照り付ける日差しの中、頬を撫でた風はじっとりと熱さを孕んでいて、額に流れる汗を拭った。
今日もいい天気だ。
先日の幽霊騒動から数日が経過した今日。
あれ以降大きな事件も特になく平和な毎日を過ごせていた。
山崎さんは……特に何も言ってこないのでモヤモヤするけれど。
そんなことを想いながら手元にある買い物袋を見下げて、思わず笑みがこぼれる。
また土方さんのマヨネーズが減ってきたので買い出しに出たら、いつも利用しているスーパーでマヨネーズが売り切れており、仕方なく少し遠出して普段はいかないスーパーに行ったらなんと特売をやっていたのだ。
安いからと調子に乗って買いすぎて、食材の重みでふらついてしまうけれどそれにすらお釣りが来るほど得した気分。
歩きなれない街並みを鼻歌交じりに歩いていた、その時だった。
「もし、そこのお嬢さん」
そんな声が聞こえて振り返る。
人通りが多くざわついているこの空間の中で、果たして"お嬢さん"に分類される人間は何人いるだろうと思ったが、とりあえず辺りを見渡す。
すると道の端でこちらを向いて手招きしている人影を見つけた。
この暑いのに着物を何重にも着込んだその姿は一見怪しい人に見えなくもない。
改めて周囲を見渡すがその姿を見て立ち止まったのは自分だけのようで、その人物が変わらず同じ場所で手招きを続けているところを見ると、呼ばれているのは自分なんだろう。
どうしようかと迷ったものの、意を決して人の流れを外れ、その人影の前まで歩み出た。
「何か御用でしょうか……?」
恐る恐るそう尋ねる。
するとその人物が懐に手を入れるものだから、思わず身構えてしまった。
少しだけ後ずさり、いつでも逃げられるよう腰を落としたが思い直して姿勢を正す。
ここまで近づき応えてしまった以上ここで逃げ出すのは少々失礼だろう。
幸い人目もある。
そう大事には至らないはずだ。
数秒ほど懐の中を弄って、ゆっくりと戻ってきたその手に握られていたのは物騒な武器でも爆弾でもなく、一枚の紙。
「ここに行きたいのだけれど、迷ってしまって。良ければ教えて頂けませんか?」
その言葉に、一瞬でも疑ってしまった自分を恥じる。
旅のお方なら、これだけ厚着をしていても不思議ではないだろう。
心の中で何度も謝りながら買い物袋を一旦日陰に置いて、差し出された紙を見る。
そこに描かれていたのは店の名前と簡素な地図だけ……確かに、これでは周辺住民じゃない限り分かりにくいだろう。
「ああ。このお店、私もよく行くんです。えっと、この道を真っ直ぐ行って……」
道を指して説明をしようと思ったが留まる。
「……口頭じゃわかりにくいですよね。もし良ければご案内しましょうか? 私も同じ方向へ行くので」
「本当ですか? お願いします」
ぺこりと頭を下げるその人に笑みを浮かべ、買い物袋を手に並んで人込みを歩く。
それにしてもこの人、随分背が高い。
髪の長さと歩き方を見るに女性だとは思うんだけど……下から見上げているにも関わらず口元しか見えなくて、ちょっとだけ不安になる。
「この街は、賑やかで楽しいですね。田舎から出てきたものだから目移りしてしまいます」
その方はきょろきょろと辺りを見渡しながらついてきた。
特に背後を気にしているような、そんな様子が何だか可愛らしくて思わず笑ってしまう。
「そうなんですね。この街にはどのくらいいらっしゃるおつもりで?」
「まだ決めていないんです。でもとても楽しそうだから暫く滞在しようかしら。もし良ければ日を改めて別の場所も案内してくださる?」
「勿論。でも私も仕事がありますので……手が空いていればになりますが」
笠から覗く口元がふわりと微笑んだ。
「あそこですよ。仰ってたお店」
前方に先ほど見せてもらった紙に書かれていたものと同じ店名が掲げられた看板が姿を現す。
お店の目の前まで来ると、その人は手に持った紙と看板とを何度か交互に見て、それを大切そうに懐に仕舞い込むと深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「お役に立てて何よりです」
迷わなくて良かった、と安心したように零れたその声にこちらまで嬉しくなる。
「本当にありがとう。差し支えなければお名前を聞いても?」
「勿論。咲と申します」
がさ、とその人が身に着けた笠が音を立てた。
瞬間、私達の間を力強い夏風が通り抜けていく。
「咲さん。素敵なお名前。私の名前は、」
風に攫われていく笠を思わず目で追うと同時に、手首に体温が巻き付いた。
視線を元に戻すと笠でずっと隠れていたその瞳と目が合う。
「桂小太郎、と申す」
その名を聞いた瞬間、ぞくり、と背筋が粟立った。
その数秒後には手首を強く引かれ、お店の脇にあった路地に連れ込まれる。
抵抗しようと思ったときにはもう遅く、背後にある壁と前方に居るその人とに挟まれ、身動きが取れなくなってしまった。
「少し我慢していてくれ」
口に彼の大きな手のひらが宛がわれて声が出せなくなる。
目の前にある胸を押し返すがびくともしない。
ど、どうしよう……! 完全に油断した……!
