今日の彼は、どうやら随分と機嫌が悪いようだった。
「ッが……!」
胃に拳がめりこんで、思わず嗚咽を漏らす。
何度か咽込み、畳の上に転がった。
そんな私を見下げ、再び同じ場所に振り下ろされる拳。
ただの一般人として育ってきた私は避けることもできず黙って受け入れるしかない。
薄暗い電灯を背後に立つ彼の顔色は見えなかったが、どんな顔をしているかは安易に想像できた。
「あ、ああ…、はぅ」
痛みのあまり床をのたうつ。
口の端から唾液が零れた。
「なあ」
滅多に口を利かない彼がぼそぼそと呟くように口を開く。
「お前、真選組の人間と関わっただろう」
「……え?」
真選組……?
山崎さんの事だろうか。
「ッあが……!」
腹部に今度は拳ではなくつま先がめりこんだ。
「余計なことしやがって……! 下手に動けなくなったじゃねぇか」
「……どういう、こと?」
彼がすらりと短刀を抜いたことよりも、真選組と関わったことで彼が困るということの方が意味が分からない。
いや、分かりたくない、の方が正しいだろうか。
殺されそうになって、確実な悪意と敵意を感じ取って初めて、私はどこかでこの人を信じていたかったんだと気が付いた。
親を殺され、家を焼かれ、攫われ、兄と呼ばされ、日々の慰みものにされ、それでもまだどこかで、言う通りにしていればいつか優しくしてくれるかもなんて、いつか本当に家族として愛してくれるかもなんて思っていたんだ。
だって、私にはもう、家族と呼べるものはいないから。
「お兄ちゃん……冗談、だよね……?」
「お前のせいで……お前の……!」
ぎらりと、窓から差し込む月明かりを受けて彼が振り上げた短刀が笑った。
◆ ◇ ◆ ◇
突撃だ、と。
局長の指示があったと殆ど同時だった。
「あ、あぁああぁッ!!!!」
喉の奥から絞り出すような悲鳴がその小ぢんまりとした家から響いた。
同時に先に突撃していった隊員達の雄叫びが聞こえる。
凍ったように動かなくなってしまった自分の足に喝を入れ、悲鳴を上げそうな喉の奥に生唾を送り込んで、木造の戸の奥に飛び込んだ。
そうして目の前に広がった光景に思わず呼吸を忘れる。
「おい! 手ェ貸せ! 縛り上げろ!」
隊員達によって組み敷かれた標的と、床に転がる血に濡れた短刀、ぐったりと畳の上にその身を放っている彼女。
短刀に負けないほど血に濡れたその身体には幾つも切り傷が刻まれている。
そして何より、うつ伏せに倒れる彼女の背が……乱暴に裂かれた着物の奥の肌がぱっくりと開き、そこから鮮血が溢れ出ているのを視界に捉えた瞬間、俺はこの世の全てを呪った。
崩れ落ちそうになった膝を支えるので精一杯な俺の背を、いつの間にか隣に立っていた副長が叩く。
「ボーっとすんな。応急処置手伝え」
彼に指示されるまま真っ赤に染め上げられた彼女の白い肌に恐る恐る触れた。
まだ辛うじて温かいそれに少しだけ安堵し、体中の傷に布をきつく巻き付けていく。
彼女の身体には想像していたよりも遥かに多い傷が刻まれていて、そのどれらも深く、痛々しく、くっきりとその身に残っている。
浅い呼吸を繰り返す彼女は、到着した救急車に乗せられていった。
サイレンを鳴らしながら走り去っていく救急車を茫然と見つめる。
「山崎」
肩に角ばった手が乗って、恐る恐る振り向くと局長と目が合った。
「大丈夫だ。彼女は助かる」
「そう……です、よね」
歯切れの悪い俺に局長は苦笑いを浮かべる。
「間に合わなかったって思ってるか?」
言葉に詰まっていると、彼は憎らしいほど綺麗な空を見上げた。
「俺も、もしお妙さんがあの子と同じ境遇に居て、今お前の立場だったらと考えたら、自分が憎くて仕方がない」
ばしん、と背を叩かれ、身体が前につんのめる。
少し前に俺の背を押してくれた、逞しい掌。
「だが、過ぎてしまったことはもう取り返せない。ならば二度と傷つけさせなければいい。それぐらい、己が強くなればいい。江戸の平和も大事だが、」
「好きになった女ひとり守れないなんて男失格だ、でしょう」
「そうだ。よく分かったな」
「ワンパターンなんですよ、局長」
彼は、む、そうか?なんて頬を掻く。
その姿を見ながら、次の非番はいつだっただろうか、なんて考えるのだった。