彼女が病院に運ばれてから、半月が経過した。
無機質な機械音が一定のリズムを刻んで、真っ白い部屋に木霊する。
シミ一つないベッドに横たわる彼女の肌はシーツに負けないほど白く透き通っていて、まるで絵画でも見ているようだった。
室内に響く機械音と彼女の胸が単調に上下するのを見るのがここ暫くの心の支えになっている。
「咲さん」
愛しいその名を呼び、しっとりと肌に吸い付いている彼女の柔らかい髪を撫でた。
医者曰く、傷は深く血を流しすぎたせいで貧血気味ではあったが命に別状はなかったそうだ。
しかし、彼女は目を覚まさない。
まるでこの世に戻ってくるのを拒むように。
あんな生活をずっとしていたんだから、当たり前だとは思うけど……でも、戻ってきてほしい。
これからは俺が、あなたを苦しめるもの全てから守るから。
だから……。
「よく飽きねェな」
俺の様子を見ていた副長がそう悪態を吐く。
そう言いつつも、彼女が呼吸するのを見ては微かに安堵の息を吐いているのだから憎めない。
「そう言ってやるな、トシ。お前もそこそこの頻度でここに来てるだろう」
「俺は暇だから着いてきてるだけだ」
「素直じゃない奴だな」
局長が豪快に笑った。
「さて、俺はそろそろ帰るとするよ。お妙さんが買い物に出る時間だから、鉢合わせる準備をしなければ!」
女性をストーカーしているという事実さえなければ、彼は我らが誇る真選組の長なのだけれど。
広めの病室を後にした局長の背を追い、副長も病室を出て行こうとする。
本当はもっとここに居て、彼女のことを見守っていたいけれど、明日から潜入任務が入っているのだ。
あまり長居は出来ない。
「また、来ますね」
彼女にはきっと届きはしないだろうが、それでも。
そっと彼女の耳元でそう呟き、彼女に背を向けた……その時。
「……まっ、て……やま、ざき……さ……っ」
か細い、聞き逃してしまいそうになるほど、聞こえたことが奇跡だと思えるほどの小さな声が耳たぶを撫でた。
室内に一定間隔でリズムを刻んていた機械音は止まり、代わりに悲鳴のような単音が鳴り響く。
無情にもこの世に繋ぎ止めていた命が途切れてしまったことを告げる音。
俺は足をもつれさせながら踵を返し、彼女の姿を隠しているカーテンを裂ける音がするのすら厭わず乱暴に開け放った。
「咲、さん……っ」
目尻から塩分を含んだそれが溢れ出るのがわかる。
体を起こし、ぱちくりと瞬きをする彼女を、上下している細い肩を、掻くように抱きしめた。
心電計の針が刺さっていた場所からぷっくりと紅い血が浮き上がっている。
「良かった、良かった……!」
「……あれ? 私、」
次の瞬間、病室に医師や看護師が駆け込んできた。
相変わらず俺に抱きしめられて不思議そうにしている彼女の顔を見て、彼らはほっと息を吐く。
そうしてゆっくりと近づいてきて彼女から外れた器具の確認や腕についた傷の手当をてきぱきと始めた。
もう屯所に戻るつもりだったがそれどころではなくなった俺は、相変わらずぽかんとした顔のまま手当を受けている咲さんの顔を煩い心臓を抑えながら見つめている。
「俺ァ帰るぞ。テメェも明日から長期任務だろ。早く帰って来いよ」
そう言い残し、副長は病室を出ていった。
声がどこか柔らかいと感じたのは、きっと錯覚ではないだろう。
「うん。問題なさそうだね」
彼女の心音を聞いていた医師が聴診器を首にかけ、にこりと笑った。
「明日は念のため精密検査を行って、異常が見つからなければそのまま退院で大丈夫だよ」
「……わかりました」
看護師が頭を下げながら心電図を病室から運び出していく。
その後に続いて医師も病室を出ていって、室内には二人分の呼吸音だけが残った。
相変わらず状況をうまく整理できていないのかまだどこかぼんやりとしたままの彼女にそっと近づく。
しかしなんと声をかけていいかわからなくて、あ、とか、う、とか意味のない言葉だけを吐き出した。
「……ふふ」
視線と指先とを空中に漂わせていると彼女は噴き出す。
その笑顔は今まで見たどの笑顔よりも自然で、柔らかくって、温かかった。
ぽかんとしていると彼女は、ごめんなさい、と笑顔のまま続ける。
「山崎さん、今、すっごく挙動不審だったから……っ、可笑しくって」
「あはは……そんなに変だった?」
「かなり……っ」
口元に手を当てて肩を震わせている彼女の目尻には薄っすらと涙が浮かんでいた。
彼女は一頻り笑った後、はあ、と深く息を吐く。
そして、それから。
「……生き返っちゃったんですね、私」
吐かれたその言葉にびくりと肩が震える。
目は相変わらず細められていて、口元も隠したままなので彼女の感情はうまく読み取れない。
何を思って、彼女はそう言ったのだろう。
「てっきり、死んでしまったと思ったんですけれど。案外しぶといんですね、人間って」
「咲さん……」
「きっといつだって終わらせられたんです。でも、やらなかった。できなかった……」
彼女の頬を涙が伝う。
震える指の隙間から見える口角は持ち上がっていた。
「殴られて、無理やり組み敷かれて、痛くて、張り裂けそうで。逃げ出すことも出来なくて」
「咲さん」
「ただただ終わるのを待っていた…この痛みは、苦しみは、いつか終わってくれるって、終わってくれって、信じて、祈って」
ぐらぐらと瞳が揺れる。
「でも、やっぱり待ってるだけの人間は、救われることは無いんですね。これからもずっと、あの部屋であの人と一緒に……」
「咲さん、聞いて」
感情がぐちゃぐちゃになって、壊れてしまいそうな彼女の肩を包み込む。
その肩は悲痛なほどやせ細っていて思わず一度手を放し……、思い直してもう一度そっと包んだ。
「お兄さん、いや、君を誘拐していた彼は、攘夷浪士に武器を密売していた罪でお縄についたんだ」
「……え?」
悲しみとも喜びとも、なんとも取れないその顔の中の、彼女の鮮やかな瞳が大きく見開かれる。
「咲さんが住んでいた家は密売の証拠を洗うためにこっちで押さえてる。だから、えっと、その」
「……あ、はは。家族どころか家すら無くなっちゃった、んだ。まあ私の家ではなかったですけど……」
手のひらの中で細い肩が震えた。
いつのまにか口元を隠していた指先は真っ白いシーツの上に落ちていて、ぎゅうと拳を握りしめていた。
それ以降彼女は黙りこくってしまう。
項垂れて力なく揺れる髪が窓の外の夕日を浴びて橙色に光った。