その名前には聞き覚えがあった。
新選組と対峙する存在……攘夷浪士の桂小太郎。
土方さんや沖田さんがその名を口にしているのを聞いたこともあるし、実際彼らから「街で見かけても近付くな」と念を押されているのだ。
でもまさか変装して近付いてくるなんて。
逃げなければいけないというのはわかっているけれど、自分より頭2つ分も背の高い男性を振り払うことなんて出来るはずもなく、ただ恐怖に震えることしか出来ない。
その時。
路地の奥、開けた大きな道の方、先ほどまで私たちがいた店の前にあまり清潔とは言えない身なりの男二人が駆け寄るのが見えた。
「クソッあの女どこいきやがった?!」
「探せ! まだこの辺に居るはずだ!」
あの店は少し裏道にあるため先ほどまで歩いていた道よりも断然人通りが少ない。
周囲に人が居ないのをいいことに彼らは乱暴に叫ぶ。
「絶対探し出して捕まえろ!"真選組の弱点"を!」
ばたばたと行儀の悪い足音はそれだけ言い残して遠ざかっていった。
少し前、ゴシップ誌でも同じようなことを書かれていたことを思い出す。
……弱点、か……。
一人勝手に落ち込んでいると、私を押さえつけていた彼がゆっくりと離れていった。
「手荒な真似をしてすまなかった。貴殿の後をずっと尾けている輩が居たものだから助けようと思ったのだが……思ったよりしつこくてな。こうするしかなかった。怪我はしていないか?」
状況が呑み込めなかったがとりあえず怪我はしていないので、彼の言葉にこくりと頷いた。
……まさか、助けてくれた?
「……あの、ど、どうして私を? あなたは……攘夷浪士、なんですよね?」
ただの女中とはいえ真選組にいる自分と攘夷浪士である彼とが何事もなく同じ空間にいられるのは、あまり普通ではないことのように思える。
そういえば最近めっきり大人しくなったと土方さんがボヤいていたような気がしなくもないけれど……。
「確かに俺は攘夷浪士だが、もう過激な活動はやめたんだ。ここには大切なものが出来過ぎたから」
「そ、そうなんですか…」
「それに女を助けるのに理由が居るか? 男はいつだって女を守って然るべきだ」
そう言い、彼は腕を組んで微笑んだ。
果たして彼の言葉はすべて信用に値するかと言われれば怪しいところなのだけれど、助けてもらったのは事実なのだろう。
少なくとも今日のところは。
「ありがとうございました。桂さん」
「いや、構わん。それより咲殿、気を付けろ。貴殿を狙っているのはほんの数人ではない。俺はとっくに穏便派だが、まだ過激派の攘夷浪士は切って捨てるほどいる。あまり一人で出歩くのは避けた方がいい。何より、女性なのだから」
その言葉がなんだかくすぐったくて、顔を逸らす。
やっぱり悪い人じゃないのかもしれない。
そう思いながら顔を上げた次の瞬間、背後から抱き込めるようにして腹部に腕が回る。
それと同時に顔の横を煙草の香りが通り抜けた。
「咲さん、大丈夫?!」
すぐ後ろから聞き慣れた声が聞こえ、振り向くと心配そうに眉を潜めた山崎さんと目が合う。
「山崎さん?」
気が付けば周囲には土方さん、沖田さん、近藤さん…他にも数名の隊員がいて、桂小太郎に切っ先を向けたまま私を心配そうに見ていた。
「もう少し見つけるのが遅かったら危なかった。だがもう大丈夫だ、咲!」
近藤さんはそう言い、にい、と笑う。
「皆さん、どうしてここに……?」
今は巡回中のはずじゃ。
