治金丸
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あれだけ長いと感じていた冬も、気づけばいつの間にか通りすぎていった。窓を開ければ、ぬるい風にまじった梅の花が遠くからにおってくるし、浮かれたウグイスたちは、庭のどこかで元気よくお経を唱えている。
けれどもそんな春のきざしを茶化すかのように、夜のあいまは、まだまだ冴えるような寒さが残っていた。まさに「春は名のみの」である。はあ、と息を吐いても白く染まることはなくなったけれど、きしきしと鳴く縁側の床板は、足の裏をつたい背をつたい、見事心臓までその冷たさを届けてくれた。部屋を出るときに羽織ってきた綿入れの合わせを、ぎゅっとつかんだ。
── 一度戻って靴下をはいてこようかな。そう思うも、せっかく頑張ってここまで歩いてきたんだし、というしみったれた考えが頭のなかをぐるぐる回って、そうしているうちにも私の足は一歩一歩前に進んでいくのである。
少しでも床板と接する範囲を狭めようと、つま先立ちで歩いていたのが裏目に出たのだろう。
「主」
「ひいっ!」
「お、っと!」
声をかけられた瞬間、たたらを踏んでつんのめる。抱きとめられた腕はとても筋肉質で、頬がぶつかった胸板は、常日頃思っていたとおりのたくましさだった。
「ち、ち、ちがっ!」
引きつった喉はまともに声を発してくれない。それを見かねたのだろう、彼のむき出しの腕が、とんとんと優しく私の背をたたく。
「ごめんなぁ、そんなに驚く とは思わなくてさ」
耳のすぐそばで聞こえる治金丸のやわく甘やかな声に、ぶわあと肌があわ立つ。先ほどおどろきで飛び上がった心臓は、今度は別の意味で激しく脈打っていた。今ごろお風呂に入っていたのだろうか、火照った彼の地肌からは、爽やかなせっけんのにおいがした。
「あ、ありがと、も、大丈夫だから……!」
「本当に ?」
「しんけん!」
目と鼻の先にある端正な顔が直視できない。食い気味に答えた私をみて、彼は「ははっ」と破顔した。
私を解放した治金丸に改めて目をやると、案の定お風呂あがりだったようだ。まだいくらか湿った菜の花色の髪が、ふうわりと春の夜風に遊ばれている。
「お風呂、今入ってたの?」
日を越してからだいぶ経っているけれど。言外にそう含ませた私の言葉に、「いやあ」と治金丸は頬をかいた。
「実は、ちょっと寝つけなくてね。軽く身体を動かそうと思ったんだけど……」
「身が入りすぎてひとっ風呂浴びてきた、と」
「まあ、そういうわけだ」と、おどけたように肩をすくめる治金丸は、「して」と私に向き直る。
「主はどうしてここにいるのかな?」
穏やかにそう問われ、私は当初の目的を思い出した。耐えがたい波が、私のおなかに押し寄せてきた。
「あの、ね、お手洗い、に……」
「……おお」
治金丸はも一度、ぽり、と頬をかいた。§
厠から出ると、少し離れた場所に治金丸はいた。縁側に腰をおろし、静かに朧月を見上げているようであった。あわい光にふち取られた彼の輪郭がふしぎとぼやけて、月に溶けてしまうのではないかと思った私は、たまらず手を伸ばす。
「ん、なんだい?」
ふに、と触れた治金丸の頬は、確かに人間の肌だった。薄い皮膚の奥に肉がつまって、弾力があって。
──これが、神なのか。
──これが、刀なのか。
彼がくすぐったそうに目を細めたところで、私ははっと手を離した。何てはしたないんだろう、こんな真夜中、無遠慮に異性にべたべた触れるなんて!
「待った」
強すぎない力で、手首をとらえられる。ぶ厚い手のひらには、固いたこがあった。神でも刀でもない、ただの男の手だ。
「主だけ触りっぱなしなのはズルいよ。ほら 、今度はオレの番」
「ぁ」
頬が、その手でつつまれる。
──あつい、な。そう感じたのははたして、私の頬か、彼の手のひらか。
「ちがね」
「しーっ」
そのまま両耳をおおわれて、音が遠くなっていった。ざあざあという血のめぐりは、まるで波打ち際にいるかのようで、ああそうだ、これは、貝殻を耳にあてた時によく似ている。
「 」
彼の言葉は月ではなく、波にさらわれてしまった。なんて言ったの、だなんて聞き返すほど、さすがに野暮じゃあないから。だらしなく緩みそうな顔にきゅっと力をいれて、「うん」とうなずいた。
私の耳から離された手が、名残惜しく感じる。治金丸は何もなかったかのような顔で、「さて」と私をうながした。
「そろそろ風邪をひいてしまうね。──戻ろうか、主」
「……うん」
それらはすべて、春の夜の夢のごとく。
(20210226/にこら)
