま、審神者を横抱きにして部屋まで戻った。
柔らかい座布団の上に審神者を座らせ、鶯丸は怪我の有無を確認した。近付いてくる鶯丸を警戒したのか、鶴丸の本体が震え出した。
「茶が冷めてしまったな…淹れ直してくるが、今度は絶対に部屋から出るなよ」
「ごめんなさい…」
「よし。鶴丸の再顕現はできるか?」
「やってみます」
「そうか、戻ってきたら話す事がある」
退室する鶯丸の表情は髪に隠れて見えなかった。
鶴丸の本体を撫で、霊力を注ぎ込むとまばゆい光と共に鶴丸が顕現した。
「悪かった…主。きみを守る事が出来なかった。闇に手足を拘束されて、引きずり込まれるきみを見ているしか…俺は」
「大丈夫ですから。私は無事です」
赤子のように縋る鶴丸の背中を撫でて落ち着かせて隣の座布団に座らせた。
「ずっと見ていたんだが…鶯丸は、きみを闇から切り離す時に石切丸とにっかり青江を使っていた。どちらも本体のみで、男士の姿がなかった。なあ主、この本丸には鶯丸以外刀剣男士がいないんじゃないか」
「その可能性はあるかもしれません。本丸の守備が甘いと、良からぬモノが入り込む隙が生まれますから。でも、それは鶯丸様もよく知っているはずです。万が一遡行軍が現れたらと思うと刀剣男士の顕現を解くのは得策ではない。よほど本丸の結界に自信があったのか…」
「破られてもいいと考えている。俺たちを囮にするつもりなのかもしれないぜ」
「そんなこと鶯丸様はしません。何か理由があるはずです」
「わかったよ。だがな主、鶯丸を信用し過ぎるのはやめた方がいいんじゃないか。忘れているようだが、奴は俺たちを閉じ込めたんだ」
「忘れてなんて…」
言い淀む審神者の脳裏には、研修生時代の記憶が駆け巡っていた。一般家庭の出身で審神者業のことなど何一つ知らなかった中で招集を受け、死に物狂いで学び審神者見習いの資格を得たこと。師匠の元で本丸運営の基礎を学んだこと。
そして、その中で分不相応にも神様を恋い慕ってしまったこと。教育係としてつけられた鶯丸は、皮肉にも審神者の初恋の相手になった。もちろんその恋は誰にも知られることなく胸の奥で潰れてしまったけれど。
「主、顔色が悪いぞ」
「っ大丈夫、心配かけてごめんなさい」
審神者は笑顔を作った。これは、誰にも心を悟られないように身に着けた、感情を殺す笑み。鶴丸は何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言葉にすることはなかった。
沈黙に耐えかねた頃、鶯丸が急須と湯呑みを盆に載せて戻ってきた。鶴丸によって毒見を済まされたお茶と干菓子が並ぶ。机を挟んで向き合った鶯丸が口を開いた。
「もう察していると思うが、この本丸の刀剣男士は俺以外顕現を解いている。主の最期の望みを叶える為だ」
「やはりそうでしたか。師匠の望みとは何だったのでしょう」
「政府に亡骸を渡したくない、とうわ言のようにこぼしていた。だから俺は、明日の夜明けと共におうかを隠す。救援を要請しておいたから、君達は直に救助されるだろう。心配はいらない、主の死に暴走した刀剣男士が事件を起こし、不運にも巻き込まれてしまっただけだ。罰を受けることはないさ」
「その話を聞いて、私が引き下がるとお思いですか?」
審神者は素早く鶴丸に目配せした。意図を理解した鶴丸は目の前の机を蹴り上げて鶯丸にぶつけた。茶器と干菓子が宙を舞い、玉露が畳にこぼれる。
「走れ主!」
「はい!」
逃げ出す1人と1振りの後ろ姿を見て、鶯丸は笑みを浮かべていた。
「立派になったな」
そう満足そうに呟き、刀を抜いた鶯丸はゆっくりとした足取りで後を追い始めた。
「主、大丈夫か」
「はい、っ何とか」
鶯丸からできる限り距離を取り、物置らしき部屋の奥に身を潜めた。本丸の敷地は広く、闇雲に探していては亡骸がある部屋に辿り着く事が出来ないと判断したからだ。簡易的な目くらましの結界を張り、周囲を探る式神を作り出した。
「お願いね、鶯丸様に見つからないように気をつけて」
闇にとけるような黒色をした3体の猫の頭を撫でる。彼らはそれぞれ別方向の壁をすり抜け姿を消した。
「後はここであの子達の報告を待ちましょう。鶯丸様仕込みの結界術ですから、しばらくは保ちます。今のうちにこれからどう動くか相談しておきましょうか」
「結界術に式の操作まで出来るのか。驚いた、きみは神職や陰陽師の家系ではないのだろう」
「本丸を運営するにあたって命を落とす確率を少しでも減らす為に片っ端から厳しく教育されましたから。まさか、鶯丸様に使うことになるとは思いませんでしたけど」
「すべて、奴に教わったのか?」
「師匠には通常の任務もありましたから、大体はそうです」
「そうか…それは少し妬けるな」
「こんな時に茶化すのはやめてください」
「茶化してなんてないさ。俺が思うにきみは…」
暗闇に光る金の目はまっすぐに審神者を射抜いた。胸の奥に隠していた思いを見透かされ、引きずり出される。
「奴に惚れていたんだろう?」
審神者の唇は震えていた。取り繕う言葉が何一つ出てこない。それはもう、肯定している事と同じだった。1つ息を吐き、審神者は顔をくしゃりと歪めた。
「急に戦争に参加しろと言われて、右も左もわからなかった。そんな時、付きっきりで世話を焼いて、味方になってくれる方がいれば、多少なりとも好意を寄せるでしょう。
今だって、出来ることなら鶯丸様を説得して神隠しをやめさせたいと思っています。
師匠の為じゃなく、鶯丸様自身の為に。彼はこんなところで刀解処分になるような刀じゃない」
