同じように繰り返される毎日を、レオナは怠惰に過ごしていた。
　レオナは世界に名だたる大企業の家に生まれ、その副社長という座に収まっている。代表取締役社長の兄の元、社内の空気を良くしようと初めのうちこそ新規の提案をいくつもあげていた。
　しかし、重役に居座り続ける者たちがレオナのことをよく思っておらず、社内で不満が出ているからと上げた提案もすべて却下し続ける。兄はその提案が面白そうだと乗り気になるが、結局は多数決で棄却されてしまう。そんな日々が続き、あまりにも馬鹿らしくなったレオナは、出勤しては昼寝をして時間を潰すだけの毎日を送っていた。
　こんな日々を送ることに意味があるのだろうか。
　そうレオナは考えてみたりもするが、諦めることに慣れてしまった。幼い頃からずっと兄と比較され、得意なことで兄を抜いても特にレオナを見るまわりの目が変わることはなかった。兄のような栄光を自分はこれからも掴むことはない。何もかもが面倒でつまらない。溜息ばかりの毎日にうんざりしていた。


　レオナがいつもと同じように送迎の車中からぼんやりと流れる景色を眺めていると、賑やかな一画が現れた。一つの屋台を中心とし、人の集まる区画。特に身なりの良い者は居なかったが、人々の顔には笑顔が浮かんでいた。
　その者たちが普段どのような日常を送っているかは分からなかったが、その笑顔を見る限り自分よりもよっぽど人生を楽しんでいるように見える。
　レオナは屋台の横に信号で止まった車の窓を少しだけ開け、外の声を拾う。笑い声と酔っ払いの罵声が重なり合い、とにかく騒々しい。
　屋台は威勢の良い女性と、その孫くらいの年齢の青年の二人が切り盛りしているようだった。屋台の周りにもいくつか席を作り、忙しなく動き回っている。
　レオナには馴染みのない光景だ。
　信号が変わり車は再び動き出す。先程は気にならなかったが湿度の高い空気に少し顔を顰めながら、レオナは窓を閉め瞳を閉じた。

　それからも帰宅時に屋台の様子を目で追う日々が続いた。活気があるとはこういうことを言うのだろうとレオナは思う。
　人々の顔に様々な表情がある。ふと、レオナは自分の眉間に指を当て揉みほぐす。最近はしかめっ面をしていることが多く、それ以外の表情をしていた記憶がなかった。
　そんな自分にゲンナリしつつ、レオナは背もたれに体を預け瞳を閉じる。
　毎日がつまらなく、やりがいのない日々だった。
　しかし、以前のように精力的に問題点を指摘することも新事業の提案もする気力も湧かなかった。結局はすべて無に帰すのがわかっているのに、やる気など起きるわけがない。
　だりぃ、と胸の内で呟いたレオナは窓から外を眺め、笑顔で動き回る青年をぼんやりと目で追うのだった。

　それから数日経ったある日、屋台脇の信号で車は止まった。いつものように屋台に視線を向ければ、そこにいるはずのおおらかそうに見える女性の姿がない。料理を運んでいる青年はいるが、どこか上の空だ。
　なんとなくそれが気になったレオナは、少し寄るところがあると車を降りた。運転手は今までにないことで狼狽えるが、さっさと帰れと怒鳴られ肩を震わせながら走り去った。
　レオナはゆらりと機嫌良く尻尾を揺らしながら、ゆったりとした足取りで屋台へと近付いた。肌にはりつくような湿度が不快だったが、風があるため少しはましに感じられる。
　近付く気配に気づいた青年は、耳を小さく揺らし笑顔で振り返った。

「いらっしゃい。って、お兄さん一人？」

　営業スマイルを見せた青年は、背伸びしつつレオナの後ろを確認し首を傾げる。一際身なりの良い人物が一人で屋台に近づいてきたのを、青年は不思議に思ったに違いない。

「一人では駄目か」

　そう言えば、青年はニンマリと笑い手招きした。

「そんなことないッスよ。んじゃ、こっちこっち」

　暖簾をくぐった先にある、こじんまりとしたカウンター席に案内される。リヤカータイプの昔ながらの屋台は狭く、そこに座る者はいなかった。今日の客は皆、外の広いスペースに集まり飲んでいるようだった。

