刀を持っていなくて良かったと思った。
元々潜入には邪魔なのであまり持つことは無いけれど、もし手元に刃物があったら飛び込んで奴を刺し殺していただろう。
今回の標的は、攘夷浪士に武器を売りつけて稼いでいる密売人だった。
自分が言うのも何だけれど、あまりぱっとしない顔の標的はその顔の割にしぶとく中々尻尾を出さなかった。
いつも密売を行っているという近辺に一ヶ月ほど潜入してみたが動きが見えなかったため仕方なく標的を尾行、家を突き止めたところでひとまず引き上げようとしたところだった。
「あっ……おかえりなさい、お兄ちゃん」
心臓が一瞬動きを止める。
壁越しなのでいつもよりもはるかに遠かったが、貧相な木造の家の作りのおかげで十分聞き取ることができた。
彼女の、咲さんの声が確かに中から聞こえる。
思わず、ちらりと締め切られた窓から中を覗き込んだ。
普段ならそんな危ない橋は渡らないが、やはり恋の病というのは人間をおかしくしてしまうのだろうか。
覗き込み、中に広がっていた光景に口元を抑える。
彼女の小さな体を壁に押し付け強引に自身の欲を挿入し、一心不乱に腰を振る標的。
ひと目で、あの男と彼女との間に愛とか恋とかそういったものは欠片もないのだとわかった。
彼女の内腿にたらりと鮮血が垂れる。
彼女が産婦人科に通っていた理由が今わかった。
避妊薬を健康のために飲んでいたわけではないということも。
「……っ」
今にも飛び出しそうな身体を抑え込み、俺はその光景をひたすら見た。
最低な行為かもしれない。
だが、ここで助けに入って潜入を勘繰られた挙句彼女を連れて逃げられでもしたら元も子もない。
数分の後、彼女がかくんと膝から崩れ落ちる。
恐らく痛みに耐えていたのだろう顰められていた彼女の顔がさあっと青くなった。
唇が震えている。
相手を見上げるその目と、咄嗟に腹部を庇ったのを見て確信した。
あの痣、傷、全て奴につけられたものだ。
そして恐らく着物で隠れて見えない彼女の透き通った肌にはもっとおどろおどろしい傷が残っている。
結局その後、標的は自分だけ満足げに家を出ていった。
本来ならそちらを追うべきだったのだろうけれど、俺は一人取り残され床にへたり込んだままの彼女を見て動けなくなってしまった。
顔に掛かった溺れてしまいそうなほどの欲を拭おうともせず、自分の肩を抱きしめた彼女の濁った瞳から涙があふれる。
「もう、やだなあ……こんなの……」
元から小柄な彼女が、もっと小さく見えた。
まるでこの世の絶望を全てかき集めたような表情で、彼女は外に広がった青空を見上げる。
「助けて……誰か……」
局長の言う通りだ。
好きになった女ひとり救えないなんて、男じゃない。
俺は立ち上がり、足早に標的を追いかけた。
待っていて、咲さん。
俺は必ず、あなたをそこから救い出してみせる。
◆ ◇ ◆ ◇
「よくやった、山崎!標的の現場だけでなく住処まで突き止めるとは!」
局長がそう言い、俺の背中を叩く。
口元は笑っているが目にはぎらぎらとした野心のようなものが煮えたぎっていた。
それは彼だけではなく、他の隊員も同じ。
これから標的のところに押し入るのだから当たり前と言えば当たり前だけれど。
「上からもゴーサインが出た。今夜、奴が密売を終え帰宅したところを叩く。いいな?」
隊員達が鋭く返事をする。
やっとだ。
やっと彼女を救いに行ける。
彼女は零した。
誰か助けて、と。
ああ、救ってやろうじゃないか。
愛しい愛しい彼女の事を。
「よし。総員配置につけ!」
局長の合図で隊員達が散っていく。
事前に指示された通り彼らは配置に着くだろう。
相手は組織じゃない、個人だ。
恐らく今までの任務よりも幾分ぬるいだろうが油断は禁物。
改めて気合を入れ直し、俺も現場に向かうため敷居を跨ごうとした時。
「おい、山崎」
呼ばれて振り向くと、そこには副長が居た。
口に咥えた煙草の先からは煙がたち上がっている。
「テメェが潜入している間、標的を別ルートで調べた」
ふう、と煙を吐き出す彼。
「戸籍、過去、出生。洗いざらい調べたが、奴に現在家族がいるという記録は残っていなかった。勿論、テメェの報告にあったその妹の記録もな」
「……え?」
おかしい。
確かに彼女は、あの男のことを兄と呼んでいた。
「だが一つだけ気になるのがあってな」
副長は吸いきった煙草を灰皿に押し付けた後、もう一本を口に咥え火をつける。
「奴さん、過去に一家惨殺事件を起こしてやがる。そんで、その家の一人娘は死体が上がらなかったのか行方不明扱いだ」
「……そんな、まさか」
「あくまで憶測だがな。もしそれが事実なんだとしたら」
彼は急くようにして紅く燃える先端を灰皿に押し付け、銀色のそれを元あった場所に戻した。
刀を差し直し、普段より大股で廊下を歩きだす彼に続いて廊下へと出る。
「趣味悪ィな。攫った小娘に兄ちゃん呼びさせといて、そいつで楽しんでるってことなんだからよ」
一体どう育てばそうなるのかね、と彼は背中越しに小さく悪態を零した。