それに気が付いたのは投薬を続けてから既に十年近く、タマゴを奪われてから二年が経過した頃。
自分は幼い頃から病気がちで、よく急に倒れたり寝込んだり発熱したりと体調を崩すことが多かった。
その度に父に連れられて病院に行き、かかりつけ医に診てもらっていたのだが、その症状は年数を重ねるごとに酷くなっていった。
当時、医師は大きくなるにつれて免疫力が強くなり身体も強くなるだろうと言っていて、もちろん幼い自分はそれを信じて疑わなかったのだけれど、あの日珍しく家で眠りに落ちた父のICカードを盗んで研究所に忍び込んだ私は、大人を信用してはならないと痛感した。
「なに…これ…?」
父は子供ひとりで育てるには荷が重いと言い、拾ったタマゴを持ち去った。
時折朝起きると、生活費と共に真っ白いメモ帳にタマゴの様子を記してくれていたので私は父がタマゴをとても大切に育ててくれているのだと思っていたが、決してそんなことは無かったのだ。
培養液に沈んでいる小さな身体は、誰がどう見たって大切にされているとは思えないだろう。
そして、丁度二年程前から増えた新しい常用薬が一体何なのかも、最近色味を失い緑色を帯び始めた髪と鮮やかな紅に染まった瞳にも合点がいった。
「そういう、ことなの…父さん」
研究室に残されていた資料には、タマゴは生物兵器のプロトタイプとして改造され始めていること、同時進行でポケモンの遺伝子を組み込んだ薬を人間に投与したらどのような反応が出るのか実験を進めていることが記されていた。
その日、決意した。
すべてを捨てて、彼女と共に檻の中を抜け出すことを。
「……待ってて。絶対に助け出すから」
そこからは必死だった。
生活費用を全面的に父の世話になっている現状では逃げ出すにも限度があるとわかっていたので、アルバイトを始めた。
父のおかげで自力で稼いだ分はすべて貯金に当てることが出来て、それに関しては今も助かっている。
空いてる時間は全て勉強に当てた。
父が勤めている企業について、父が行っている研究について、タマゴから生まれたあの子に行われている研究について…そして、長年ずっと自分に行われていた研究について。
「父さん…あたしずっと父さんのこと、父さんだと思ってたよ」
知れば知るほど、知識を蓄えれば蓄えるほど、父が関わっている研究は非人道的なものだとわかる。
父が勤めているのは世間的に有名な大手企業だ。
ポケモンバトルに有益なアイテムを市場に多数展開している。
だがその企業には裏の顔があった。
この世の中、数多の生物が存在している世界で争いが絶えることは決してない。
争いに勝とうと非道な手段をとる者が絶えることも決してない。
父が勤める企業はその非道な手段をとる存在の先駆けともいえるほど長年それの研究に従事してきたようだった。
その研究というのが"生物兵器の開発"だ。
強さの証明のため。
大切なものを守るため。
あるいは目的の達成のため…人間はポケモンを戦わせる。
目的達成のためには手段を択ばない者もいる。
そんな手段を択ばない者たちと、恐らく利害が一致したのだろう。
父はポケモンの能力を物理的に不可能なところまで強制的に強化し、最強のポケモンを作り出すという研究に携わっていた。
そしてそのプロトタイプとして抜擢されたのが、拾ってきたタマゴから生まれてきたラルトス。
どうやら普通のポケモンより能力の基礎値が高かったらしい。
最終的には、無理やり能力を引き上げたポケモンの遺伝子から生物兵器を大量生産してテロ組織などと取引を行う予定だったと資料には記されていた。
しかしながらその計画は、完成間近でプロトタイプが研究所から脱走したことで頓挫した。
* * *
「……そう思っていた。あなたと、会うまでは」
ぐいと口元から顎まで垂れていた血を拭い、深く息を吐いた。
ふいと翠の真っ赤な瞳を見つめると彼は不安そうに首を傾げる。
彼女の面影が残るその表情…とっくに疑念は確信に変わっていた。
「翠…あなたは、トラックで運ばれている最中に事故か何かにあって…気が付いたらうちの近くに居たんだよね」
『あ、ああ』
そっと、相変わらず彼の手首を締め付けている鎖を人差し指でなぞる。
「あたしね、これ、何なのか知ってるの」
そう言うと翠の瞳は大きく見開かれた。
彼の小さな口がぱくぱくと開閉を繰り返す。
「盗んできた資料の中にこれも載っていた。あたしが調べた時にはまだ計画段階で作成にすら取り掛かっていなかったはずだけれど、これが実際に完成しているってことは生物兵器の作成は頓挫していなかった…どころかあなたに装着されているってことは生物兵器の作成も殆ど完成したと思っていい。……きっと、あなたは、」
その時、リビングにベルの音が鳴り響いた。
驚きからか彼の小さな身体はびくりと震えあがる。
「大丈夫。ここにいて」
不安そうな彼をその場に残し、玄関へとそっと歩みを進めた。
ドアにチェーンを点けたまま錠を外してゆっくりとドアを開ける。
隙間から見えた見慣れた顔に思わず安堵の息を吐いた。
気のせいかも知れないが…ドアの向こうでも小さく吐息が聞こえた気がする。
「椋さん…」
「あ、優ちゃん。急にごめん。…えっと、なんていうか………会いたく、なっちゃった…って言えばいいの、かな…?」
なんで疑問形なんだろう。
「…ああ、いや。うーん」
歯切れの悪い様子の彼に首を傾げる。後ろに居る彼の相棒が我慢できないとでも言いたげに頭を揺らしているのが見えた。
きゅい、と鋭い嘴の向こうから鳴き声が飛び出す。
「わ、わかった、わかったって」
歩み出た彼がドアにぶつかりそうになったのを見て、慌ててチェーンを外してドアを開けた。
そうして、自分よりも10cm以上高い位置にある目が此方を見下げた次の瞬間に見開かれ、褐色に焼けた肌が真っ青になっていく。
「優ちゃん…そ、れ……どうしたの…?」
震える彼の指先は此方の首元を指していた。
ふいと顔を下げると、襟首が真っ赤になっていることにやっと気が付く。
先ほど吐いた血がいつの間にか落ちていたんだろう。
「あー…えっと、」
どう説明しようかと言葉に詰まっていると、背後から小さな足音が聞こえてきて振り向く。
心配して様子を見に来てくれたのか、翠がそこに居た。
『優』
「ん、翠、ごめん。お茶用意しておいてもらえる?」
『…………わかった』
心なしか不満そうだったけれど、家の奥に消えていった小さな背を追うようにして玄関に背を向ける。
「とりあえず上がってください。何か用があっていらしたんでしょう?」