夏恋花火
『もうすぐうちの町の夏祭りなんだ』
きっかけは些細な一言だった。
ちょうど学校で話題になったから書いた一文。
それがこのようなことになるとは当時は微塵も考えていなかった。
『楽しそうですね。実はお祭りは鎮守府のものにしか行ったことが無くて』
『そうなんだ。じゃあさ、一緒に行かない?』
それから日付の確認、休暇の申請の受理などがトントン拍子に進んで今に至る。
待ち合わせの時間まではあと少し。
朱に染まった入道雲を見上げながら深呼吸を繰り返す。
何度目か分からない身嗜みの確認をしようとしたその時
「お、お待たせしました」
おずおずと言った風にかけられる声。
この時どう返せばいいか、それぐらいは陸でも分かる。
何度も繰り返したイメージトレーニングの通りに返そうとして
「大丈夫、俺も今来たところだか……ら?」
結果、そうはできなかった。
彼の目の前にいるのは海風だ。
しかし、恰好がいつもの制服とは違う。
少し考えれば今日は休暇なので私服を着てくるものだろうというのが分かるのだが、完全に頭から抜けていた。
というよりも、この姿は私服というより……、
「あの……変、でしょう……か?」
浴衣である。
どこからどう見ても浴衣である。
「あの……何か言っていただけると……その」
「あっ!えっと……」
無言で見つめられることに耐えられなくなった海風の控えめなお願いによって、ようやく意識が帰還する。
見惚れて声が出ないどころではない。
思考が声になっているかいないかすら分かっていなかった。
「えっと、ごめん、見惚れてた。それぐらい綺麗で、似合ってる」
「あ、ありがとうございます」
夕焼けに負けないほど顔を赤くする海風。
改めて浴衣姿を目に焼き付ける。
紺の生地にところどころ朝顔の花があしらっているあまり派手ではないデザイン。
海風の髪の色が映えていて、この浴衣を選んだ人物は海風のことをよく分かっている人物だろう。
「えっと、それじゃあ行こうか」
「はい、そうですね」
いつまでもこうしているわけにもいかない。
家を出る前に確認したデートの心得を思い出す。
海風の歩く速度に合わせながらそっと車道側に回る。
「あっ……。ありがとうございます」
「ん」
気付かれた恥ずかしさからそっけなく返す。
次第に増える人通りの中、無言でゆっくりと歩く二人を、顔を出し始めた星々が見守っていた。
※※※
「わぁ……!」
十分ほど歩いただろうか。
会場となる神社の鳥居を潜ると、二人を数々の出店が出迎えた。
陸は毎年の事なので見慣れた風景だが、夏祭りに来ることが初めての海風にはとても新鮮に見えたのだろう。
普段の落ち着いた雰囲気はどこへやら。
まるで新しいおもちゃを与えられた子供の様に目を輝かせている。
「これ全部お店なんですか!?」
「うん。食べ物だけじゃなくて遊べるところもあるよ」
あれはなんだ、これはなんだという海風の質問に一つずつ答えながら出店を練り歩く。
射的や金魚すくいの結果に一喜一憂し、綿菓子やリンゴ飴を口にして頬を緩ませるその姿は、普段のお姉さん然とした彼女の様子とはまた違った一面を覗かせた。
(あぁ、こんな表情もするんだ)
また知る彼女の新しい一面。
積み重なっていく好きという感情。
出口を探すその感情は無意識のうちに彼の右手を突き動かす。
「え?」
「あ、えっと……はぐれたらいけないから」
そっと、ガラス細工に触れるかのように手を握る。
突然のことに驚いた様子の海風だったが、陸の咄嗟に出たひと言で納得したようだ。
「では、エスコートお願いしますね」
「頑張る」
えへへと悪戯っぽく笑う海風の顔を直視できずに眼を逸らす。
こちらは先ほどから心臓が暴れて仕方がないというのに、彼女にはまだ余裕があるようで。
(ずるいなぁ)
そう思っても口にはしない。
まだメインまでは時間があるのだ。
それまでいつもと違う一面をもっと見せてもらおう。
そんなことを考えながら氷菓子の屋台へと足を向けた。
※※※
(バレてないでしょうか……)
手を引かれながら空いた方の手を頬に添える。
手を握られた瞬間、不覚にも心臓が跳ねた。
それからというもの、心臓が早足に鼓動を刻むのをやめてくれない。
きっと今、顔は赤くなっているのだろう。
そんなことを考えながら、握られた手に意識を向ける。
姉妹の物とは違う、広い掌に少し硬い感触。
