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「...さん、青さん」
ハッと我にかえると、私の目の前でヒラヒラと手を振る河村くんの姿が
「飛んでましたよ」
「あらら、大変失礼いたしました。」
「…そろそろ、エナジードリンクと精神力だけで稼働するのは辞めたほうがいいんじゃないですか?」
私のデスクの前にある空になったモンスターエナジー2缶を指差して、眉を寄せる。
「はは、じゃあ今日はこれくらいで切り上げようかな」
うーん、と伸びをして河村くんをちらと見ると、その手には既に鞄があって。
「あれ、もしかして河村くんももう帰るの?」
「はい。青さんも終わるようでしたら待ってますよ」
ありがと、と声を掛けてバタバタと鞄に物を詰め込む。
「ゆっくり準備なさってください」
呆れたように、けれど優しく笑う河村くんをみて、年甲斐もなくふにゃりと笑ってしまった。
修士時代の先輩だった須貝さんから勧誘を受けて入ったQuizKnock。
女の割にきつい見た目と、みんなより少し上の年齢ということから、どうしても「先輩後輩」「会社の人」の距離感の関係しか築けなかった私の懐にふっと入り込んできたのが河村くんだった。無理な働き方をする私にキツめに注意してくれるのも、他愛ない飲みに不意に誘ってくれるのも、ちょっとした談笑も、誰かとの会話のきっかけも、気づけば河村くんの姿がそこにあって。
(いい子だなあ)
いい子、というには大人び過ぎている彼の背中をぼんやり見ていると、「また飛んでますよ。帰りましょう。」と少し呆れたように笑われて、慌ててオフィスを出た。
ー
「…それで、どうしたんですか。」
そんなこんなで帰り道、改札の目の前で急に「やっぱり、ビールが飲みたい気分です。」なんて河村くんが言い出したかと思えば、あれよあれよという間に近くの居酒屋に連れて行かれて…乾杯した直後にそんな一言を投げかけられた。
「…何が?」
「何か、あったんでしょう。」
青さんは直ぐに顔に出ますからね。と、河村くんは呆れたようにため息をついた。
本当に彼は人の心の機微を感じ取るのがうまい、うますぎてこういう時は困ってしまう。
「いや〜、ほんと、どうしようもないことでちょっとね」
私は自分の前に置かれたハイボールをぐっと流し込む。アルコールが喉を滑る感覚が気持ちいい。
「言いづらい話なら構いませんが、ここ数日ずっとその様子だったので」
河村くんはなんでもない話をするように、目の前の焼き鳥を頬張りつつ言葉を紡ぐ。
そのまましばらくは、オフィスのこととか会社のこととか、河村くんの最近の話とか。そんな他愛ない話をしているうちに、割とアルコールも回ってきて。
ふと目の前で綺麗に食べる河村くんを見つめる。後輩なんだけど、兄のような先生のような、不思議な雰囲気をまとった彼にはいつも主導権を奪われてしまう。この人なら、笑い飛ばしてくれるだろうか、叱って、呆れてしまうだろうか。
(どんな顔するのかな)
「ねえ、河村くん。」
「…話したくなってきました?」
綺麗な二重が私を捉える。彼は他愛ない嘘をつくのが上手なくせに、こちら側には嘘をつかせない、なんてずるい瞳だ。
心のどこかで、このやりきれない気持ちを誰かに話したい気もする、し、河村くんが、どんな風に切り返してくれるのかも聞きたいなんて思ってしまって…いや、それもきっと河村くんにはお見通しなのだろう。
「…話し、ます。」
私は情けなく笑って河村くんの切れ長の目を見つめた。
昔、付き合っていたかどうか曖昧な、だけどとても大切で好きな人がいたこと。
良くないタイミングで偶然巡り会うことが多くて、そのたび身体を重ねていたこと。
その人が、結婚することが決まった、ということ。
(その間に、お互い何人か付き合ったり別れたりもしてるのに、どうしても、彼の記憶だけは綺麗なままで)
流石に、突然の報告から数週間経って、少しずつその違和感は薄らいできたけれど、それでも、ふとした瞬間に思い出すあれこれは、まだ少し厄介なようで。