「お兄さん、ここ来るの初めてっていうか、もしかして屋台初めて？」
「そうだな」

　素直に返せば青年は、そんな感じしたんスよねー、と大げさに声を上げコップに酒を注ぐとレオナの前に置いた。

「これは？」
「屋台初記念の一杯ということでサービスで」

　これからもご贔屓に、と青年はあっという間に作っただし巻き卵を差し出しながら告げる。遠くから眺めている時から手際が良いと思っていたが、それは想像以上だった。
　サービスの酒を煽りつつ、レオナは青年を観察する。
　厚みのあるふかふかの耳に短めの尻尾、大きめの瞳は垂れている。人当たりの良い雰囲気を醸し出しているが、抜け目なく神経を尖らせていた。レオナが観察しているように相手も観察しているのが分かり、レオナは小さく笑った。

「今日は婆さんいないんだな」
「あれ？　ばあちゃんの事知ってるってことは、もしかして前からここのこと知ってたんスか？」
「帰り道だからな」

　レオナの言葉で青年の警戒心が多少薄れる。口ではご贔屓になんて言いながら、なんのためにここに来たのかと警戒しているのにレオナは気付いていた。

「ばあちゃん、ちょっと体調崩してて暫くはオレが店主ってことに」
「暫くってそんなに悪いのか？」

　少し曇った表情を見せる青年に尋ねれば、ケロッとして首を左右に降る。

「病気って訳じゃなくてギックリ腰やっちまって」

　ただ動けないだけなんスよー、と笑う青年にレオナ眉を顰めた。病気ではないがギックリ腰も相当大変だろうに、と。

「気の毒に」
「無理すんなって言っても今日も来ようとするから、ベッドに縛り付けてきた……ってのは嘘ですけど、チビ共を監視役につけてきたんスよねー」
「チビ共？」

　多く見積もってもまだ十代後半に見える青年に子供がいるのかと聞けば、盛大に笑い飛ばされる。

「違うッスよ。オレらの周りって仲間意識が強いから、近所に住んでる子たちも協力してくれるんで」

　シッシッシ、と口の前に握った手を当て笑うのは青年の癖なのだろう。前にも見たことがあるなと思いつつ、レオナはだし巻き卵を口に放り込み、口に広がる旨味に舌鼓をうった。


　翌日もレオナは屋台に顔を出すことにする。運転手の口から余計な噂話が広まるのは面倒だったため、レオナは屋台からだいぶ離れた場所で車を降りた。どこかに寄っているくらいならいいが、特定されては屋台にも迷惑がかかる。レオナを蹴落とそうとする者達は容赦が無い。
　きっちりとスリーピーススーツを着ていたレオナだったが、外の蒸し暑さに耐えかねジャケットを脱ぎネクタイを緩める。少しラフな格好になったとはいえ、レオナの容姿は目立つ。すれ違うレオナを振り返る者たちが居たが、慣れているのかすべてを無視しレオナは足早に屋台へと向かった。
　何がそんなに気に入ったのか。
　レオナが再度屋台に足を向けたのは、自分のまわりにはいなかったタイプの青年のことが気になったのと料理が美味かったからだ。名前も互いに知らない同士で、他愛ない話をしただけだ。難しい駆け引きもせず、ただ会話をすることが楽しかったのだ。
　刺激の無い毎日に、楽しみができた。この楽しみのために時間を割いても良いと思ったのだ。
　レオナが近付き声をかけると、青年は驚いた表情を見せた。

「来るって言ってたけど、本当に来るとは思ってなかったんで」
「ほぅ、約束を破る奴に見えるのか」

　人の悪い笑みを浮かべたレオナに青年は苦笑する。

「リップサービスってやつかなって思ったんスよ。でも大歓迎」

　お一人様ご案内、と昨日と同じ席に案内され、流れるようにコップを目の前に置かれる。

「またサービスか？」
「そうッスよー。これは昨日の言葉がリップサービスじゃなかったお礼ってとこッスかね」
「そんなにサービスばっかしてると……」

　レオナの言葉を遮り、青年は愉快そうに笑う。

「オレのサービスは高くつくって噂なんスよ。お兄さん、通ってくれそうだし今のうちに媚びておこうかなって」

　その言葉にレオナは噴き出す。

「それを自分で言っちまうのはどうなんだ」
「だって、お兄さんにはそういうの取り繕ってもすぐバレそうだし。危ない橋は渡らないのが吉ってね」

　お兄さんには期待してるんで、と青年は笑いながら、呼ばれた外の席へと駆けていった。その背を見送りつつ、レオナは青年の名前も知らないことに気が付く。店主（仮）と客の関係性において名前など分からなくても支障はなかったが、無性に知りたくなった。
　青年が戻ってきて料理を作るのを眺めながら、レオナは尋ねる。

