出逢いの息吹
Me
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夏に差し掛かったとはいえ、夜も更けてくれば辺りが暗くなってくるのは当然のことで。
街灯に光が灯り、それに誘われた虫達が群がってパチパチと弾かれたような音が鳴り響く。
きっと、これから夜の公演が始まるのだろう。夕方にはまばらだった人々が集まり出し、明るい場内にどんどん吸い込まれていくのを私はぼんやりと見つめながら歩く。
すれ違う人達は皆期待に胸を膨らませたような明るい表情をしていて、自分とは本当に天と地の差だ。
帰らないといけないのに。…こんなことしたってどうにもならないし、行く所だってないのに。私には、もうあの場所しか帰る場所がないのは痛いほど分かっている。
けれど、どうしても今日は帰りたくなかった。心が本当に壊れてしまいそうで、怖かった。
私は人通りが少なくなった暗い路地に入ると、ズルズルと壁にもたれかかるようにして座り込む。涼しい夜風に身を任せながら自分を守るように膝へ顔を埋めると、何だか不思議と心が落ち着いた。
…今夜は、ここで野宿でもしようかな。
なんて馬鹿げた考えを脳内に浮かべて、静かに瞳を閉じた瞬間_____
「…あの、大丈夫ですか?」
頭上から誰かの声が降りかかり、思わず閉じかけた瞳を浮上させた。
そのままゆっくりと顔を上げると、そこにいたのは長い髪の女性だった。心配そうに眉根を寄せて、こちらに伺うような視線を向けている。
買い物の帰りなのか、手にはスーパーの袋を持っていた。
まさか誰かに声をかけられるなんて思いもしなかった私は目を瞬かせて、目の前の女性を見つめることしか出来ない。
すると女性はますます心配になったのか、私に視線を合わせるようにしゃがみ込み、再度口を開いた。
「あの、体調でも悪いんですか?良ければ付き添いますよ」
そう言って穏やかな笑みを浮かべる女性の姿が、なぜか姉に重ねて見えてしまう。もちろん顔が似ているとかそんな話ではない。
…ただ、誰にでも手を差し伸べるような優しさを持っていた姉だから。こうして自分に差し出された紛れもない善意に触れてしまえば、嫌でもリンクさせてしまうものだ。
ただでさえ打ちひしがれた私の心は、それだけで救われたような気になってしまう。
___こんな私を見つけて、無視せず、声をかけてくれた。
嬉しくて、ただ嬉しくて。何か言いたいのに言葉が出てこない。
大丈夫です。ありがとうございます。そう一言言って笑顔の一つでも見せれば、彼女も安心して家に帰れるだろう。なのに今の私にはそれが言えなくて。伸ばされたその手を掴みたくて、縋りたくて、気づけば喉から言葉がこぼれ落ちていた。
「…助けて、ください…」
静かな空間にこだました声は情けないほど震えていて、触れればすぐに消えてしまいそうなほどか細いものだった。
私の大馬鹿者。こんな事言ったところで困らせるだけだ。頭では分かっているのに、どうしても今の気持ちを吐き出さずにはいられなかった。
「…どうしました?具合が悪いんですか?どこか病院でも_____…」
「…行くところが、ないんです…」
きっと私はよほど切羽詰まった表情をしていたのだろう。途端に女性はあたふたし始め、詳しい状況を聞こうと携帯を取り出そうとする_____が、私の次の言葉によって彼女の動きはぴたりと静止した。
こんなことしたって困らせるのはわかってる。迷惑かけるって分かってる。分かってるのに。
____だれか、お願いだから私を救ってほしい。
私をここから連れ出してよ。どこか遠くへ。大切な居場所だと思える場所へ。
そんな想いを含みながら彼女を見つめる私の姿は滑稽で、大層図々しかっただろう。
暫く二人の間に流れる沈黙に気づいてやっと我に帰った私は、慌てて下手くそな笑顔を取り繕いながら口を開いた。
「すみません、今のは間違いでっ、ごめんなさい本当に…!忘れてくださ_____」
「とにかくこんな所にいたら風邪ひきますよ。あとは家で話を聞きますから、行きましょう」
「え…」
謝罪しようとした言葉を遮られたかと思うと、不意に女性が私の手を優しくとって立ち上がらせる。私は一瞬何が起こったのか分からず、目を白黒させることしかできない。
女性は未だ状況を理解できていない私に向かって明るい笑顔を見せると、そのまま家へと向かって歩き出す。
「えっ、で、でも____」
「どっちにしろ、ほっとけませんから!」
手を引かれながら未だ戸惑っている私に向かって、女性はまた白い歯を見せて笑いかける。
その言葉が、その手が、その背中全てが頼もしくて。
何より伸ばした手を取ってもらえたことが、嬉しくて。
「ありがとう…、ございます…」
私は唇を噛み締めながら溢れそうになる涙を必死に堪えて、ただ一言そう伝えるのが精一杯だった。
____私はずっと、待っていた。来るはずのない助けを。誰かが私をここじゃないどこかへ連れ出してくれることを。
触れられた手から確かな温もりを感じて、モノクロの世界が少しだけ色づき始めた___気がした。