「…意味わかんないよね、本当にそれだけなのに…。元カノでもなんでもない私が、ちょっと複雑な気持ちになるなんてさ。」
「いいえ、人それぞれですから」
「年齢的にもさ、仕方ないってわかってたし、私もその人と付き合いたかったかって聞かれると素直には頷けない相手だったのに、なんかね。」
胸が、じくじくと痛み続ける感覚。まるで指の薄皮が剥がれてしまった時のような、曖昧で、だけど確実に、痛い。私にはそんなこと感じる権利も立場もないって、頭ではわかっているのに。
その後、しばらくの沈黙が続いたものだから、酔った勢いで河村くんに情けない話をしてしまったことを少しづつ後悔し始めた時だった。
何杯目かのハイボールを飲みつつ、ちらりと彼を盗み見ると、ぱち、と目が合い、誤魔化すように笑ってしまった。けれど、河村くんも釣られるように笑ったからちょっとほっとして。
「ごめんなさい、言葉を探していました」なんて、彼は優しい瞳をたたえて零す。
「そうですね…」
河村くんは、真剣な眼差しで言葉を探す。
「感情と理性は相反するものですから…好きになったものを意識的に嫌いになることも忘れることもできないものです。」
私が頬杖をついて、小さくため息をつくと、河村くんはお箸を置いて、笑った。
「…正直、僕は恋愛経験があまりない人間ですし、今の話も詳しいことが分からないので、本質について何かお伝えすることはできません、けど。
人生に於いて、忘れられない恋ができたというだけでも、青さんの中で得られるものはあったんじゃないですかね?」
「僕は、あなたの気持ちを否定しません。あと、」と言った後、ぐ、と勢いよくビールを煽って、河村くんは先ほどより熱っぽい目で私を捉えた。
「キザな言葉になりますが…早く良い思い出に昇華して、少しずつ前に進めたらいいですね。」
ひとつひとつ、丁寧に噛みしめるように河村くんは私に語りかけてくれて。その優しさが、繊細さが、傷口を優しく塞いでくれるような、そんな感覚がした。
無意識に困った顔をしていた私だったが、河村くんがほんの少し照れたような、切ないように微笑むから、私も釣られるように、小さく笑って、気づかれないようにちょっとだけ泣いた。
ー
「結局遅くまで付き合わせちゃってごめんね」
「何をおっしゃいますやら。僕がビール飲みたいって言ったんですよ。」
「ふふ、そうだったね」
その後はまた、他愛ない話をしていたんだけれど、飲みに行く前よりかは随分と気が楽になって。終電間際の駅に向かって、2人でだらだらと歩く。
「やっぱり、河村くんにはかなわないや」
「なんのことやら?」
「全部お見通しだもんね、私のこと。」
「よく見ていますからね」
「ほんと、心配りが細やかだなあ」
ピピ、と短い電子音を立てて、私たちは改札をくぐる。
「じゃ、わたしあっちだから」
「ああ、そうでしたね。」
今日はありがとう、また明日。そう告げて階段を登ろうとした時だった。
「青さん」
短く名前を呼ばれて、振り返る。
「一つ伝えそびれてたことが。」
「あら、どしたどした?」
河村くんは私に右手を差し出す。不思議に思いつつも、それに応えるように右手を出し出すと、ごく自然に握手をされて、そのまま私の耳元に顔が寄せられた。
「僕は、」
柔らかい声が響く。
「例え誰かの痛みごとでも、青さんなら、受け止めたいと思っていますから。」
では、なんてまるで何事もなかったかのようにその右手を離し、河村くんはくるりと踵を返して2番線のホームへ向かった。
全く予想していない角度からのアプローチに、あっけにとられてしまって。
「は、い?」
しばらく呆然と立ち尽くしていたけれど、終電間際という現実に引き戻され、慌てて階段を駆け上がった。
——誰かの痛みごと——
(翌日、オフィスで顔をあわせるなり挨拶より先に「酔った勢いの本音です。」と笑った河村くんを見て、柔らかい胸の痛みが走った。
昨日までと違う、前に進む兆しの…淡い痛み。)