言い切った後、審神者はふっと表情を緩めた。長年つかえていたものを吐き出して安堵したかのような晴れやかな笑みだった。
「これで私も政府に処分されるでしょうか」
「させるかよ…」
「では、私の共犯になってくれるのですか?」
「いいか?…俺はきみの刀剣男士だ。鶯丸のことは気に食わないし、今でも折ってやりたいと思っている。だが、他ならぬ主の願いなら俺は手を貸す。きみのいない世界など、死んでいるのと同じだからな」
強く言い切った鶴丸に審神者は目を丸くした。予想外の返答に戸惑っているのか、金の目を見つめたまま微動だにしない。
「にゃー」
「あ…式が」
偵察を終えた黒猫が存在を訴えるように鳴いた。帰ってきたのは一体のみで、あちこち斬られた跡がある。半分になってしまった耳を撫でていると、式は甘えるように一声鳴いてやがて紙に戻ってしまった。
「この子が教えてくれました。師匠の遺体は大広間に安置されているそうです。ここを出て右の突き当たりを左に曲がった場所です。鶯丸様の気配は遠いので、先に大広間に行って結界を張りましょう。途中で残りの式も回収出来るといいのですが」
「そうか、わかった。俺から離れるなよ」
物置の戸を開け、様子を伺う。薄暗い廊下のひんやりとした空気が肌に触れた。辺りに気配がないことを確認し、審神者と鶴丸は大広間に向かって歩き始めた。
「待て、主」
先導する鶴丸が足を止めた。
鶴丸越しに奥に目をやると、目的地の大広間に続く障子がわずかに開いていることに気付いた。漏れ出た光が廊下を照らしている。
審神者と鶴丸は警戒を強めて歩を進め、大広間を覗いた。
そこにあったのは、棺に安置された師匠の遺体をぐるりと囲む刀種の様々なむき出しの刀だった。それらはまるで師匠の守り番を務めるように鋭く輝き、先端を畳に突き立てている。
異様な光景に審神者は悲鳴を上げそうになり、慌てて両手で口を押さえた。
「敵意は感じないが…入ってみるか?」
「はい。気をつけましょう」
警戒しつつ一歩踏み入れるが、部屋の様子に変化はない。立ち上る線香の香りがほんの少し強くなっただけだ。棺の近くに寄り、鶴丸と並んで正座をして手を合わせる。周囲を取り囲む刀に一言断りを入れて師匠の顔を覗き込んだ。白粉をはたかれ、紅を差した師匠はまるで眠っているかのように穏やかだった。組まれた右手の甲に鶯丸の紋が刻まれてさえいなければ、黄泉に旅立つ死者の静かな姿に違いなかった。
「そういうことですか…」
審神者は強く唇を噛んだ。師匠はあろうことか従えるべき刀剣男士に体を許し、真名を教えて主従関係を完全に逆転させていた。そうでなければ鶯丸の紋が顕れることなど有り得ない。もしも、鶯丸の行動が主を失った末の暴走であればまだわずかに望みはあった。師匠の遺体を救援が来るまで隠し通し、その間に説得に成功すれば鶯丸の刀解処分は回避出来ると考えていた。
でも、それはもう叶わない。
重罪を犯したのは師匠の方だった。
「主、そんなに唇を噛むな。痛むだろう」
鶴丸の指が審神者の唇を拭った。指についた血をおもむろに見つめ、鶴丸はまるで紅を引くように審神者の上唇にそれを塗る。
「何をしているのですか」
「綺麗だ…」
呟く鶴丸の焦点が合っていない。審神者の頭の中で警鐘が鳴る。彼はさっき、お茶を毒見していた。敵地の真ん中で、敵が出した飲食物に口をつけるなんて迂闊なこと普段の鶴丸がするはずないのに。審神者自身もお茶を飲んでいたことを思い出したが、今のところ体に異常は見られない。とすれば、刀剣男士のみに作用する薬なのだろう。審神者一人であれば計画に支障はきたさないと判断されたということだ。
力なく倒れてくる鶴丸の体を支えながら、思考を巡らせた。迷っている時間はない。審神者は自らの唇に歯を当てて傷つけると流れた血を口移しで鶴丸に飲ませた。霊力の塊を直接与えることで薬の回りを止めようとしたのだ。
しかし、審神者の行動も空しく鶴丸は意識を手放してしまった。細身とはいえ成人男性ひとりを抱え上げることは出来ず、引きずるようにして部屋の隅に寝かせる事が精一杯だった。
持ち物から簡単な手入れ道具を取り出し、部屋に結界を張る。気休め程度だろうが、少しでも時間を稼ぐために2重結界にしておいた。
鶴丸に声を掛けつつ霊力を込めて本体の手入れを行うが、彼は目を覚まさない。
「やはり、ここにいたのか」
閉めた障子の向こうに鶯丸が立っている。時間の問題と思っていたが、とうとう追い付かれてしまった。結界にはヒビが入り、次の瞬間全て砕け散った。
阻むものがなくなった障子がゆっくりと開けられる。
審神者は倒れている鶴丸の本体を手に取り、彼を背にかばって立ち上がった。
「鶴丸に何を飲ませたんですか。お答えください、鶯丸様」
「何もしていないさ」
「嘘、なら何故こんな状態に」
「すまないが、少し眠ってもらった。ここは俺と本丸の刀の力で作り出した擬似神域だ。転移装置を壊した後、俺は君たちを隠した。気付かなかっただろう?」
「そんな…早く現世に帰してください。さもなくばあなたを斬ります」
そう言って、審神者は鶴丸の本体を引き抜こうとしたが指1本動かすことが出来なかった。
「無理だ。自分の姿を確認してみるといい」
鶯丸は審神者に手鏡を覗かせた。そこにあったのは目も髪もすっかり鶯丸の色に染まった審神者の姿だった。
「神気侵食度は重度寄りの中といったところか。君はもう少しで俺の眷属になる」
「どうしてこんなことを…何で私を呼んだの?
