あれから数か月、彼を見なくなった。
無意識に彼の真っ黒い背中と優しい目元を探している自分に驚く。
彼の事を認識し始めたのはぶつかってバッグを落としたついこの間なので、見なくなったのではなく逆に今まで見れていたのが奇跡……なのだろうけれど。
すれ違う度に声をかけてくれる彼の存在が救いになっていたのは確かなのだろう。
激しい喪失感が心臓の辺りにぽっかりと浮かんでいる。
またいつも通りの日常に戻り、同じことの繰り返し。
だけどこれでいいんだ。
元々交わるはずのなかった人間がちょっとしたミスで関わってしまっただけなのだから。
「いた…っ」
指先からじわりと血が流れる。
ぼーっとしていたせいか指先を包丁で切ってしまった。
持っていた包丁を置き、お野菜に血が垂れないよう指先を抑え、ひとまず傷口を水道で洗う。
ひりひりとした痛みから目を逸らすように、視線を指先からずらした。
二人暮らしには少し物足りないサイズの冷蔵庫は殆ど空っぽ。
まとめ買いは嫌いだとあの人が言うため殆ど毎日食材を買いに出ている。
食材を買いに出る時間だけが私が外の空気を吸える貴重な休憩時間だ。
それにしてもあの男は一体どこで金を稼いでいるんだろう。
出処はよくわからないが金は余るほどあるようだ。
現に毎日食費としては多すぎるほどの金を持たされている。
あの人の事なんてなにもわからない。
兄として扱うようにと言われているからその通りに従っているだけだ。
「包帯、包帯…っと」
棚の中から救急箱を取り出し傷口に包帯を巻きつける。
ガーゼも間に挟んだのだがすぐにじんわりと血が滲んだ。
その時、家の障子が開いて、あの人が帰宅する。
「あっ…おかえりなさい、お兄ちゃん」
言われた通り、怒られないようにそう言った。
だが、生憎と虫の居所が悪かったらしい。
着物の裾を乱暴に掴まれバランスを崩す。
しかし彼が私のことを気にする様子はなく、バランスを崩した勢いそのまま壁に押し付けられ後頭部を強打した。
今日は随分と機嫌が悪い。
多少抵抗すべきか迷ったがやめた。
それが喜ばれるときもあったけれど、今の彼は自分の中に溜まった全てを近場にあったものに吐き出そうとしているだけ。
愛情は望んでいない。
彼の下で愛らしく善がる妹を、今は望んでいない。
「ッ…あ、ぐ…!」
乾ききった秘部に彼の感情が何の挨拶もなしに押し入って来た。
走った痛みに思わず声を漏らす。
するとそれが気に入らなかったのか、掌がぬらりと伸びてきて口を塞がれた。
喋るな、と。
その目は言っている。
何度も何度も走るその痛みに声を押し殺して耐えた。
彼の身長に合わせて必死に背伸びしている脹脛が悲鳴を上げ始める。
早く、早く終わって。
彼の呼吸が荒くなり、そろそろか、なんて思った時。
脹脛にぴしゃりと激痛が走った。
思わず足の力が抜け、へたりこむ。
「……あ、」
やっちゃった。どうしよう。殴られる。
だが降りかかってきたのは彼の拳ではなく白く濁ったもので、その後にも覚悟した痛みはどこにも来なかった。
どろどろになった私の顔を見てなにやら満足したらしい彼は自身をいそいそと仕舞いこみ、また何処かへ出かけるのか障子に手を掛ける。
「い、いってらっしゃい……お兄ちゃん……」
その言葉を最後まで聞くことなく、彼の姿は消えた。
ただこの為だけに帰って来たのだろうか。
下半身がひりひりと痛む。
足を攣ってしまったのかしばらく立ち上がることはできそうになかった。
「あは……あはは……っ、ふふ……」
思わず笑みが漏れる。
変なの。
人間って、死んでしまいたいときでも笑えるんだ。
震える自分の肩を抱きしめると目尻から水が溢れ出し、頬を伝った。
ぶちまけられたあの男の欲と混じって汚水となったそれは冷たい床にシミを作る。
「もう、やだなあ……こんなの……」
痛いのも苦しいのも怖いのも、全部嫌だ。
本当は逃げ出したい。
だけど逃げ切る自信もないし、逃げ込む場所だってないし、ましてや逃げて捕まった時にどんな仕打ちを受けるかわからない。
抵抗しただけで死ぬ方がマシなくらい苦しかったんだ。
逃げたら、一体どれだけの苦痛を与えられることか。
「助けて……誰か……」
掠れた声は外に広がる憎らしい程の青空に吸い込まれていった。