「お父さん! お母さん!」
…これは、夢だ。
幸せだった頃の、もう二度と手が届かない、夢。
頼もしい父、優しい母と過ごした、生まれてからの十数年間。
これからも私は両親に囲まれながら成長していくのだと信じて疑っていなかった。
だけど、どこにでもあるはずの幸せな日常は、とある雨の日に砕け散ることになる。
家族で夕飯を囲んでいた時、誰かが家の玄関を叩いた。
母が来客の予定はないと首を傾げる。
父が少し警戒しながらも少しだけ戸を開いた…次の瞬間、父は小さく呻き、その場に倒れ込んだ。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
次いで聞こえた母の悲鳴と、血塗れの父を足蹴にして土足で家に踏み込んできた男の手には刀が握られている。
その刀身を、父のものであろう血が滑り落ちていった。
なんの力もない私は母の腕の中でガタガタと震えることしかできない。
そうしているうちに、母も切り捨てられた。
次は私の番……にたにたと笑う男に壁際に追い詰められたその瞬間、私は意識を手放した。
◆ ◇ ◆ ◇
はっと、意識が戻ってくる。
どうやらぼーっとしてしまっていたようだ。
「おい姉ちゃん」
目の前に居る、私にぶつかってきた張本人の男は私が落としたエコバックをわざとらしく踏み、一歩迫ってくる。
私が買った卵は全部割れてしまうという呪いでも背負っているんだろうか。
「ちょっと付き合えや」
つい数日前、黒い制服の彼のときは辛うじて三つは無事だったけれど…今回は卵どころか、エコバッグもきっとご臨終だ。
可愛い柄でお気に入りだったのに。
「聞いてんのか?」
ぐいと腕を引かれ、着物の裾から自分の青白い腕がぬるりと姿を現す。
まるで白蛇のように人間味のない肌に、生きていることを主張するように大きな紫色の痣が浮き上がっていた。
それを見た瞬間、腕を掴んでいた男の口元が緩む。
……ああ、その目は知っている。
「いいから来いって。優しくしてやるからよ」
にたにたと下品な笑い。
こいつになら何をしても許されるって、そう雄弁に語る口元。
もう、その目には飽きた。
……そうだな。
このままこの男についていって、無事で済むなら万々歳。
口封じに殺されるなら……今の生活から開放されるなら、大喝采、ってところ。
私にはきっとこんな終わりがお似合いなんだろう。
そう思いながら抵抗を諦め男に手を引かれるまま従おうとした。
だけど、空いていた片方の腕を別の誰かが掴んで、目の前に少し長めの黒い髪と黒い背中が広がる。
「やめろ」
腰に提げた刀の柄が心地よいお天道様を浴びてぎらりと光った。
「おい、真選組か?!」
「やべえ…行くぞ!」
背中の奥にあるため見えないが、下品な声がそう言いながらばたばたと遠ざかっていく音が聞こえる。
相変わらず私の手首を握ったままの彼の手はぽかぽかと温かかった。
彼から体温を貰っているようで何だか申し訳ない。
刀の鞘に手を添えていた彼は、ふう、と小さく息を吐いて、こちらに振り向いた。
つい数日前、卵を拾って手渡してくれた彼と目が合う。
「大丈夫ですか?」
そう言い、彼は握ったままだった手を離した。
もう少しだけ彼の体温に触れていたかった…なんて、そんな考えを振り払うようにして笑みを浮かべる。
「ええ。ありがとうございます」
そう言いながら頭を下げると彼は間に合ってよかった、と微笑んだ。
それから彼は草履の跡が大きくついてしまったエコバッグを拾い上げて砂埃を優しく払い、気になったのかそのままちらりと中身を覗き込んだ。
歪んでしまった彼の表情を見るに、どうやら今度は全滅だったようだ。
「運が無いのでしょうね。卵も、」
私も、と言いかけて口を噤む。
すると急に言葉を飲み込んだこちらに彼は不思議そうに首を傾げた。
「あの」
数秒の沈黙の後、彼が恐る恐るそう喉を震わせる。
まだエコバッグは彼の手元にあった。
「俺、山崎退っていいます。…その、名前を聞いても?」
「えっ?」
その言葉に思わず固まる。
自分のような一般人の名前を聞いて一体どうするつもりなのだろうか。
それとも先程の腕についた痣を見られて、何か疑われたか。
とはいえ、ここで拒絶するのも不自然だ。
特に後ろめたいこともないし。
私には、だけど。
「咲…咲、と申します」
「咲さん、」
彼は噛み締める様に名を呟き、目を細めて口元を緩ませた。
「すみません、急に。あの、もし何かあったら全然相談してくれていいですからね。そのために俺たち居るんで」
「はい。ありがとうございます」
その言葉に、思わず期待してしまいそうになる。
だけど、今の江戸は決して治安が良いとは言えない。
天人の介入や攘夷浪士などによるテロ行為…彼らの仕事はそういった事件を対処することであって、一般の個人を救うことではないはずだ。
だから…だから、期待してはいけない。
彼なら救ってくれるかもしれないなんて思ってはいけない。
希望を抱いたが最後、必死に感情を押し殺して過ごしてきたこの十数年が、どれだけ苦しかったのかを思い出してどうにかなってしまいそうだから。
「じゃあ、私はこれで」
そう言って、彼と一緒に希望ごと置き去りにして…私はその場を後にした。