「俺はレオナだ。名前は？」
「名乗ってから聞くなんて、やっばり良いとこのお坊ちゃんだったりして。いやー実はオレ、真名を知られると……」
「そういうのはいいから、さっさと教えろ」

　もう最後まで言わせてくださいよ、と頬を膨らませた青年だったが、唐揚げを油から引き上げながら告げる。

「ラギーですよ」
「覚えておく」
「良いスーツを着たイケメンが、こんな屋台で働いてるやつのこと気にするなんて、レオナさんって面白い人ッスね」
「美味いと思った料理食いに来て、それを作ったやつの名前を知りたいと思うことの何が悪いんだ」

　言いたいことを告げたレオナは、揚げたての唐揚げを頬張る。熱々の唐揚げは火傷しそうだったが、口にした言葉のほうがレオナに熱を与えた。

「え、オレってば胃袋掴んじゃった感じ？」

　その言葉を無視してレオナは酒とつまみを口に運び続けたのだった。


　兄に会食に駆り出されたレオナは不機嫌さを隠してはいたが、つまらない時間を過ごしていた。すっぽかす事も考えたが、レオナを蹴落とそうとする者に口実を与えるのは面白くないため出席した。適当に相づちを打てば良いだけで、特にレオナがいなくても問題はなさそうだった。ただ早く終わることを祈りつつ、目の前の料理を味わう。高級料亭の懐石料理は最高の食材と料理人の技で作られており確かに美味いがどこか物足りなく感じ、レオナはここ最近食べ慣れた屋台の味を思い出していた。
　会食を終えたレオナは兄の誘いを断り、夜風に当たりながら帰ることにした。ひとりで帰ることを心配されるが、成人男子に向かって何言ってんだと一蹴しレオナは歩き出す。
　時刻は零時を回っており、屋台も閉まった頃だろうとそんなことを思いつつ空を見上げる。高層ビルが建ち並ぶ街中では、人工的な光に負けてしまい星はあまり見えない。星に願いをなんてものも、都会にいては流れ星を見つけることの方が願いを叶えるよりも難しそうだ。
　ぼんやりしながら歩いて行くが、無意識に最近通い慣れた道を辿ったのか、いつも屋台の出ている開けた場所へと着いてしまった。しかし、予想通り屋台は仕舞われており、客の姿もない。
　馬鹿なことをしたと苦笑しつつレオナはその場を後にしようとしたが、灯りの下のベンチに見知った顔を見つけ足を止める。ベンチに座って真剣な表情で何かを読んでいるのはラギーだった。隣にノートを開き、ペンで頭を掻いているところ見ると勉強しているのだろうか。
　レオナは近付いてラギーガ手にしている本を覗き込む。ちらりと見えたのは経済学の文字だ。

「こんなとこで勉強か」
「おっと、どうしたんスか。今日は別のとこで飲んでたんでしょ」

　酒臭い、とラギーは笑いレオナを見上げた。

「仕事でな」
「そっかー、接待ってやつッスか？　レオナさん、仕事できそうッスもんね」

　ラギーは本を閉じ、隣に座ったレオナに笑顔を向けた。

「あー、ジジイどもに邪魔にされてるからそれはどうだか」

　鼻で笑いながらレオナは深い溜息を吐く。弱音を吐くつもりはなかったが、ついため込んでいた言葉がこぼれ落ちた。

「妬みとかそういうのありそう」

　仕事できればできたで面倒くさそうッスね、というラギーの手からレオナは本を奪い取る。あっ、と手を伸ばすラギーを避けて、レオナはペラペラと本を捲った。

「経済学に興味あんのか」
「経済学というより勉強に興味があるっていうか……今はばあちゃんと屋台やってるけど、将来的にばあちゃんに楽させてやりたいから給料の良いとこに就職したいんスよね。ほら、あそこ。あのでっかいビルに入ってるようなとこに入るのが目標で。でもそういうとこにはやっぱり、学がないと無理だから。面接はいけると思うんスけど」

