「ただいま、お兄ちゃん」
いつも通り買い物を終えて帰宅し、薄暗い部屋にそう声をかけた。
すると中に居た人影はぬらりと起き上がり、こちらを見る。
私の両親を斬り殺し……私を奴隷扱いする、この男。
だらしなく太ったその身体に手招かれるまま近付くと手首を痛いほど握られ、すっかり褪せた畳みに押し付けられる。
ああ、また始まった。
逃げれば良い?
まさか、冗談。
両親も居ない、身を寄せられる場所もない……そんな私が、どこへ逃げろと?
「待って、お兄ちゃん。お昼ご飯食べてからにしよ? ね?」
懇願すると頬を叩かれた。
口の中にじんわりと血の味が広がる。
彼は何も言わなかったが、その目には口答えをするなと書いてあった。
仕方がない。
これ以上痣を増やされても隠すのに面倒だし。
黙って、諦めて、受け入れることにした。
締め切られた窓の隙間から差し込む光だけが室内を照らす。
壁の隙間から通る風が布切れ一枚纏っていない肌を撫であげた。
「あっ…お兄ちゃん、きもち、いいよ…」
本当はそんなことない。
痛いし、気持ち悪いし、苦しい。
でもそうやって言わないと、ぶたれるから。
いっそ派手に抵抗して殺されてしまおうと思ったこともあったけれど……そうして抵抗した私を待っていたのは死なんかじゃなく、いっそ死んだほうがマシだと思えるほどの苦痛だけだった。
だから…もう、何もかも諦めた。
殺してくれないのなら、抵抗したってただ痛いだけだから。
上に跨って、息を荒げて必死に女の身体を貪る彼を見ないように顔を手で覆いながら、善がるふりをする。
腰を掴まれ乱暴に余るほどの欲を出し入れされ、そののち彼はお構いなしに中に自分の欲を吐き出すのだ。
「気持ち良かった……お兄ちゃん、大好きだよ」
そう言えば彼は満足そうに床に就く。
彼の寝息が聞こえたのを確認して腿に垂れる白濁液を拭き取り、シャワーを浴びる。
念入りに全身を洗い、着物を羽織った。
まだあの男に触れられた感触が体中に残っている。
胃の中身がせり上がってくるような感覚を押さえつけながら、少し足早に再び家を出た。
* * *
俺は、山崎退は見てしまった。
ショックが大きすぎて、現在は道端に座り込んで通行人に奇怪な目を向けられている。
彼女が、咲さんが産婦人科に入って行くところを見てしまった。
局長にあまり有難くない助言を受けてから数日。
その数日の間は運悪く彼女を見かけることがなく落ち込んでいた矢先に彼女を見つけ、意気揚々と声を掛けようとしたところで、これだ。
「っはあぁ…」
人目も憚らず大きなため息が肺から零れる。
近くでお腹が膨らんだ女性二人がこちらを横目でちらちらと見ながら何やら小声で話していた。
多分めっちゃ良くない噂されてるけど…いいや、もう、どうでも。
そんなことよりも、彼女だ。
彼女が産婦人科を出入りしているということは妊娠中か…あるいは逆に避妊薬なんかを貰いに来たのだったらそういうことをする相手がいるってことだろうし、どちらにせよ絶望的だ。
そして何故か彼女が再びそこを出てくるのを待っている自分にも呆れ返った。
一体待ってどうするつもりなのか。
「ッ!」
その時、彼女が病院のドアを潜ってからおよそ二時間とちょっと。
入った時と同じ、何も感情が読み取れない表情で彼女は病院から出てきた。
なんだかいけないことをしているような気分で、思わず物陰に隠れる。
「ねえ、奥さん。あの人、私達よりも前からここ通ってるのを見たけれど一向にお腹大きくなってないわよね?」
「不妊治療でもしてるんじゃないかしら? あ、私この間お薬貰ってるの見たし、もしかしたら避妊薬を貰いに来ているのかもしれないわ」
「そうなの? でもあの人、結構町ですれ違うけれど恋人と一緒に歩いているところなんて見たことないわよ」
「確かにそうね……悪い人とでも付き合っているのかしら」
先程までこちらをチラ見していた二人が彼女に噂の矛先を変える。
そうだ。
彼女の腕に刻まれたあの痛々しい痣を見ただろう、山崎!
彼女を救うんじゃなかったのか!
俺は喝を入れる様に頬を叩き、歩いて行く彼女の背を追った。
「咲さん!」
彼女がくるりと振り向く。
その動作の一つ一つが綺麗で、思わず、はう、と息を吐いた。
「あら、えっと……山崎さん?」
彼女は俺の顔をみて、こてんと首を傾げる。
愛らしい。
今すぐその手を引いて連れ帰ってしまいたいほどに。
「きっ奇遇ですね。こんなところでお会いするなんて」
少しどもった。
彼女に今の俺の顔はどう見えているんだろう。
そうですね、と彼女は相槌を打ち、薄桃色の頬に笑みを湛える。
「俺はパトロールでこの辺来たんですけど、咲さんはお買い物ですか?」
自分でも白々しいと思う。
だがまあ、女性に対して、今産婦人科から出てきましたよね、なんて聞くのは野暮というか馬鹿というか阿呆のすることというか……。
「はーん。これが局長が言ってたジミーの好きな女ですかィ」
肩口から硝煙の香りがする。
「でもこの女、さっき産婦人科から出てきたぜ。相手居るんじゃねぇかィ?」
そう言い、野暮で馬鹿で阿呆な俺の上司がアイマスクを首に掛けながら言う。
その肩にはバズーカが背負われていた。
目の前に居る彼女の目は真ん丸く見開かれていて、困惑しているのが見て取れる。
当たり前だ。
いきなり目の前にベビーフェイスの毒舌男が出てきて、白昼堂々往来で失礼なことを言われたら固まるだろう。
平手打ちをして逃げられなかったのが奇跡だ。
「なあ、ジミー。諦めた方がいいぜ?」
そう言い、悪魔……いやいや、沖田総悟は無表情のまま俺の顔を覗き込んだ。