よくよく考えてみれば男の人の手を握るなんて経験は初めてで。
今日経験したあらゆることが初めてで。
彼は自分の知らない事も色々知っていて。
きっと、こうやって異性の手を握ることも初めてではないのだろう。
(ずるいなぁ)
そう思うが口にはしない。
決して悪い気はしないから。
次はどんなことを教えてくれるのだろう。
そんな期待を胸に抱きながら彼の背中を追う。
※※※
「着いたよ」
一通り出店を回った後、二人は近くの山の中腹に来ていた。
それほど高くはなく、週末はピクニックやハイキングに訪れる人も少なくないこの場所は、これからのメインイベントを静かに見るには絶好の場所だった。
周りを見れば自分たち以外にもちらほらと浴衣を着た人達が見える。
「会場からは離れてしまいましたが、なにかあるんですか?」
「うん、もうちょっとかな。ここが結構穴場でさ」
はっきりと何があるとは答えてくれない。
口にはしないが少しソワソワと、期待と不安が混じりあった様子で、その姿から小動物を連想させる。
言ったら怒られるだろうなぁなどと考えながら時計を見る。
二十時五十九分三十秒。
そろそろ時間だ。
「夏祭りに来たことがないって言ってたから、これも初めてかなって思ってさ」
「これって……何がですか?」
「それはね……」
振り返る陸。
それと同時に響く炸裂音。
彼越しに見える夜空に咲く、星々の煌めきに負けない大輪の花。
「花火。結構有名なんだよ?」
次々と打ち上げられる色取り取りの光の花。
大から小まで、心地の良い音を響かせながらその花びらを散らしていく。
思わず彼の隣まで踏み出す。
このように美しい光景がこの世にあったのか。
赤や黄色に咲く花は、一瞬の生を謳歌するように全力で花を開かせる。
声も出ない、そんな様子で花火に見入る海風。
(連れてきてよかった)
そう思いながら横目に彼女を見る。
花火の明かりで照らされる横顔。
それに負けないほどキラキラと煌めく瞳。
「綺麗です。とても」
「うん。綺麗だ」
それは何に向けられた言葉なのか。
発した二人以外に知る者はいなかった。
※※※
「今日はありがとうございました」
楽しかった時間はあっという間に終わりを告げた。
花火を見終えた二人は、待ち合わせを行った場所に戻ってきていた。
興奮冷めやらぬと言った感じではあるが、彼女は明日もまた仕事であろう。
あまり引き止めるのも悪い。
「こっちこそありがとう。姉ちゃんと一緒だと去年よりも楽しかったよ」
「海風も楽しかったです、本当に」
胸に手を当て目を瞑り、余韻に浸る海風。
彼女の笑顔がまた見たい。
まだまだ知らない一面を見せてほしい。
そんな気持ちが陸の胸の中で渦巻く。
「あ、あのさ……。もし嫌じゃなかったら、またどこかに行くの、誘っていい……かな?」
「もちろんです。海風でよければ是非」
『海風でよければ』
この言葉に少し引っかかるものを感じながらも、ひとまず承諾を得られたことを喜ぶ。
チャンスはまだある。
焦らずに行こうと自分に言い聞かせる。
「それでは海風はこれで。陸君、おやすみなさい」
「あっ……」
行ってしまう。
まだ別れたくないという気持ちと彼女に無理を強いたくないという気持ちがせめぎ合う。
呼びとめるか否かを葛藤した刹那、
「え?」
「わぁ!」
再び響く炸裂音。
例年なら無いはずのアンコール。
こんなチャンスはない。
踏み出して彼女の手を取る。
「これだけ!これだけ見て行こうよ!」
「そうですね。折角ですもんね」
そう言って近くのベンチに座る。
先程も見たはずなのに、先と変わらぬ様子で花火に見入る彼女。
そんな彼女が愛おしくて、眩しくて。
そっと手を重ねる。
どうやら花火に夢中で気づいた様子はない。
「よければじゃない。姉ちゃんじゃなきゃ、だめなんだよ」
「え?」
どうやら花火の音で聞こえなかったらしい。
きょとんとした様子でこちらを見る海風。
その様子を見ていると、なんだか抱いていたもやもやもどうでもいいものになって、
「ううん、なんでもない」
「教えてくださいよー」
「なーいしょ!」
頬を膨らませながらこちらを突っつくのを躱しながら笑う。
そうすると彼女も釣られたのか、すぐに笑ってくれて。
彼女の笑顔が見られる。
それだけで全てが些細なことに思えてきて。
じゃれる二人の姿を、鮮やかな火花の残滓が見守っていた。
