屯所で過ごすようになってから数か月が過ぎた、蝉の音が騒がしい夏の夜。
すっかり陽は落ちきって、人気のない暗い廊下を歩いているとついつい物寂しい気持ちになってしまう。
提灯を手に廊下を進んでいくと、ある一室から、がやがやと話し声が聞こえてきた。
なにやら話が盛り上がっているようだったので出来るだけ邪魔しないよう静かに戸を開く。
「あれは、今日みたいに蚊の多い暑い夜だった。俺、友達と一緒に花火やってたら、いつの間に辺りが真っ暗になっちゃって。いっけね、母ちゃんにぶっ飛ばされる、ってんで帰ることになったわけ」
どうやら怪談話をしているようだった。
もう外はすっかり夜の帳が下りているというのに、懐中電灯の明かりだけが室内をぼんやりと照らす。
ごくり、と誰かが生唾を呑み込む音が聞こえた。
「それでね、散らかった花火片付けて、ふっと寺小屋の方見たの。そしたらさあ、もう真夜中だよ? そんな時間にさあ、寺子屋の窓から赤い着物の女がこっち見てんの」
布団が敷けたので知らせに来たのだが、どうやら盛り上がっているようで終わるまで話を聞いていることにする。
話の主、隊員の一人である稲山さんのその話には妙な臨場感があって、話が進んでいくにつれて背筋がぞくりと震えた。
「俺もうぎょっとしちゃって。でも気になったんで恐る恐る聞いてみたの。"何やってんの、こんな時間に"って」
他の隊員達も彼の話に夢中になっているらしく、部屋に入ってきた私にも気づいていないようだった。
「そしたら、その女、にやっと笑って……」
オチが来る。
そう思った瞬間、真横を煙草の匂いがバタバタと通り抜けた。
「マヨネーズが足りないんだけどォ!!!」
瞬間、屯所内に野太いやら甲高いやら悲鳴が響き渡る。
と同時に室内には明かりが灯り、オチをかっさらっていった土方さんにブーイングが飛んだ。
「副長! 何てことするんですか、大切なオチを!」
「知るか。マヨネーズが切れたんだよ。買っとけって言っただろ。焼きそばが台無しだろうが」
彼が右手に持っている焼きそばにはもう十分マヨネーズが掛かっているのだけれど、確かに普段彼がかけている量を考えると随分少なく見える。
そういえば、と私は思わず立ち上がった。
「土方さん、ごめんなさい! 私今日買い出し行ったのに、マヨネーズ減ってるの気が付かなくって……!」
慌ててそう謝ると、一人の隊員が立ち上がった。
「咲さんは悪くねえよ! もう十分かかってるじゃねえか! なんだよソレ! 最早焼きそばじゃねえよ! "黄色いやつ"だよ!」
「あれっ局長?!」
部屋の奥、別の隊員が声を上げる。
何かと思い振り向くと、部屋の奥で近藤さんが泡を吹きながら倒れていた。
「こ、近藤さん?! 大丈夫ですか…?!」
顔を覗き込んで肩を揺すってみるが反応は無い。
「なんてこった! 局長がマヨネーズで気絶したぞ! 最悪だー!」
ざわめく室内、相変わらず飛ぶブーイング。
阿鼻叫喚のその一室から土方さんは呆れたように溜息を零して出ていった。
申し訳ないことをしてしまった。
とはいえもうそろそろ時刻は零時を回る。
もうお店は開いていないのでマヨネーズは明日まで我慢してもらうしかない。
「咲さん、局長は俺らで何とかするから大丈夫。下がってて」
一人の隊員がそう言ってくれたので大人しく数歩下がる。
すると、真後ろに居たのであろう、山崎さんにぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
「ううん、大丈夫だよ」
彼はにい、と口角を上げる。
「そういえば咲さん、いつから居たの? 気付かなかったよ」
「赤い着物の女性が出てきた辺りからです。なんか盛り上がってたからお声かけにくくて」
お布団用意できましたよ、というと彼は礼を言いながら、また口角を持ち上げた。
その時、ざわめきの中から一人隊員が飛び出してくる。
「咲さん、俺の話聞いてたの? どう? 怖かった?」
怪談噺の主である、稲山さんだ。
彼はわくわくした表情でこちらを見つめている。
「ええ、恐かったですよ。ぞくぞくしちゃいました」
「えー…本当に?あんまり怖くなさそうな反応だよそれ」
「そんなことないですよ。ただ」
ふいと視線をずらした。
「お話の中に出てきた赤い着物の女性……生身の人間だったほうが怖いな、って」
「え?」
「だって真夜中に、学校で、しかも大人の女性が一人でいたんですよね? 幽霊ならまだ説明つきますが、生きてる人間だったとしたら一体その人、何をしていたんでしょうね……?」
空気がひんやりとしたのを自覚したその時、再度野太い悲鳴が屯所内に響き渡った。
◆ ◇ ◆ ◇
「酷ぇな全く。おい、これで何人目だ?」
「えーっと……十八人目でさァ」
夜が明けて、明るくなった本日。
私は苦しそうに顔を顰めて魘されている隊員たちの看病にてんてこ舞いだった。
あの日以降、そう、稲山さんが怪談話をして、一人目の犠牲者が出てから、もう十八人もの隊員が倒れてしまっている。
倒れてしまった隊員たちは口をそろえて、赤い着物の女が、と譫言のように呟くのだ。
「咲、どうだ?」
「この方も原因になりそうな外傷はありませんね。熱があるわけでもなさそうですし。どうしちゃったんでしょう皆さん」
首を振ると土方さんは顔を顰める。
「隊士の半分はやられちまったわけですね。流石にここまでくると薄気味悪ィや」
沖田さんが昏睡している隊員の顔を覗き込みながら言った。
もう十八人……それもこんな短い期間に。
「冗談じゃねえぞ。天下の真選組が幽霊にやられてみんな寝込んじまっただなんて恥ずかしくてどこにも口外できんよ、情けねェ」
そう言うと彼は刀の柄をそっと撫でる。
「咲、お前は大丈夫か。今更聞くが、幽霊を怖がっちゃいねえよな」
「死の危険性がある分怖くないわけではないですけれど……生身の人間よりかはマシですかね」
「逞しいなお前。こいつらにも見習ってほしいぜ全く」
はあ、と土方さんは深く溜息を零した。
すると真横から自慢げな声が飛んでくる。
「トシ! 俺は違うぞ! マヨネーズにやられた!」
「余計言えるか」
なぜかファイティングポーズを取った近藤さん。
土方さんがぴしゃりと言い放つも彼は気にしていないようだ。
「怪我してるわけでも熱が出てるわけでもねぇんだ。これ以上できることはねェ。とりあえず一旦状況を整理すんぞ。咲、お前は引き続き看病を頼む。なんかあったら呼べ」
「わかりました」
頷くと土方さんに続き、沖田さん、近藤さんが部屋を出ていった。
苦しそうにうめく隊員たちと自分とが部屋に残される。
彼らの首筋や胸元にはじんわりと汗が浮き上がっていて自分の無力さを痛感した。
とりあえず濡らしたタオルで汗を拭きとっていく。
「……あれ?」
現在倒れている全員の汗を拭き取り終わったその時、"全員同じような場所に虫刺されの痕がある"ことに気が付く。
こんな偶然あるだろうか?
「気のせい、だよね…?」
もやもやした何かを抱えながら、私は使い終わったタオルを洗濯するため隊士たちが眠る部屋を後にした。