私の気持ちに応える気はないくせに、随分と酷い神様」
「生前のおうかは、強制的に審神者にされた君を心配していた。もしも、審神者に嫌気が差しているようなら、君のことも一緒に連れて行ってほしい、と
おうかの最期の願いは1つではないんだ」
鶯丸は、棺に眠る師匠の頬を撫で慈しみに満ちた笑みを浮かべた。
「俺と来れば痛みも苦しみも取り除いてやれる。現世には戻せないが、不自由な生活はさせないと誓おう」
まるでプロポーズのような甘い言葉が脳を痺れさせる。嬉しいと感じてしまうのは神気に侵されているからだろうか。鶯丸に差し伸べられた手を取ろうと一歩踏み出した。
するとそれを阻止するように、抱えた鶴丸の本体がわずかに震えて審神者は足を止めた。
「主のことは連れて行かせない。永遠の鳥籠になど入れてやるものか。俺は、最期の瞬間まで自由に飛び回る主と共に居たい。いや、願わくばその黄泉路の先まで共にいきたいんだよ」
「つる…まる?」
強い力で後ろに引かれた審神者は鶴丸の腕の中にいた。見上げた金の目は鶯丸を強く睨みつけている。
「主は俺の後ろにいてくれ。
しかし、その色はやはり気に入らないな」
鶴丸は羽織を脱ぎ、審神者に着せた。フードを目深に被らせて髪と目を隠すと、審神者から己の本体を受け取った。
「待たせて悪かったな鶯丸。俺が相手だ、主には指1本触れさせない」
切っ先を鶯丸の喉元に向け、鶴丸は鞘を捨てた。その様子にわずかに目を見開いた鶯丸はふっと表情を緩めた。
「そうか、安心した。俺が連れて行く必要はもうなさそうだな」
鶯丸は自身の本体を畳に突き立て、腰の留め具を外して鞘を置いた。そして、棺に眠る遺体を丁寧に抱き上げた。
「俺たちはもういく。迷惑をかけて悪かったな。
…君は良き審神者に育った、俺とおうかの誇りだ」
そう言って、美しく微笑む鶯丸に、審神者は何も言えなかった。腕の中に眠る師匠の魂はとっくに体を離れており、このまま連れて行っても再会は叶わない。それに気付いていないはずはないのに、愛した人の亡骸と共に過ごす孤独を選んだ鶯丸の決意に胸が痛んだ。
「どうか、お元気で」
涙を堪え、精一杯の笑顔で審神者は鶯丸を送り出した。
「君のこれからの生に祝福を。ではな」
その言葉を最後に、鶯丸の姿は消えた。
本丸が揺らぎ、バランスを崩して倒れる審神者を鶴丸がしっかりと抱きとめた。
「帰ろうか、俺たちの本丸に」
「はい」
鶴丸が投げ捨てた鞘を拾い、支えられながら大広間を抜けた。
刺さっていた刀が鶯丸のものを残して全て消えている。静寂に包まれた本丸を歩き、玄関に戻った。
壊された転送装置の前に立つと、審神者は何かを思い出したかのように鶴丸を呼んだ。
「私の髪と目、元に戻っていますか?」
「ん?ああ大丈夫だ。きれいになってる」
「からかわないでください。ああ、髪はまだ戻っていませんね。しばらく療養施設行きになるかもしれません」
若草色の髪を見つめる審神者の目は美しい金色から徐々に濃い茶色になった。ゆっくりと、審神者生来の色に戻っていく様子を見て、鶴丸は見えないように拳を握った。
「寂しいなら一緒にいてやるぜ。それとも、1人で休養した方が休まるか?何にせよ、本丸の心配はしなくていいから、しっかり療養してくれよ」
「…一緒にいてくれますか、鶴丸」
「きみが望むなら。疲れただろう?救援が来るまで眠るといい。ずっと、そばにいるから」
鶴丸に膝枕をされた審神者はすぐに眠りに落ちた。規則正しい呼吸音を聞きながら、鶴丸は審神者の耳元に唇を寄せた
「きみが望むなら、永遠にそばにいる」
そう呟いて、審神者の髪を一筋掬って口付けた。
煙と共にこんのすけが姿を現した。耳がしゅんと垂れ、元気がない。
「おはようございます、こんのすけ。どうされました…わざわざこちらに来られるということは、急ぎの用でしょうか」
「昨夜遅く櫻音様が逝去されました」
「師匠が…?」
「はい。その件に関して、特別任務の要請がございます。任意ですので、お断りいただいても構いません」
「そうですか。その任務とは?」
「櫻音様の本丸に赴き、夜伽役を務めていただく任務になります。お引き受け下さる場合には護衛の男士を一振りお連れください」
「わかりました。師匠には研修生時代大変お世話になりましたからね。その任務お受けします。準備がありますので、出立は夕方で構いませんか?」
「問題ありません。では、またお迎えに上がりますね」
「主、おはよう。政府から文が届いているぞ。定例会議の知らせのようだが…どうした」
執務室に入って来た鶴丸が涙ぐむ審神者の姿を見つけた。金の目を見開き、審神者に駆け寄る。慌てて懐紙で涙を拭った審神者は、先程こんのすけに師匠の訃報を伝えられた事を話した。
「そうか。本丸の連中には近侍の俺から伝えておこう。急ぎの業務はないから、きみは休んでいろ。酷い顔色をしているぞ」