きっかけは些細な一言だった。
ちょうど学校で話題になったから書いた一文。
それがこのようなことになるとは当時は微塵も考えていなかった。
『楽しそうですね。実はお祭りは鎮守府のものにしか行ったことが無くて』
『そうなんだ。じゃあさ、一緒に行かない?』
それから日付の確認、休暇の申請の受理などがトントン拍子に進んで今に至る。
待ち合わせの時間まではあと少し。
朱に染まった入道雲を見上げながら深呼吸を繰り返す。
何度目か分からない身嗜みの確認をしようとしたその時
「お、お待たせしました」
おずおずと言った風にかけられる声。
この時どう返せばいいか、それぐらいは陸でも分かる。
何度も繰り返したイメージトレーニングの通りに返そうとして
「大丈夫、俺も今来たところだか……ら?」
結果、そうはできなかった。
彼の目の前にいるのは海風だ。
しかし、恰好がいつもの制服とは違う。
少し考えれば今日は休暇なので私服を着てくるものだろうというのが分かるのだが、完全に頭から抜けていた。
というよりも、この姿は私服というより……、
「あの……変、でしょう……か?」
浴衣である。
どこからどう見ても浴衣である。
「あの……何か言っていただけると……その」
「あっ!えっと……」
無言で見つめられることに耐えられなくなった海風の控えめなお願いによって、ようやく意識が帰還する。
見惚れて声が出ないどころではない。
思考が声になっているかいないかすら分かっていなかった。
「えっと、ごめん、見惚れてた。それぐらい綺麗で、似合ってる」
「あ、ありがとうございます」
夕焼けに負けないほど顔を赤くする海風。
改めて浴衣姿を目に焼き付ける。
紺の生地にところどころ朝顔の花があしらっているあまり派手ではないデザイン。
海風の髪の色が映えていて、この浴衣を選んだ人物は海風のことをよく分かっている人物だろう。
「えっと、それじゃあ行こうか」
「はい、そうですね」
いつまでもこうしているわけにもいかない。
家を出る前に確認したデートの心得を思い出す。
海風の歩く速度に合わせながらそっと車道側に回る。
「あっ……。ありがとうございます」
「ん」
気付かれた恥ずかしさからそっけなく返す。
次第に増える人通りの中、無言でゆっくりと歩く二人を、顔を出し始めた星々が見守っていた。
※※※
「わぁ……!」
十分ほど歩いただろうか。
会場となる神社の鳥居を潜ると、二人を数々の出店が出迎えた。
陸は毎年の事なので見慣れた風景だが、夏祭りに来ることが初めての海風にはとても新鮮に見えたのだろう。
普段の落ち着いた雰囲気はどこへやら。
まるで新しいおもちゃを与えられた子供の様に目を輝かせている。
「これ全部お店なんですか!?」
「うん。食べ物だけじゃなくて遊べるところもあるよ」
あれはなんだ、これはなんだという海風の質問に一つずつ答えながら出店を練り歩く。
射的や金魚すくいの結果に一喜一憂し、綿菓子やリンゴ飴を口にして頬を緩ませるその姿は、普段のお姉さん然とした彼女の様子とはまた違った一面を覗かせた。
(あぁ、こんな表情もするんだ)
また知る彼女の新しい一面。
積み重なっていく好きという感情。
出口を探すその感情は無意識のうちに彼の右手を突き動かす。
「え?」
「あ、えっと……はぐれたらいけないから」
そっと、ガラス細工に触れるかのように手を握る。
突然のことに驚いた様子の海風だったが、陸の咄嗟に出たひと言で納得したようだ。
「では、エスコートお願いしますね」
「頑張る」
えへへと悪戯っぽく笑う海風の顔を直視できずに眼を逸らす。
こちらは先ほどから心臓が暴れて仕方がないというのに、彼女にはまだ余裕があるようで。
(ずるいなぁ)
そう思っても口にはしない。
まだメインまでは時間があるのだ。
それまでいつもと違う一面をもっと見せてもらおう。
そんなことを考えながら氷菓子の屋台へと足を向けた。
※※※
(バレてないでしょうか……)
手を引かれながら空いた方の手を頬に添える。
手を握られた瞬間、不覚にも心臓が跳ねた。
それからというもの、心臓が早足に鼓動を刻むのをやめてくれない。
きっと今、顔は赤くなっているのだろう。
そんなことを考えながら、握られた手に意識を向ける。
姉妹の物とは違う、広い掌に少し硬い感触。
