「う、うう…赤い着物の女が…!くるっ…こっちに来るよう…!」
目の前で呻く近藤さんの顔には汗が滲んでいて、苦しそうなその表情に思わず顔を顰める。
とりあえず氷水に浸したタオルで拭き取るがやはり彼の顔は苦痛に歪んでいて、効果がないということを雄弁に物語っていた。
タオルを洗いながら小さく溜息を零す。
「近藤さんまで……。もう、どうしたらいいか」
氷水に浸して冷え切ってしまった手をぎゅうと握った。
「近藤さーん。しっかりして下せェ。いい年こいてみっともないですぜ、寝言なんざ」
沖田さんがそう声をかけるが近藤さんは呻くばかりで反応なし。
お手上げ状態だ。
「咲、タオル貸してくれィ」
「? どうぞ」
言われるままタオルを絞って沖田さんに渡す。それを受け取った彼は近藤さんの布団を引っぺがし、ズボンのベルトに手をかけた。
「ちょ、何してるんですか?!」
「何って金玉冷やせば多少マシになるかも」
「相手は病人ですよ?!」
「咲…女にはわからねえだろうが、男にとって金玉は弱点だ。つまりここを冷やせば多分恐らくわかんないけど何とかなる!」
「望みが薄い!やめてください!」
冗談だったのか、あまり抵抗もされず難なくタオルを奪い返して桶に戻し、近藤さんに布団を掛けなおす。
もしかして今、私のこと元気づけようとしてくれた?
一瞬そう思ったけど流石に自意識過剰すぎだと思い、首を振って考えを振り払った。
「これァあれだ、昔泣かした女の幻覚でも見てんだ」
「近藤さんは女に泣かされても泣かしたことはねェ」
坂田さんがぼそりと呟くが、土方さんが首を振る。
こんな一途な人が女性を泣かせるわけはないと思いながら近藤さんに視線を戻すと、とんでもない光景が眼前に映り込んだ。
「?!」
沖田さんが近藤さんの首を締め上げている。
冗談じゃなく、割と本気の力加減で。
「沖田さん?! ちょ、やめて! 何してるんですか?!」
近藤さんの首からぎりぎりとヤバそうな音がする。
沖田さんの腕を掴んで放そうと試みるが、年下とはいえ男の子、まして真選組一番隊隊長にまで上り詰める実力の持ち主だ。
力では敵わない。
「じゃああれだ、オメェが泣かした女が嫌がらせしに来てんだ」
「そんな質の悪い女を相手にした覚えはねェよ」
「ふうん。じゃあ何?」
「そんなん知るか!」
目の前で謀反が起こっているというのに土方さんは坂田さんとのお喋りに夢中だ。
為す術なくあたふたしていると、やがて近藤さんの腕は力なくぱたりと布団の上に落ちた。
「近藤さーん!!!」
「安心しな咲、気絶しただけですぜィ」
「病人に何てことするんですか?!」
「いや煩かったから」
「愛がない!」
真顔で言う彼の目は憎らしいほどきゅるんと潤んでいる。
弱った上司を全力で締め上げといて可愛い顔してるぞこの人……?!
「この屋敷に得体の知れないもんがいるのは確かだ。咲、お前、何か見てねェか?」
突然話がこっちに飛躍してきて少しだけ肩が震えた。
土方さんの方に視線を戻すと、彼の真っ直ぐな瞳がこちらを射抜くように見つめている。
「赤い着物の女性、ですよね。私、夜中の二時に一人で屯所を巡回してみたんですけど、やっぱり何も居ませんでしたよ」
「……お前、本当に逞しいな」
土方さんが目を真ん丸くしてそう呟いた。
「やっぱり幽霊ですかね?」
志村くんがそう言いながら坂田さんに視線を持っていくが、坂田さんは興味なさそうに目を細める。
「あァ? 俺ァなあ、幽霊なんて非科学的なものは信じねぇ。ムー大陸はあると信じてるがな」
そう言うと彼は大きめの溜息を零し、立ち上がった。
両手に志村くんと神楽ちゃんの手をぎゅうと握りしめて。
「アホらし。付き合いきれねェや。テメェら帰るぞ」
「……銀さん、なんですかこれ」
志村くんが握られた右手を持ち上げ、感情が死んだような声でそういう。
「なんだコラ、テメェらが怖いと思って、気ィ遣ってやってんだろーが」
「銀ちゃんの手汗ばんでて気持ち悪いアル」
「あァ? 何言って……オイ……」
今にも帰ってしまいそうな三人を引き留めるため、思わず駆け寄る。
坂田さんの服を摘まんで、ぎょっとしたような表情の彼を見上げた。
「あの、坂田さん……万事屋さん、なんですよね」
「え、ああ……そ、そうだけど?」
たどたどしい態度は少し不思議だったけれど、形振り構ってはいられない。
近藤さんまで倒れてしまった今、猫の手も借りたいくらいなのだ。
「先ほども言った通り、これが一体何の仕業だったにせよ原因を排除しない限りは、きっとこの後も被害者は出続けてしまいます」
いつまでもこんな状態では真選組が壊滅してしまう。
それだけは防がなかれば。
「お願いします。きっと、人の目は多いほど良いと思うんです。だから、帰らないでください……! 原因を特定するため、倒れてしまった皆さんを助けるために……お力を貸していただけませんか?」
「おい咲、何言ってんだ?! こんな奴らに力を借りるなんざ俺は認めねえぞ」
「でも、土方さん! このままじゃあどうしようもないです! 今こうしている間にも皆さん苦しんでるんですよ? 私達だけで出来る限りの知恵は絞りましたがそれも効果は見られない……なら、第三者の方にお力を借りるしか……っ!」