そう思い問いかけると土方さんが軽く振り向く。
「この辺巡回してた隊士が、お前が路地裏に連れ込まれるの見てたんだよ。それにしても油断も隙もあったもんじゃねえな。最近随分大人しくしてたみてーだが、本性表しやがったか?」
「全くでさァ。しかも非力な女中を狙うたァ趣味が悪いんじゃないですかィ?」
すらりと刀を抜いた土方さんに倣うように、沖田さんはバズーカを構えた。
その様子を、中心にいる桂小太郎は見渡して肩をすくめる。
「丁度いい。貴殿らにも忠告をしておく。咲殿はあらゆる方面から狙われている。せいぜい目を離さないよう、気を付けることだな」
そう言うと彼は懐から何かを取り出し、それを地面に力いっぱい叩きつけた。同時に周囲に粉塵が舞う。
ぎゅう、と山崎さんに庇うようにきつく抱きしめられて、思わずそれに呼応するように彼の着物の袖を握りしめた。
煙が晴れた次の瞬間そこに居たはずの桂の姿は忽然と消えている。
「あまり心配かけさせてやるなよ」
耳のすぐ近くで、そう聞こえたような気がした。
◆ ◇ ◆ ◇
その日の晩、夕飯の片付けをしながら思わず溜息を零した。
"真選組の弱点"……その言葉が心臓に突き刺さって、きりきりと痛い。
「……はあ」
私は弱い。
仮に人質に取られてしまったら、ただただ助けを待つことしかできないだろう。
護身用に武器を携帯したとしてもまともに扱うことも出来ないだろうし。
「強く、なりたい」
せめて、自分の身くらいは守れるように。
"弱点"などと呼ばれないように。
でも……一体どうしたらいいんだろう。
「あ……そういえば」
ついこの間、幽霊騒動のときに会った、志村くん。
ちょっと世間話をしたときに、道場を経営していると言っていたような。
道場って……何するんだろう。
護身術とか教えてくれるのかな。
少しでも強くなれる可能性があるなら、行ってみるのも良いかもしれない。
「水、出しっぱなしだぞ」
うっかり考え込んでしまい、背後に人が来ていることに気が付かなかった。
声の主……土方さんは蛇口を閉めながら、こちらを覗き込む。
「どうした。疲れたか?」
「あ……えっと、そうじゃないんですけど……」
一瞬、彼に事の次第を相談しようかと悩んだが、やめた。
ただでさえ忙しい彼らにこれ以上頼る訳にはいかない。
「けど、なんだ」
「……いえ、なんでもない、です」
「とてもそうは見えねえがな」
煙草を吸いながら呆れたようにそういう彼から目を逸らす。
「お前は弱点なんかじゃねえ」
「えっ」
思わず反応してしまった。
ばっちりと、彼と目が合う。
「やっぱ気にしてやがったか」
黙り込んだ私に土方さんは小さく息を吐いた。
「うちにはお前をそんな風に思ってるやつは一人も居ねえよ」
「……でも、世間はそうじゃないです」
ゴシップ誌のただの記事だと切り捨てるには、世間に浸透しすぎている気がする。
「私が、弱いから」
思わずそう零すと、頭を小突かれた。
「あのなあ、お前を"弱点"だなんだ言ってる奴らの殆どは俺たちより弱い雑魚だぞ。それに、これだけの傷背負って生きてるお前の方が世間様よりよっぽど強いだろうよ」
そう言い、背をぽんぽんと叩かれる。
彼の気持ちは嬉しいけれど、やっぱり気分は晴れない。
「お前は十分良くやってる。だから、余計なことは気にすんな。……明日の飯も頼んだぞ」
そう言い残して土方さんは台所を後にした。