「ありがとうございます。しかし、どなたかに護衛を頼まなくては」
「俺でいいだろう。明日は非番だから、気にすることはない。きみの不在時の采配は初期刀に頼んでおくから、少しでも休んでくれ」
自室に戻る審神者を見届け、届いた文を机に置き鶴丸は執務室を後にした。
「主、入ってもいいかい」
昼餉ののった盆を手に、鶴丸は審神者の私室の外から声をかけた。開いた障子から顔を出す審神者の目の縁は赤く、泣いていた事がわかる。それには触れず、鶴丸はわざと明るい声を出した。
「光坊お手製の鍋焼きうどんだ。ちなみに麺は青江が打った。食べられそうかい」
「本格的ですね、もちろんいただきます。ありがとうございます、鶴丸」
「光坊も青江も喜ぶだろう、後で二振りに声を掛けてやってくれ。器は適当な時間に取りに来るから、食べ終わったら出しといてくれよ」
「あの…お昼、もう済ませましたか」
盆を渡し、踵を返そうとした鶴丸に審神者は問い掛けた。
「いや…俺はまだだが」
「良ければ、一緒に…どうですか」
「いいぜ、用意してくる。伸びる前に先に食っててくれ」
「ありがとうございます」
折りたたみ式の丸テーブルに向かい合って座り、食事を済ませた。湯呑みの茶を一口飲み、審神者は生前の師匠との思い出を話し始めた。見習い時代の審神者の話は興味深く、時折相槌を打つ以外、口を挟まないようにして鶴丸は聞き入っていた。浮かない顔をしていた審神者の表情が段々と明るくなっていく様子を見て、内心安堵した。
「師匠から主命を受けた私の世話係…というか教育係は鶯丸だったんです。厳しい刀剣男士でしたから、この本丸に顕現した時はとても緊張しました。でもまさか、顕現の口上の次の言葉が『茶が飲みたい』とは思いませんでした」
「だからあの時、通販で高級玉露と茶道具一式を取り寄せていたんだな」
「半端な物を出したら叱られると思っていたので。随分と前の出来事ですが、よく覚えていますね」
「いつも冷静なきみが鬼気迫る顔をしていたからな。珍しくて、驚いたんだ」
「そうでしたか。主として常に冷静であることを心掛けていますが、まだまだ未熟でしたね」
「いや、きみはそのままでいい」
審神者は目を見開き、鶴丸の黄金色の瞳を見つめた。そこに、驚きを求める飄々とした神様はいなかった。ただ真摯に己の主の心痛を憂う一振りの姿があった。
「隠さないでくれ…心を殺すな。今の俺にはきみの涙を拭う手がある。一人で堪える必要はない」
「つ、鶴丸…」
一人と一振りの間を隔てるテーブルを強引に脇に寄せ、鶴丸は審神者を抱き寄せた。
「安心しろ、こうすればきみの顔は誰にも見えない」
鶴丸の腕から逃れようと審神者は抵抗したが、その度に強くなる抱擁の力には勝てず大人しくなった。やがて、小さな嗚咽が漏れ出す。規則正しいリズムで優しく背中を叩かれ、審神者は静かに涙を流した。
「もう大丈夫です。ありがとうございます、鶴丸」
ひとしきり泣いて、審神者は幾分すっきりとした顔つきになった。
「そうかい、少しは吐き出せたようだな。普段からもう少し頼ってもらえるとありがたいんだが…」
「ごめんなさいね。あまり心配を掛けないように気を付けるようにします」
「きみというやつは全く…」
呆れた様子で、鶴丸は2人分の食器をまとめ始めた。自分で片付けるといった審神者を制し、重ねた食器を持って出ていった。時計を見ると、こんのすけが迎えに来る時間が迫っている。鶴丸には後で礼を言う事にして、まずは準備を済ませることにした。
動きやすい黒のワンピースに着替えて転送ゲートに向かったが、まだこんのすけは到着していないようだった。
「すまない、待たせたか」
「いま来たばかりです。ご心配なく」
戦装束に着替えてきた鶴丸に先ほどのお礼を言い、転送装置の前に並んでこんのすけを待った。数分後、姿を見せたこんのすけに従い、師匠の本丸に飛んだ。
「着きましたよ」
転送装置から踏み出すと、清涼な風が頬を撫でていった。懐かしく、それでいて身の引き締まるような霊力に満ちた本丸には師匠の面影を感じる。
「よく来てくれたな」
出迎えに現れたのは審神者の元教育係の鶯丸だった。極めた戦装束を身に纏い、凛とした立ち姿は記憶のままだが顔には疲労と憔悴の跡が見える。
「鶯丸様、この度はご愁傷様です」
「主の最期の願いを聞いてくれたこと、感謝する。そして…本当に申し訳ない」
「そんな…謝らないでください」
「いいや、そうではない。
すまないな。これから迷惑を、かける」
その時、背後の転送装置から警告音が鳴った。驚いて振り返った先、転送装置の操作パネルに一振の短刀が突き刺さっていた。その下にはこんのすけが倒れている。
「おい戻るぞ主っ、ここはおかしい!」