その時、唐突に沖田さんが縁側に続く襖を指し、そして。
「あ、赤い着物の女」
殆ど同時に、ばり、と紙が破ける音がする。
目の前に居たはずの坂田さんがいなくなって思わず何度か瞬きをして……周囲を見回した。
「あれ、坂田さん……?」
あ、いた。
押し入れを突き破って、その中に頭から突っ込んでいる、坂田さんが。
志村くんと神楽ちゃんがその様子を白い目で見つめている。
「何やってんすか銀さん」
「いや、あの、ムー大陸の入り口が」
押し入れから這って出てきた坂田さんに、沖田さんは真顔で問いかけた。
「旦那ァ、アンタ幽霊が」
そこまで言って静かになる彼。
坂田さんは不服そうに、なんだよ、と呟く。
それに大した返事もせずに沖田さんは隣に居るはずの土方さんに目線を映した。
「……あれ?土方さん?」
さっきまでそこにいたんだけど……。
そう思いながら周囲を見渡すと、押し入れの隣にある、子供二人くらいなら隠れられそうな大きな壺に上半身を突っ込んだ状態の、鬼の副長を発見。
「土方さん、何をやってるんですかィ?」
「いやあの……マヨネーズ王国の入り口が」
ええと。
もしかしてあの人達……。
大の大人のその様子になんと声を掛けたらいいか迷っていると、沖田さんに腕を引かれた。
その後ろを志村くんと神楽ちゃんもついてくる。
「咲いきやしょう。あいつら相手にしてるだけバカらしいですぜ」
坂田さんと土方さんに背を向け部屋を出ていこうと歩みを進める彼らのその目は凍ってしまいそうな程冷たかった。
「待て待て待て! 違う! こいつはそうかもしれんが、俺は違うぞ!」
「ビビってんのはオメェだろ! 俺はお前、ただ、体内回帰願望があるだけだ」
そう言う二人に前を歩いていた沖田さんは歩みを止め振り返る。
相変わらず三人の視線は絶対零度だ。
「わかったわかった。ムー大陸でもマヨネーズ王国でも何処でも行けよクソが」
神楽ちゃんの言葉に坂田さんと土方さんとは声を揃えて、なんだその蔑んだ目は、と叫ぶ。
仲良しだなあ、なんて思ったその時だった。
「ひ…っ?!」
二人の背後、押し入れ。
人が通るには少し厳しそうなくらい戸が開いている。
確かに坂田さんが突っ込んだことで穴は開いたけれど、戸は開いていなかったはずだ。
そして何より注目すべきは、押入れの闇の中でどろりと浮き上がっている、赤色。
それを視認した瞬間、手首を握ったままの沖田さんの手に力が籠った。
「はん、驚かそうったって無駄だぞ。同じ手は食うかよ」
……背後なので当たり前だけれど、二人はまだ気付いていない。
今目に映っている"あれ"が生き物だったにせよそうではなかったにせよ、表情から確実に敵意があるのは見て取れた。
坂田さんが、オイしつけーぞ、と言うと同時、言い終わるより早く私の手首を握った沖田さんは廊下に駆け出して行った。
もちろん、手首は握られたままなので必然的に私の身体も彼についていく。
後ろを見事な悲鳴を上げながら志村くんもついてきた。
神楽ちゃんもいる。
「み、見ちゃった! 本当にいた! 本当にいた!」
「銀ちゃあぁあん!!」
隣を走る志村くんと神楽ちゃんが叫ぶ。
「奴らのことは忘れろ。もうダメだ」
「あれ……本当に、幽霊……っなんですかね……!」
「さあ。でもまあ、逃げたほうがいいのは確実だろ」
心臓がどくどくと痛い。
全力疾走するなんて久しぶりで、足袋は滑るし、いつ裾を踏んでしまわないかとハラハラする。
「沖田さんっ、も、もっとゆっくり…!」
息を切らせながら殆ど叫ぶようにそう言うと沖田さんは少しだけ振り向いて、
「咲、今のもう一回言って。めっちゃエロかった」
「言ってる場合か!」
余裕のない私に代わって志村くんが突っ込んでくれた。
沖田さんはしょうがねぇな、と呟くと足を止める。
ちょっと休憩してくれるのかと思い、安堵したのも束の間。
「よっと」
「?!」
ひょいと抱え上げられた。
いつも抱えているバズーカと同じように肩に私を担ぎ上げ、沖田さんは再び走り出す。
衝撃が彼の肩から直接腹部に伝わってきてちょっと苦しい。
っていうか人間ってこんなに簡単に持ち上がるもんなの?
「く、う……っ、沖田さん、苦しい……です……っ」
彼の背を握りながら吐き出すようにそう言う。
贅沢は言ってられない状況なのだけれど、苦しいもんは仕方ない。
「…咲、録音するから今のあとでもう一回言って」
「だからいってる場合か!」
志村くん本当にありがとう。
そう思った時だった。
背後から爆音が聞こえ、走りながら三人は振り向く。
常に背後を見られる状況にある私の視界には、庭に障子が飛んでいくのが見えた。
続いて、坂田さんと土方さんと……、その後ろに揺らめく赤い着物。
「き、切り抜けてきた! ……あ、いや待て! 背負ってる! 女背負ってるよオイ! こっち来るなー!」
志村くんが叫び、ラストスパートとばかりに走るスピードが上がる。
曲がり角に差し掛かり、坂田さんと土方さんの姿が見えなくなる直前、充血した真っ赤な瞳と目があった気がした。