忘れられない歌がある。
幼い頃、暗闇が怖くて眠れずにいると、いつも母が歌ってくれた歌。
なんてことのない、誰でも聞いたことのあるような普通の童謡だけど、自分にとっては母の形見のようなもの。
鈴のような綺麗な声で紡がれる旋律を聞きながら、母の腕の中で眠りにつく……それが幼い頃の日課だった。
「~♪」
もう、歌ってくれる人は居ないけれど。
それでも確かに、私の中に母の面影は残っている。
優しくて、お淑やかで……花のように可愛らしくて、自慢の母だった。
そう丁度たった今、屯所の客間で近藤さんと笑い合っているあの女性のように。
「お茶が入りました」
客室の襖を開けて中に入ると美しい女性と目が合う。
まんまるい瞳に白い肌は、なるほど確かに沖田さんと同じ面影を思わせた。
「おお、ありがとうな、咲」
近藤さんに軽く会釈をしながらテーブルの上に湯呑を乗せると、その人はにこりと笑って、ありがとう、と小さく零す。
「いえ。……ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、真選組で女中をしております、咲と申します」
「これはご丁寧に。沖田ミツバです。いつも総ちゃんがお世話になっています」
……総ちゃん。
その可愛らしくて親しい呼び方を聞いて、より実感が湧いてきた。この女性が沖田さんの姉上であるということに。
「そういえばミツバさん、定期的にお菓子を送ってくださっていますよね。いつもありがとうございます」
「そんな。いいのよ。いつも総ちゃんがお世話になっているんだから、それぐらいはお返ししないと」
そう言って彼女……ミツバさんはからころと笑った。
「ところで咲さん、あなた、見たところ私と同じくらいよね? 敬語じゃなくて、普通にお話してくれていいのよ?」
「え? ですが、ミツバさんはあくまでお客様で……」
「お願い。私、同い年ぐらいの女の子のお友達なんて居ないの。周りにいるのはいつも男の人ばっかり。だからあなたと仲良くなりたくって。ダメかしら?」
少し寂しそうに笑いながら首を傾げる彼女。
彼女が屯所に来る少し前、近藤さんからは幼少から身体が弱いと伺っていたから、きっとあまり外に出る機会もなかったのだろう。
実際、私も同じ年代の女性の友達なんて居ない。
……お通ちゃんという年下のお友達はいるけれど。
「わかりました。私も同年代のお友達なんていないので、嬉しいです。……じゃ、なくって、えっと。嬉しい」
「本当? ありがとう、咲さん」
両手を合わせて嬉しそうに笑った彼女は、そうだわ、と目を細めた。
「せっかくお友達になったんだもの。咲ちゃんって呼んでも良い? あなたももっと砕けた呼び方をして欲しいわ」
「それならえっと……ミツバちゃん」
彼女に倣ってそう呼ぶとミツバちゃんは私の手を取って、きゅっと握る。
ミツバちゃんの手は細くて、白くて、少し冷たかった。
「宜しくね、咲ちゃん」
その次の瞬間。
どぉん、と爆発音がして部屋の襖と一緒に数人の隊士が吹っ飛ばされてきた。
ある人は庭の石畳の上に叩きつけられ、ある人は先程まで囲んで談笑していたテーブルの上に力なく突っ伏している。
「きゃああっ?!」
驚きで思わずひっくり返りそうになった私に対して近藤さんとミツバちゃんはにこにこと笑ったままだ。
なんでこの人たち、一切動じてないの……?
