「うん。異常なし。傷口も塞がってるし抜糸もとっくに終わってるし、もう退院して大丈夫だよ」
そういって、先生はにこりと微笑んだ。
着替えぐらいしか入っていない荷物を手に提げて、お世話になった先生と看護師さんに頭を下げる。
「それじゃあ、行きましょうか」
目の前に居る背の高くて逞しい彼はそういって前を歩き出した。
先ほど挨拶をしてくれたこの人は、近藤勲さん……真選組の局長なのだそうだ。
昨日山崎さんが言った通り迎えを引き受けてくれたらしい。
「お手数おかけしてすみません」
私服の彼に申し訳なくて思わずそう声をかける。
すると彼は首を振って、にい、と口角を持ち上げた。
爽やかな笑顔だ。
「とんでもない! お世話になるお手伝いさんのお迎えなんですから、局長である私が直々に行かないと示しがつきませんよ」
良い人だな。
局長という大役を引き受けられるのも頷ける。
そんな彼と他愛ない話をしながら(殆ど彼が恋をしているという"お妙さん"についての話だったけれど)数十分歩いた頃、自分の身長の何杯も大きな入り口が姿を現した。
鳥居を彷彿とさせるそれは目の前を歩く彼のようにどっしりとしていて、頼もしかった。
「ここが屯所です。ささ、入って入って!」
「お、お邪魔します」
そういい、敷居を跨ごうとした私を、近藤さんは手を目の前に出して制す。
何か作法を間違えただろうかと首を傾げると……。
「咲さん……いや、咲。ここはもう君の家だ。"お邪魔します"じゃない」
「……え、えっと、"ただいま"?」
恐る恐るそういうと彼は満足そうに笑った。
「おう。"おかえり"!」
心地よい、笑顔。
こんな風に誰かと他愛のない挨拶を交わしたのはいつぶりだっただろうか。
「お、おお?! ど、どうした、咲! もしかして嫌だったか?! 急に馴れ馴れしくしてすまなんだ!」
「……へ? えと、どうした、と言いますと……?」
突然焦り出した彼の様子が不思議で、思わず首を傾げる。
すると彼もまた不思議そうに眉を下げた。
「だって……泣いてるじゃないか」
言われて、頬に触れる。
そうしてやっと自分が涙を流していることに気がついた。
「えっ……あ、あれ、どうしちゃったんだろう、私……すみ、ませ……っ」
不安そうに私の顔を見る近藤さんに申し訳なくて、必死に止めようと目元を拭うが、止めようと思えば思うほど目尻からは感情がとめど無くこぼれ落ちていく。
「咲……」
「ご、ごめんなさい。嫌だったとかじゃないんです……ただ、こうして……誰かに"おかえり"って言ってもらえるのが……久しぶり、だったので……っ」
優しく迎え入れてくれた彼が、心優しい父を思い出させて……。
涙が、止まらない。
「咲」
名を呼ばれて顔を上げると、彼の手が優しく頭の上に乗った。
そのまま恐る恐る髪を撫でられる。
「今まで、よく頑張ったな」
ぽかぽかとした日差しが、彼の笑顔を照らした。
「これからは俺たちが君のことを全力で守ろう。もう怯えて過ごす必要はないんだ。だから君は、この屯所を守ってくれ」
「……はいっ……!」
◆ ◇ ◆ ◇
真選組の屯所で生活するようになってから数日が経過した。
朝起きて朝食の準備をして、掃除に洗濯、買い出し、昼食および夕食の準備、湯浴みの用意をしてお布団を敷いて……皆さんが寝静まった頃に就寝。
ここにお世話になっている初日からずっとそんな感じで忙しく過ごしている。
近藤さんはそこまでしなくていいと言ってくれたけれど、私がやりたくてやってることだからと無理をきいてもらっている。
ただでさえ今まで汚いお金におんぶにだっこだったのだから、仕事を与えてもらう以上は怠けてもいられない。
それに、一生働いたところで返せない恩があるというのに、その上衣食住まで与えてもらって何もせずに休むなんて自分で自分が許せない。
そんなこんなで、私は今日も晩御飯のメニューをどうしようかと悩んでいるのだけれど……。
「うーん、昨日は焼き魚にしたから今日はお肉にしようかなぁ。今あるもので出来るのは……っと」
卵に、鶏肉に……あ、トンカツ用の豚肉もある。
それならメインは丼ものにしてお味噌汁の具は大根にしようかな。
副菜はお漬物と、きんぴらごぼうとか?