　ラギーが指さしたのは、レオナが副社長をしている会社のビルだった。レオナが手を回せばすぐにでも入社できるが、それは違うだろうと言葉を飲み込む。ここ数日話していて思ったのは、ラギーは頭の回転が速くとても要領が良い。そして客に無茶振りをされても、うまくあしらうことができるスキルがあった。側におくのにはこういう者がいいな、とレオナはなんとなく考えていた。

「独学で少しだけやってるけど、イマイチ分からないとこもあって……」

　ふーんと言いながらレオナはニヤリとした笑みを浮かべ、ラギーに提案する。

「飲みに来るついでに俺が勉強見てやろうか」
「マジで？　え、でもレオナさんになんのメリットもないんじゃ」
「毎日暇で飽き飽きしてた所だし丁度良い」

　しばらく考える様子を見せたラギーだったが、よっし、と自分に気合いを入れレオナを見つめる。

「じゃあ、何も払わないのは気持ち悪いんで、レオナさんって肉好きですよね。一回につき唐揚げ一皿でどうッスかね」

　ラギーの言葉にレオナは噴き出した。声を上げて笑いそうにないレオナが大笑いをしているのを呆けたまま眺めていたラギーだったが、やはり唐揚げ一皿では割に合わないかと思い尋ねる。それを手で制したレオナは、目の端の涙を拭いながら言った。

「それでいい。とりあえず今日みたいに寄れない日もあるからな……」

　レオナはラギーの前に手を出した。何のことだか分からず首を傾げるラギーにレオナは、スマホ出せ、と告げ再度手を振る。

「あー、あんま使わないんでガラケーなんスけど」

　差し出された携帯に自分の連絡先をいれ、ラギーに手渡す。

「寄れない日は連絡する」
「了解ッス」

　喜んでいるラギーにレオナは尋ねる。

「あの会社に入ったと仮定するが、それでどうするんだ」
「どうするって、そうッスねぇ……天辺に近付きたいかな」
「天辺？」
「身の程を知れっても思うんスけど、せっかくだから天辺に近いところで輝きたいっていうか」
「星……」

　言うだけならタダだし、と笑うラギーの頭をレオナはくしゃりと撫でる。厚みのある耳もついでに撫でると、くすぐったいと抗議の声が上がった。

「まあ、そうだな。流れ星に願うよりは叶うだろうよ」

　口の端に笑みを称えたレオナは今日は遅いからとお開きにし、勉強は明日からということで解散した。
　レオナは上機嫌で尻尾を揺らしながら家までの道のりを歩く。
　つまらない日々の繰り返しが明日からは違うものになりそうで、燻っていたレオナの心は高揚する。学ぼうとする者に教えることは嫌いではないし、自らが努力しのし上がろうとするのは見ていても気分が良い。
　レオナは教える前からラギーがそのうち自分の会社に入ることを確信していた。

「逃がさねえ」

　ラギーが気が付くまでは絶対にキングスカラーと気付かれないようにしようと心に誓い、レオナはこれからの日々を楽しく過ごすのだった。




【おまけ】

「ちょっと待って……あっ、待ってって言ってるのになんで答え言っちゃうんスかー！」
「お前が遅ぇーからだろ」
　ここはこうやって解くんだよ、とレオナはラギーに計算式を示す。ラギーは飲み込みが早く、一度教えてしまえばすぐに応用できるようになる。レオナが律儀にラギーが考えるのを待ってやる時もあったが、時間との勝負もある勉強会ではさっさとラギーに解き方を教え、問題を数多くこなした方が良かった。

「ラギーのやつ、ずいぶん楽しそうにしてるなぁ」
　常連客がラギーの祖母に声をかける。
「なんか、あたしがいない間に勉強教えてもらえることになったらしくてねえ」
　勉強会をしている二人を優しい眼差しで見つめたラギーの祖母は、ふと遠くに見える背の高いビルへと視線を投げる。
「本当に人生何があるかわからないから面白い」
　そう告げながらにっこりと笑い、騒ぎながらも問題を解き続ける二人の元へ山盛りの肉を届けるのだった。