「まあ、相変わらず賑やかですね」
なんて笑いながら言う彼女。
まるでこれを常日頃見られる景色のように言っているけれど、襖が吹っ飛ぶことなんて滅多に…………いや、良く思い返したら結構あるなぁ……。
「おーい、総悟! やっと来たか!」
そう言ってにこやかに手を上げて、思いっきり壊れた襖の向こうを見る近藤さん。
彼につられてすっかり見通しが良くなった方へ視線を向けると抜刀した沖田さんと、その沖田さんに首を掴まれて刀の切っ先を突きつけられている山崎さんが居た。
……一体彼らの間に何が。
「すんません。コイツ片付けたら行きやすんで」
ぎらり、と刀の刀身が爽やかな日差しを浴びて光る。
沖田さんの目は本気だ。
「ちょ……待っ……」
思わず止めに入ろうと立ち上がったはいいが、一体どうしたら良いかわからない。
とりあえず二人に駆け寄りつつ沖田さんの腕を掴もうとしたその時ミツバちゃんがこちらに視線を向けた。
その顔はまさに弟を叱る優しい姉そのものだ。
「総ちゃん、ダメよ。お友達に乱暴しちゃ。めっ」
……怒り方は随分可愛いけれど。
こんな言い方で果たして沖田さんが止まるものかと思ったけれど、彼は険しい顔でミツバちゃんを見て……ばっ、と俊敏な動きで頭を下げた。
「ごめんなさい、お姉ちゃん!」
小さく縮こまるその姿は普段の彼からはとても想像もできないほど、弟らしい。
心なしか声のトーンも二段階ぐらい高い。
「ええぇええっ?!」
一方、離された山崎さんはというと口をあんぐりと開けて驚いていた。
するとその様子を見た近藤さんが豪快に笑う。
「相変わらずミツバ殿には頭が上がらんようだな、総悟!」
少し頬を赤くしながら四つん這いのままミツバちゃんに近付いていった沖田さんの頭を、ミツバちゃんが優しく撫でた。
これは……姉弟というより、犬猫の扱いなのでは……?
いや、何も言うまい。
彼女たちなりの関係というものがあるのだろう。
「お久しぶりでござんす、姉上。遠路はるばる江戸までご足労、ご苦労様でした」
今の沖田さんの姿は姉を慕う無邪気な少年そのもので。
なんだか段々と微笑ましい光景に思えてきた。
「沖田さん、ミツバちゃんのことが大好きなんですね」
思わず笑みを零しながらそう言うと、彼は頬を更に赤くしてふいとそっぽを向く。
……か、可愛い……!
そういえばこの人、黙っていればすごく可愛らしい顔をしているんだった。
こうして可愛らしく甘えられてしまっては、ついつい甘やかしてしまいたくなる気持ちがわかる気もする。
母性本能がくすぐられる、というやつなんだろう。
「ふふ、そうなの。総ちゃんったら昔っから、姉上、姉上って」
「も、もう、姉上! やめてくださいっ」
「あら、いいじゃない、総ちゃん。私と咲ちゃんはお友達なのよ。昔のあなたのお話もしたいわ」
そう言われた沖田さんは少し拗ねたような表情を浮かべつつも、ぐっと黙り込んだ。
「だ、誰……?」
ふと、その様子を見ていた山崎さんと目が合う。
引きつった笑いを浮かべた彼に近藤さんが近付いていく。
「まあまあ、姉弟水入らず。邪魔だては野暮だぜ」
そのまま彼はくるりと二人に振り向いた。
「総悟。お前、今日は休んでいいぞ。せっかくいらっしゃったんだ。ミツバ殿に江戸の街でも案内してやれ」
それを受けた沖田さんは、ぱあ、と可愛らしく笑みを浮かべ、近藤さんにぴしりと綺麗にお辞儀をした。
それを聞きながら近藤さんは山崎さんを連れて奥の部屋へと進んでいく。
「ありがとうございます! ささ、姉上!」
手を取り合いながら江戸の街へと繰り出すために歩き出した二人を見送りつつ、ぐちゃぐちゃになってしまった部屋をどう片付けようかと考えているとミツバちゃんがこちらに振り向いた。
「ねえ。咲ちゃんも一緒に行かない?」
「え?」
廊下の奥からぱたぱたと走って戻ってきた彼女は、そっと私の両手を握る。
「私、同年代のお友達と街にお出かけってしたことないの。だからお願い。……それとも、お仕事忙しい?」
少し眉を下げて首を傾げた彼女の背後にいる沖田さんと目が合った。彼は懇願するような表情を浮かべている。
……姉弟水入らずで過ごしたいだろうに、お姉さんの願いを叶えてあげようとする彼がとても可愛らしく見えて、私は気がついたら首を縦に振っていた。
「わかりました。仕事のことは気にしないで良いですよ」
「本当? ありがとう、咲ちゃん! ……それから、敬語」
「あ……。ふふ、癖になってるの、ごめんね、ミツバちゃん」
手を握り返すとミツバちゃんはにっこりと笑って嬉しそうにゆっくりと歩き出した。