「カツ丼」
耳元でそう言われ、肩がびくりと飛び上がる。
振り向くと可愛らしくまん丸い目と視線がかち合った。
「カツ丼が食いたい」
彼は念を押すようにもう一度そう言う。
首にかけられたアイマスクが揺れた。
「あ、えっと」
「なんですかィその顔。嫌なんですかィ?」
ぷくう、と彼は頬を膨らませる。
「いえ、沖田さん急に出てくるから、びっくりしちゃって」
「ああ、こりゃ失礼しやした」
そう言って彼もとい沖田さんは膨らませていた頬を元に戻した。
「カツ丼ですね。じゃあ今のうちにお漬物を仕込んでおかないと。きゅうりの浅漬けでいいですか?」
「ん」
こくりと頷いた彼を見て、私は早速漬物の仕込みに入る。
一方の沖田さんはというと相変わらず私の隣にいたまま動かない。
隊服を着てるってことはお仕事中のはずなんだけど……休憩時間とかかな。
なんて、そんなことを思っていると。
「っ?!」
首の後ろを突然なにかが這って、思わず肩が跳ねる。
何かと思って振り向くとどうやら沖田さんの手が触れたようだった。
彼はそのまま私の首筋から背中まで、つい、と手を滑らせる。
「あの……な、なにか?」
そう問うと沖田さんは少し目を細めた。
「……痛かったですかィ?」
「へ?」
問いの意図がわからず聞き返すと、再び沖田さんは私の背を撫でる。
「背中、切られたでしょう。痛かったですかィ?」
ああ。
私の背中の傷のことを言っているのか。
あの男につけられた、二度と消えない傷のことを。
「……燃えるように熱かったことだけは覚えてます。それ以外は、あんまり」
「そうですかィ」
そうとだけ言って彼の手は離れていく。
「今は、そんなことよりもっと覚えたいことが増えたので」
「覚えたいこと?」
「皆さんの食の好みとか、好きな洗剤の匂いとか……他にも、たくさん。だから、もう痛みなんて忘れました。脳の容量がもったいないですもの」
せっかくお天道様の下に助け出してもらったんだ。
これから私は、真選組の皆さんのためだけに考え、生きることにしようとそう決めている。
「……お人好し」
ぼそりと沖田さんが呟く。
「ふふ。真選組の皆さんにだけですよ、私がお人好しなのは」
そういうと彼は、少しだけ口角を上げた。
その時。
「テメェ何やってんだ」
そんな声が聞こえてきた次の瞬間、すぐ隣にあった気配は離れていく。
声のした方へ視線を向けると台所の入り口で土方さんが腕を組んで立っていた。
「沖田テメェ巡回サボって飯のリクエストたあいいご身分だな」
「ありゃ、土方さん。一足遅かったですね。今日の晩飯はカツ丼で決まりでさァ」
「飯はなんだっていいっつの。それよりテメェ、さっさと仕事戻……」
土方さんが言い終わる前に、沖田さんは土方さんの脇を爆速で走り抜けていった。
「テメッ、待ちやがれコラァ!」
慌てて追いかけていく土方さん。
ばたばたと二人分の足音が騒がしく遠ざかっていって……かと思ったら、足音は一つだけ戻ってきた。
「おい、咲」
台所に戻ってきた土方さんがずびし、と冷蔵庫を指差す。
「マヨネーズ、ちゃんと用意しとけよ」
「ふふ、わかってます。マヨネーズに合うようにちょっと濃いめの味付けにしときますね」
「わかってんならいい」
煙草に火を付けながら彼はそう言い、言い切った後ふう、と煙を吐いた。
ぼんやりと白く視界が一瞬霞む。
「なんで笑ってんだ?」
「え? ……私、笑ってますか?」
「笑ってる」
不思議そうに首を傾げる土方さんから視線をずらして、自分の頬を触る。
確かに、口角が少し持ち上がっているような。
「なんででしょう? 賑やかだから、ですかね」
「……そうか」
そういうと土方さんはくるりと踵を返す。
……あれ?
「土方さん、今日は非番でしたっけ?」
普段の隊服姿とは違い、私服に身を包んだ彼の様子が気になってそう尋ねた。
すると彼は一瞬目を逸らし……またすぐこちらに視線を寄越す。
彼の腰に提げた刀が小さく音を立てた。
「山崎の様子を見に行ってたんだ」
それを聞いた瞬間、彼が言葉に詰まった理由を察した。
現在潜入任務に当たっている彼……結局、病院で目覚めたあの日以来、一度も会えていない。
「そう、なんですか。……あの、もし良かったら次山崎さんに会いにいくときは」
土方さんはこちらをじっと見つめたまま次の言葉を待っている。
心なしかどこか気まずそうだ。
「お体にお気をつけて、と伝えて頂けますか?」
そういうと、土方さんは小さく息を吐く。
「……付いてくるとでも言うのかと思ったぜ」
「そうしたいのは山々ですけれど、私が行っても迷惑でしょうから」
ちゃんとご飯を食べているか、とか、ちゃんと睡眠をとっているか、とか、心配なことは沢山ある。
できることなら付いて行って彼の手伝いをしたいけれど、足手まといになるだけだろう。
信じて待つことしかできない自分が情けないけれど、私の仕事は屯所を守ること。
彼が気持ちよく帰ってこられる場所を、守らなければいけない。
「伝えとく」
「ええ、お願いします」
そうとだけ言って台所を出ていく彼の背に小さく頭を下げ、今度こそ食事の仕込みに取り掛かった。