よくよく考えてみれば男の人の手を握るなんて経験は初めてで。
今日経験したあらゆることが初めてで。
彼は自分の知らない事も色々知っていて。
きっと、こうやって異性の手を握ることも初めてではないのだろう。
(ずるいなぁ)
そう思うが口にはしない。
決して悪い気はしないから。
次はどんなことを教えてくれるのだろう。
そんな期待を胸に抱きながら彼の背中を追う。
※※※
「着いたよ」
一通り出店を回った後、二人は近くの山の中腹に来ていた。
それほど高くはなく、週末はピクニックやハイキングに訪れる人も少なくないこの場所は、これからのメインイベントを静かに見るには絶好の場所だった。
周りを見れば自分たち以外にもちらほらと浴衣を着た人達が見える。
「会場からは離れてしまいましたが、なにかあるんですか?」
「うん、もうちょっとかな。ここが結構穴場でさ」
はっきりと何があるとは答えてくれない。
口にはしないが少しソワソワと、期待と不安が混じりあった様子で、その姿から小動物を連想させる。
言ったら怒られるだろうなぁなどと考えながら時計を見る。
二十時五十九分三十秒。
そろそろ時間だ。
「夏祭りに来たことがないって言ってたから、これも初めてかなって思ってさ」
「これって……何がですか?」
「それはね……」
振り返る陸。
それと同時に響く炸裂音。
彼越しに見える夜空に咲く、星々の煌めきに負けない大輪の花。
「花火。結構有名なんだよ?」
次々と打ち上げられる色取り取りの光の花。
大から小まで、心地の良い音を響かせながらその花びらを散らしていく。
思わず彼の隣まで踏み出す。
このように美しい光景がこの世にあったのか。
赤や黄色に咲く花は、一瞬の生を謳歌するように全力で花を開かせる。
声も出ない、そんな様子で花火に見入る海風。
(連れてきてよかった)
そう思いながら横目に彼女を見る。
花火の明かりで照らされる横顔。
それに負けないほどキラキラと煌めく瞳。
「綺麗です。とても」
「うん。綺麗だ」
それは何に向けられた言葉なのか。
発した二人以外に知る者はいなかった。
※※※
「今日はありがとうございました」
楽しかった時間はあっという間に終わりを告げた。
花火を見終えた二人は、待ち合わせを行った場所に戻ってきていた。
興奮冷めやらぬと言った感じではあるが、彼女は明日もまた仕事であろう。
あまり引き止めるのも悪い。
「こっちこそありがとう。姉ちゃんと一緒だと去年よりも楽しかったよ」
「海風も楽しかったです、本当に」
胸に手を当て目を瞑り、余韻に浸る海風。
彼女の笑顔がまた見たい。
まだまだ知らない一面を見せてほしい。
そんな気持ちが陸の胸の中で渦巻く。
「あ、あのさ……。もし嫌じゃなかったら、またどこかに行くの、誘っていい……かな?」
「もちろんです。海風でよければ是非」
『海風でよければ』
この言葉に少し引っかかるものを感じながらも、ひとまず承諾を得られたことを喜ぶ。
チャンスはまだある。
焦らずに行こうと自分に言い聞かせる。
「それでは海風はこれで。陸君、おやすみなさい」
「あっ……」
行ってしまう。
まだ別れたくないという気持ちと彼女に無理を強いたくないという気持ちがせめぎ合う。
呼びとめるか否かを葛藤した刹那、
「え?」
「わぁ!」
再び響く炸裂音。
例年なら無いはずのアンコール。
こんなチャンスはない。
踏み出して彼女の手を取る。
「これだけ!これだけ見て行こうよ!」
「そうですね。折角ですもんね」
そう言って近くのベンチに座る。
先程も見たはずなのに、先と変わらぬ様子で花火に見入る彼女。
そんな彼女が愛おしくて、眩しくて。
そっと手を重ねる。
どうやら花火に夢中で気づいた様子はない。
「よければじゃない。姉ちゃんじゃなきゃ、だめなんだよ」
「え?」
どうやら花火の音で聞こえなかったらしい。
きょとんとした様子でこちらを見る海風。
その様子を見ていると、なんだか抱いていたもやもやもどうでもいいものになって、
「ううん、なんでもない」
「教えてくださいよー」
「なーいしょ!」
頬を膨らませながらこちらを突っつくのを躱しながら笑う。
そうすると彼女も釣られたのか、すぐに笑ってくれて。
彼女の笑顔が見られる。
それだけで全てが些細なことに思えてきて。
じゃれる二人の姿を、鮮やかな火花の残滓が見守っていた。