大きなあなたと
あなたの名前は?
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今の状況に困惑している。
明らかに可笑しい。
マンションならどこにでもありそうなタイプの浴室の中に僕はいる。
別に閉じ込められたとかそういうことじゃない。
気が付いたらここに居た。
自分でも何を言ってるのか不明すぎる。
改めて今までの事を思い返してみた。
今日は組織の任務で動いていた。
ある会社のシステムを少し弄るだけの仕事だった。
大した問題もなく、任務も無事に終わって、そのビルから出ていくところだった。
そう、そこで何故か子どもの声が聞こえたんだ。
夜中の誰もいないオフィスビルの中で子どもの声が聞こえるなんてありえないと思い、声の出所を確認しようと思った。
ビルの周りには住宅街もない。
もともと人の気配のしない場所ではあったから、子どもの声はとても奇妙だった。
少しぐずっているような声が、廊下の奥の一室から聞こえてくる。
明かりはついていない。
不審に思いながら、扉を開けてみると、そこは何もない倉庫だった。
壁なんかを調べていたが、特に変わった様子はなく、赤ん坊の姿も見当たらなかった。
空耳だったんだろうか、そう思い、元来た道へ戻ろうと扉を開けると何故か浴室が現れたのだ。
「…どういうことだ?」
扉は一つしかなかったはず。
扉の向こうは廊下だった。
しかも、この浴室は何となく見覚えがある。
不思議に思いながら、振り返ってみると、最初に入った倉庫ではなく、脱衣場が見えた。
「え……」
狐にでも馬鹿にされているのか、と思いたくなるくらいに不可解な状況だった。
さらには僕がビルに侵入したのは夜中だったが、ここは昼間だということ。
浴室の窓から光が差し込んでいる。
取り敢えず、ここに居るわけにもいかない。
少しでも多くの情報を集めるためにも、脱衣場から外へつながる扉に手をかける。
少しだけ扉を開けて、様子を窺うが、誰かが来る気配はない。
廊下の少し先には再び扉があり、部屋に繋がっている。
部屋の中には誰かいるようで、声が聞こえてきた。
会話をしている、という感じではないようだ。
何を言っているのかまで聞き取れなかったため、部屋の扉の前まで忍び寄る。
ちょうど、部屋に続く扉は真ん中がガラスになっていて、中の様子が見える。
ガラス越しに部屋の中を見て、頭の中をよぎる桜と後姿の着物の女性。
靄がかかったように名前も顔も思い出せないのに、ふとした瞬間に僕の頭の中に現れては優しい声で僕の名前を呼ぶ。
大切な何かを置いてきてしまったような感覚。
僕は…この場所を知っている。
中にいる人物の声が僕の耳にも届く。
その瞬間に、頭の中でずっと靄のかかっていた映像がクリアになった。
元の世界に戻ったら、思い出せなくなっていた。
もう二度と行くことはないと思っていた、逢うことはないと思っていた人が、扉の向こうにいる。
そう…彼女は、名無し権兵衛さん。
思い出した途端に、彼女への淡い想いも再び色付いてしまった。
そうなると僕はまた別の世界に来てしまたということだが、一体、何故…。
扉を開けただけだったはず。
異世界とつながる扉なんてものがあるはずもない。
不思議に思っていると、部屋の中で動きがあった。
「あー、あー」
「あら、もう起きちゃったの?」
「うー」
「ふふ、ご機嫌だねぇ」
一気に思い出された記憶に思ったよりも動揺していたらしく、見落としていた。
権兵衛さんは一人ではなかった。
彼女の腕の中には小さな赤ん坊がいた。
あまりに衝撃的な光景に、思わず片手で顔を覆う。
己の恋心を思い出すと同時に失恋したわけだ。
ああ、権兵衛さんに最初に会ったのは、僕が25歳の時だ。
それから3年経った。
3年もあったら結婚して子どもがいたって何ら不思議じゃない。
「…………ははっ…失うよりはマシ、か…」
3年間ほとんど思い出せなかった彼女のことを、何故、今になって思い出してしまったのか。
いや、再びこの場所へ来なければきっと思い出すこともなかっただろう。
酷く動揺したが、権兵衛さんが幸せで過ごしている証拠だと、自分を納得させる。
好きな人と結婚して、可愛い子どもの母親になっている。
権兵衛さんが言っていた夢が叶ったということなんだから、それは良いことだ。
幸せに過ごしてくれているのならそれでいい。
再び思い出してしまった淡い想いは気付かないふりをしろ。
そもそも、違う世界の人間なんだから……望むべきじゃない。
元の世界に戻らなくては。
そう思ってはいるものの、体は言うことを聞かず、その場から動くことができなかった。