血相を変えた鶴丸に手を取られ、バチバチと火花を散らし始めた転送装置に駆け出した。しかしそれは鶯丸によって阻止されてしまった。互いに刀を抜いて睨み合っているうちに、転送装置はこんのすけだけを連れて、その後沈黙した。完全に壊れてしまったのだろう。政府が異変に気付き救援を寄越してくれるまで閉じ込められることになってしまった。
「何の真似か知らないが、うちの主に危害を加えるつもりなら容赦しない」
審神者を背にかばい、鶴丸は鶯丸の喉元に切っ先を向けた。その様子を見た鶯丸は刀を納め、もう一度謝罪した。
「何を考えている…返答によってはお前を破壊することになるぜ」
「鶴丸、刀を納めなさい。閉じ込められた以上、ここで争うのは得策ではありません。
鶯丸様、納得のいく説明をして頂けますね」
「すまない、今は話せない。だが、君達の安全は我が名に誓って保障する」
「どうだかな」
鶯丸を睨みながらも、鶴丸はゆっくりと刀を鞘に納めた。
「感謝する。部屋を用意しているから、まずは体を休めてくれ。その後、主に顔を見せてやってくれるか」
「もちろんです。その為に来たのですから」
「そうだな。主…いや、おうかも喜ぶだろう」
「なぜ、その名を?」
目を丸くする審神者の隣で、鶴丸が合点がいったというようにほう、と息を吐いた。
「きみは自らの主を隠すつもりなんだな」
「…こっちだ」
鶴丸の問いに答えず、鶯丸は先導して廊下を歩き始めた。彼の表情を見ることは出来なかったが、その拳は硬く握られていた。
「足りない物があれば言ってくれ。また後で来る」
そう言って和室に審神者と鶴丸を残し、鶯丸は去った。
「やれやれ、どうする主」
「神隠しを企てることは重罪です。即破壊、もしくは刀解処分になります」
「そうだな。やっぱり折っちまうか」
「でも、まだ鶯丸様は何も言葉にしていない。彼の話を聞いてからでも、その判断は遅くないでしょう。しばらく救援もこないでしょうし」
「主がそう言うなら。これからどうするかい」
「この本丸、おかしいと思いませんか?刀剣男士の気配はするのに鶯丸様以外姿が見えません。それと転送装置に刺さっていた短刀、あれは平野藤四郎様のものでした。気配もそうです、姿はなかったけれど。
まずは他の刀剣男士を探したい。鶴丸、着いてきてくれますか」
「ああ、周囲の警戒は任せてくれ」
審神者と鶴丸はあてがわれた部屋から抜け出し、探索を始めた。薄暗い廊下を歩いて、手近の部屋の障子を1つずつ開けて中を伺うが、刀剣男士の姿は見えない。本丸全体からうっすらと気配を感じるだけだった。
「誰もいませんね」
「奴に見つかる前に一度戻るか」
「そうしましょうか」
もと来た廊下を戻ろうとした時、生臭い風が吹いた。吐き気を催すほどの臭気に足を止めて周囲を伺う。すると、瞬く間に廊下全体が暗闇に包まれた。墨で塗りつぶしたかのような黒の中、わずかに見える鶴丸の羽織りを掴んだ。
掴んだソレは首をぐるりと回転させ、血に染まった唇を三日月形に歪ませた。
ケタケタケタケタ
キャハハハハハッ
一緒にぃ逝こウよーぉ
土気色の無数の手が審神者の手足を拘束した。血に塗れた、鶴丸モドキの何かが白い手を審神者の首に掛け、ゆっくり力を込めていく。
「おい、しっかりしろ!」
「鶯丸、様?」
気付けば審神者は廊下に倒れており、少し離れた場所には刀の姿に戻った鶴丸が落ちていた。駆け寄ろうとしたが、足が震えて立ち上がる事が出来ない。
「まだ動くな。待っていろよ」
そう言い聞かせ、鶯丸は刀の鶴丸を拾い上げて審神者に手渡した。そのまま、審神者を横抱きにして部屋まで戻った。
柔らかい座布団の上に審神者を座らせ、鶯丸は怪我の有無を確認した。近付いてくる鶯丸を警戒したのか、鶴丸の本体が震え出した。
「茶が冷めてしまったな…淹れ直してくるが、今度は絶対に部屋から出るなよ」
「ごめんなさい…」
「よし。鶴丸の再顕現はできるか?」
「やってみます」
「そうか、戻ってきたら話す事がある」
退室する鶯丸の表情は髪に隠れて見えなかった。
鶴丸の本体を撫で、霊力を注ぎ込むとまばゆい光と共に鶴丸が顕現した。
「悪かった…主。きみを守る事が出来なかった。闇に手足を拘束されて、引きずり込まれるきみを見ているしか…俺は」
「大丈夫ですから。私は無事です」
赤子のように縋る鶴丸の背中を撫でて落ち着かせて隣の座布団に座らせた。
「ずっと見ていたんだが…鶯丸は、きみを闇から切り離す時に石切丸とにっかり青江を使っていた。どちらも本体のみで、男士の姿がなかった。なあ主、この本丸には鶯丸以外刀剣男士がいないんじゃないか」
「その可能性はあるかもしれません。本丸の守備が甘いと、良からぬモノが入り込む隙が生まれますから。でも、それは鶯丸様もよく知っているはずです。万が一遡行軍が現れたらと思うと刀剣男士の顕現を解くのは得策ではない。よほど本丸の結界に自信があったのか…」
