あなたを濡らす雨に傘を
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「よろしくお願いしまーす」
さあ、貧乏学生はバイトの時間だ。逢坂く…いや、アイドリッシュセブンに元気を貰って、それからチケットの件で友達にこってり絞られ、バイトに向かう。家から自転車で10分の焼肉店だ。
いつも通りに挨拶をして、先輩にアイドリッシュセブンを勧めながらホールにつく。「名字、これ五番!」はいはいさっそくですか、…というかなにこのメニュー肉食い過ぎかよ。そりゃ焼肉店だけど。
ほいしょっ、とダンスで鍛えた体幹を生かしバランスをとりながら指の間にそれぞれお皿を挟む。両手で合計6枚、腕も合わせて合計8枚のお皿を持って、五番席まで一直線。「あのお姉ちゃん、すごーい」おうおうありがとう、可愛い女の子よ。
相変わらず関節がおかしいな、と褒められてるのか貶されてるのか同僚に茶々を入れられながら辿りついた五番席。あ、忘れてた、五番って個室じゃん。しまった襖を開けられない。「わ、すごいですね」なんてところに後ろから声をかけられた。助かった、もしかして五番席のお客様ーーあ、れ。この、声。
「ここですよね。開けますね」ーーまちがい、ない。だめだ、緊張が身体を走り抜けた。抜けそうになった力をどうにか絞り出して耐えた。「あ、りがとう、ございます…」なんで、なんでここに。なんで、アイドルじゃないあなたが、こんなところに。
襖を開けてもらうために一歩を引くと、顔を覗き込まれた。うっ、あ。おうさかくんだ。変わらない。だめだ。なんで今、こんなところで、会えちゃうの。
「……えっ」
「あ、えっと、……あー!あの、あなた、アイドリッ」
「名字、さん」
「シュセブンの逢坂く…………え?」
いま。いま、なんて言った?名字さん?いや、きっとなにかの聞き間違い。わたしの名前と似たような名詞なんていくらでもある。今ひとつも思い浮かばないけどきっとある。だから、違うから、期待は、期待だけはするな、わたし。
「っあ、いや」慌てて口元を抑える逢坂くん。だからそんな仕草を見せられたら、期待ばっかり募るんだって。ちがう。きっと違う。だからわたし、さっさと逢坂くんがわたしの名前を呟いた理由をーー「…あ、名札」そっか、名札を見て?
「お知り合いの苗字と同じ、ですか?」
「あ………その」
「あっ、ええと、あの。わたし、アイドリッシュセブンの」
「…ごめんなさい」
「ファンで………んっ?」
「…大学のときの、知り合いかなって。…つい」
「あ、あー、そうでしたか!……えっと」
「忘れてください。それより、その体制つらいですよね。こっち持ちます。あと、開けますから」
「あっ、ありがとう、ございます………」
逢坂くんはわたしの左手を空けてくれる。どくん、どくん。触れそうな距離。触れられる距離。プリントを渡すときだって、こんなに近くにいられた試しがなかったのに。
大学のときの、知り合い。なんて、そんなこと言わないで。期待が止まらない。溢れ出す。好きです。大好き。あなたは覚えてないのかもしれない、大学のときの、知り合いです。「……逢坂くん」言っちゃだめだ。だめ、なのに。止まって、くれ。わたしのことなんて、彼は。
「……え」襖を開ける前に、くるりと振り返った逢坂くんも、なんだか期待をしているように見えて。そんな顔をされたら、勘違いするじゃないか。「へへ、わたし、逢坂くんと、大学同じだったんです。覚えてないかも、しれないけど」震える声で、そう紡ぎ出す。笑え。言ってしまったんだ、せめて、冗談らしく、笑え。
「…あ、」
「学部も同じだったんですよ!今じゃもう、ファンのわたしには誇らしくて」
「っ、…あの」
「あっ、ライブ行きます!今度のライブ、応援してますから!がんばってください!」
わたしは、ファンだ。逢坂壮五とは、なにもなかった。ただ同じ大学で学んだ、同じことを学べた、幸運なファン。恋心なんてそんなもの、わたしは。「…覚えてるよ。…名字さん」ーーぎゅううう。笑顔が崩れた。泣きそうにすらなる。
泣くな。なんで泣くの。嬉しいじゃないか。覚えていてくれたんだ。ただの一学生を、このアイドルが知ってくれている。こんなに嬉しいことはないだろう。笑え、笑え。「あ、ありがとう、ございます!記憶力がいいん、ですね…っ」そうだ、記憶力がいいんだ。頭の良い彼がわたしを覚えているのは、ただ、それだけーー。
「……ブランケット」
「っ、」
「まだ、返せてなくて。ごめん」
「…っあ、う」
「覚えてる、かな。初めて会った日に、席をーー」
「覚えて、ます」
「……え」
「クーラー、寒いからって、少しだけこっちに寄って。わたしがちょうど持ってたブランケットを受け取ってくれて、席を替われば、ありがとうって」
忘れているはずがない。あの日のわたしは、今でもこんなに忘れられないくらい、幸運だった。わたしはあなたの目を盗んで、あなたのことばかりを見て。そんなわたしにも気付かず、さながら天使のように微笑んだあなたが、わたしは、ずっと、ずっと。
「…好き、だったんですよ」かっこよくて、綺麗で、かわいくて。そんなあなたに、ずっと焦がれて。ああ、言えたなあ。「なんて!今更ずるいですかね!」いまでも、わたしの胸を焦がしてやまないあなたを、わたしはもう、困らせられない。「アイドリッシュセブン、応援してます」誤魔化すように開いた口には、少しだけ、しょっぱい水が流れ込んだ。