「破られてもいいと考えている。俺たちを囮にするつもりなのかもしれないぜ」
「そんなこと鶯丸様はしません。何か理由があるはずです」
「わかったよ。だがな主、鶯丸を信用し過ぎるのはやめた方がいいんじゃないか。忘れているようだが、奴は俺たちを閉じ込めたんだ」
「忘れてなんて…」
言い淀む審神者の脳裏には、研修生時代の記憶が駆け巡っていた。一般家庭の出身で審神者業のことなど何一つ知らなかった中で招集を受け、死に物狂いで学び審神者見習いの資格を得たこと。師匠の元で本丸運営の基礎を学んだこと。
そして、その中で分不相応にも神様を恋い慕ってしまったこと。教育係としてつけられた鶯丸は、皮肉にも審神者の初恋の相手になった。もちろんその恋は誰にも知られることなく胸の奥で潰れてしまったけれど。
「主、顔色が悪いぞ」
「っ大丈夫、心配かけてごめんなさい」
審神者は笑顔を作った。これは、誰にも心を悟られないように身に着けた、感情を殺す笑み。鶴丸は何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言葉にすることはなかった。
沈黙に耐えかねた頃、鶯丸が急須と湯呑みを盆に載せて戻ってきた。鶴丸によって毒見を済まされたお茶と干菓子が並ぶ。机を挟んで向き合った鶯丸が口を開いた。
「もう察していると思うが、この本丸の刀剣男士は俺以外顕現を解いている。主の最期の望みを叶える為だ」
「やはりそうでしたか。師匠の望みとは何だったのでしょう」
「政府に亡骸を渡したくない、とうわ言のようにこぼしていた。だから俺は、明日の夜明けと共におうかを隠す。救援を要請しておいたから、君達は直に救助されるだろう。心配はいらない、主の死に暴走した刀剣男士が事件を起こし、不運にも巻き込まれてしまっただけだ。罰を受けることはないさ」
「その話を聞いて、私が引き下がるとお思いですか?」
審神者は素早く鶴丸に目配せした。意図を理解した鶴丸は目の前の机を蹴り上げて鶯丸にぶつけた。茶器と干菓子が宙を舞い、玉露が畳にこぼれる。
「走れ主!」
「はい!」
逃げ出す1人と1振りの後ろ姿を見て、鶯丸は笑みを浮かべていた。
「立派になったな」
そう満足そうに呟き、刀を抜いた鶯丸はゆっくりとした足取りで後を追い始めた。
「主、大丈夫か」
「はい、っ何とか」
鶯丸からできる限り距離を取り、物置らしき部屋の奥に身を潜めた。本丸の敷地は広く、闇雲に探していては亡骸がある部屋に辿り着く事が出来ないと判断したからだ。簡易的な目くらましの結界を張り、周囲を探る式神を作り出した。
「お願いね、鶯丸様に見つからないように気をつけて」
闇にとけるような黒色をした3体の猫の頭を撫でる。彼らはそれぞれ別方向の壁をすり抜け姿を消した。
「後はここであの子達の報告を待ちましょう。鶯丸様仕込みの結界術ですから、しばらくは保ちます。今のうちにこれからどう動くか相談しておきましょうか」
「結界術に式の操作まで出来るのか。驚いた、きみは神職や陰陽師の家系ではないのだろう」
「本丸を運営するにあたって命を落とす確率を少しでも減らす為に片っ端から厳しく教育されましたから。まさか、鶯丸様に使うことになるとは思いませんでしたけど」
「すべて、奴に教わったのか?」
「師匠には通常の任務もありましたから、大体はそうです」
「そうか…それは少し妬けるな」
「こんな時に茶化すのはやめてください」
「茶化してなんてないさ。俺が思うにきみは…」
暗闇に光る金の目はまっすぐに審神者を射抜いた。胸の奥に隠していた思いを見透かされ、引きずり出される。
「奴に惚れていたんだろう?」
審神者の唇は震えていた。取り繕う言葉が何一つ出てこない。それはもう、肯定している事と同じだった。1つ息を吐き、審神者は顔をくしゃりと歪めた。
「急に戦争に参加しろと言われて、右も左もわからなかった。そんな時、付きっきりで世話を焼いて、味方になってくれる方がいれば、多少なりとも好意を寄せるでしょう。
今だって、出来ることなら鶯丸様を説得して神隠しをやめさせたいと思っています。
師匠の為じゃなく、鶯丸様自身の為に。彼はこんなところで刀解処分になるような刀じゃない」
言い切った後、審神者はふっと表情を緩めた。長年つかえていたものを吐き出して安堵したかのような晴れやかな笑みだった。
「これで私も政府に処分されるでしょうか」
「させるかよ…」
「では、私の共犯になってくれるのですか?」
「いいか?…俺はきみの刀剣男士だ。鶯丸のことは気に食わないし、今でも折ってやりたいと思っている。だが、他ならぬ主の願いなら俺は手を貸す。きみのいない世界など、死んでいるのと同じだからな」
強く言い切った鶴丸に審神者は目を丸くした。予想外の返答に戸惑っているのか、金の目を見つめたまま微動だにしない。
「にゃー」
「あ…式が」
偵察を終えた黒猫が存在を訴えるように鳴いた。帰ってきたのは一体のみで、あちこち斬られた跡がある。半分になってしまった耳を撫でていると、式は甘えるように一声鳴いてやがて紙に戻ってしまった。
「この子が教えてくれました。師匠の遺体は大広間に安置されているそうです。ここを出て右の突き当たりを左に曲がった場所です。鶯丸様の気配は遠いので、先に大広間に行って結界を張りましょう。途中で残りの式も回収出来るといいのですが」
「そうか、わかった。俺から離れるなよ」
物置の戸を開け、様子を伺う。薄暗い廊下のひんやりとした空気が肌に触れた。辺りに気配がないことを確認し、審神者と鶴丸は大広間に向かって歩き始めた。
「待て、主」
先導する鶴丸が足を止めた。
鶴丸越しに奥に目をやると、目的地の大広間に続く障子がわずかに開いていることに気付いた。漏れ出た光が廊下を照らしている。
審神者と鶴丸は警戒を強めて歩を進め、大広間を覗いた。
そこにあったのは、棺に安置された師匠の遺体をぐるりと囲む刀種の様々なむき出しの刀だった。それらはまるで師匠の守り番を務めるように鋭く輝き、先端を畳に突き立てている。
異様な光景に審神者は悲鳴を上げそうになり、慌てて両手で口を押さえた。
「敵意は感じないが…入ってみるか?」
「はい。気をつけましょう」
警戒しつつ一歩踏み入れるが、部屋の様子に変化はない。立ち上る線香の香りがほんの少し強くなっただけだ。棺の近くに寄り、鶴丸と並んで正座をして手を合わせる。周囲を取り囲む刀に一言断りを入れて師匠の顔を覗き込んだ。白粉をはたかれ、紅を差した師匠はまるで眠っているかのように穏やかだった。組まれた右手の甲に鶯丸の紋が刻まれてさえいなければ、黄泉に旅立つ死者の静かな姿に違いなかった。
「そういうことですか…」
審神者は強く唇を噛んだ。師匠はあろうことか従えるべき刀剣男士に体を許し、真名を教えて主従関係を完全に逆転させていた。そうでなければ鶯丸の紋が顕れることなど有り得ない。もしも、鶯丸の行動が主を失った末の暴走であればまだわずかに望みはあった。師匠の遺体を救援が来るまで隠し通し、その間に説得に成功すれば鶯丸の刀解処分は回避出来ると考えていた。
でも、それはもう叶わない。
重罪を犯したのは師匠の方だった。
「主、そんなに唇を噛むな。痛むだろう」
鶴丸の指が審神者の唇を拭った。指についた血をおもむろに見つめ、鶴丸はまるで紅を引くように審神者の上唇にそれを塗る。
「何をしているのですか」
「綺麗だ…」
呟く鶴丸の焦点が合っていない。審神者の頭の中で警鐘が鳴る。彼はさっき、お茶を毒見していた。敵地の真ん中で、敵が出した飲食物に口をつけるなんて迂闊なこと普段の鶴丸がするはずないのに。審神者自身もお茶を飲んでいたことを思い出したが、今のところ体に異常は見られない。とすれば、刀剣男士のみに作用する薬なのだろう。審神者一人であれば計画に支障はきたさないと判断されたということだ。
力なく倒れてくる鶴丸の体を支えながら、思考を巡らせた。迷っている時間はない。審神者は自らの唇に歯を当てて傷つけると流れた血を口移しで鶴丸に飲ませた。霊力の塊を直接与えることで薬の回りを止めようとしたのだ。
しかし、審神者の行動も空しく鶴丸は意識を手放してしまった。細身とはいえ成人男性ひとりを抱え上げることは出来ず、引きずるようにして部屋の隅に寝かせる事が精一杯だった。
持ち物から簡単な手入れ道具を取り出し、部屋に結界を張る。気休め程度だろうが、少しでも時間を稼ぐために2重結界にしておいた。
鶴丸に声を掛けつつ霊力を込めて本体の手入れを行うが、彼は目を覚まさない。
「やはり、ここにいたのか」
閉めた障子の向こうに鶯丸が立っている。時間の問題と思っていたが、とうとう追い付かれてしまった。結界にはヒビが入り、次の瞬間全て砕け散った。
阻むものがなくなった障子がゆっくりと開けられる。
審神者は倒れている鶴丸の本体を手に取り、彼を背にかばって立ち上がった。
「鶴丸に何を飲ませたんですか。お答えください、鶯丸様」
「何もしていないさ」
「嘘、なら何故こんな状態に」
「すまないが、少し眠ってもらった。ここは俺と本丸の刀の力で作り出した擬似神域だ。転移装置を壊した後、俺は君たちを隠した。気付かなかっただろう?」
「そんな…早く現世に帰してください。さもなくばあなたを斬ります」
そう言って、審神者は鶴丸の本体を引き抜こうとしたが指1本動かすことが出来なかった。
「無理だ。自分の姿を確認してみるといい」
鶯丸は審神者に手鏡を覗かせた。そこにあったのは目も髪もすっかり鶯丸の色に染まった審神者の姿だった。
「神気侵食度は重度寄りの中といったところか。君はもう少しで俺の眷属になる」
「どうしてこんなことを…何で私を呼んだの?
私の気持ちに応える気はないくせに、随分と酷い神様」
「生前のおうかは、強制的に審神者にされた君を心配していた。もしも、審神者に嫌気が差しているようなら、君のことも一緒に連れて行ってほしい、と
おうかの最期の願いは1つではないんだ」
鶯丸は、棺に眠る師匠の頬を撫で慈しみに満ちた笑みを浮かべた。
「俺と来れば痛みも苦しみも取り除いてやれる。現世には戻せないが、不自由な生活はさせないと誓おう」
まるでプロポーズのような甘い言葉が脳を痺れさせる。嬉しいと感じてしまうのは神気に侵されているからだろうか。鶯丸に差し伸べられた手を取ろうと一歩踏み出した。
するとそれを阻止するように、抱えた鶴丸の本体がわずかに震えて審神者は足を止めた。
「主のことは連れて行かせない。永遠の鳥籠になど入れてやるものか。俺は、最期の瞬間まで自由に飛び回る主と共に居たい。いや、願わくばその黄泉路の先まで共にいきたいんだよ」
「つる…まる?」
強い力で後ろに引かれた審神者は鶴丸の腕の中にいた。見上げた金の目は鶯丸を強く睨みつけている。
「主は俺の後ろにいてくれ。
しかし、その色はやはり気に入らないな」
鶴丸は羽織を脱ぎ、審神者に着せた。フードを目深に被らせて髪と目を隠すと、審神者から己の本体を受け取った。
「待たせて悪かったな鶯丸。俺が相手だ、主には指1本触れさせない」
切っ先を鶯丸の喉元に向け、鶴丸は鞘を捨てた。その様子にわずかに目を見開いた鶯丸はふっと表情を緩めた。
「そうか、安心した。俺が連れて行く必要はもうなさそうだな」
鶯丸は自身の本体を畳に突き立て、腰の留め具を外して鞘を置いた。そして、棺に眠る遺体を丁寧に抱き上げた。
「俺たちはもういく。迷惑をかけて悪かったな。
…君は良き審神者に育った、俺とおうかの誇りだ」
そう言って、美しく微笑む鶯丸に、審神者は何も言えなかった。腕の中に眠る師匠の魂はとっくに体を離れており、このまま連れて行っても再会は叶わない。それに気付いていないはずはないのに、愛した人の亡骸と共に過ごす孤独を選んだ鶯丸の決意に胸が痛んだ。
「どうか、お元気で」
涙を堪え、精一杯の笑顔で審神者は鶯丸を送り出した。
「君のこれからの生に祝福を。ではな」
その言葉を最後に、鶯丸の姿は消えた。
本丸が揺らぎ、バランスを崩して倒れる審神者を鶴丸がしっかりと抱きとめた。
「帰ろうか、俺たちの本丸に」
「はい」
鶴丸が投げ捨てた鞘を拾い、支えられながら大広間を抜けた。
刺さっていた刀が鶯丸のものを残して全て消えている。静寂に包まれた本丸を歩き、玄関に戻った。
壊された転送装置の前に立つと、審神者は何かを思い出したかのように鶴丸を呼んだ。
「私の髪と目、元に戻っていますか?」
「ん?ああ大丈夫だ。きれいになってる」
「からかわないでください。ああ、髪はまだ戻っていませんね。しばらく療養施設行きになるかもしれません」
若草色の髪を見つめる審神者の目は美しい金色から徐々に濃い茶色になった。ゆっくりと、審神者生来の色に戻っていく様子を見て、鶴丸は見えないように拳を握った。
「寂しいなら一緒にいてやるぜ。それとも、1人で休養した方が休まるか?何にせよ、本丸の心配はしなくていいから、しっかり療養してくれよ」
「…一緒にいてくれますか、鶴丸」
「きみが望むなら。疲れただろう?救援が来るまで眠るといい。ずっと、そばにいるから」
鶴丸に膝枕をされた審神者はすぐに眠りに落ちた。規則正しい呼吸音を聞きながら、鶴丸は審神者の耳元に唇を寄せた
「きみが望むなら、永遠にそばにいる」
そう呟いて、審神者の髪を一筋掬って口付けた。
