03
夢か現実か分からない、そんな混濁した世界で聞こえた音は何かは分からなかったけれど、その中で私を呼ぶ声を聞いた気がする。
ズキンズキンと痛む頭に僅かに呻き声が漏れ、身を捩って温かなそれに額を擦り寄せた。
擦り寄せ‥た?この状況で一体何に――
「――っ!?」
目をこじ開け身を起こそうとするとバランスを失って目の前のものにしがみつく。
「忙しない奴だな」
クツリと落ちてきた笑い声にサアッと血の気が引いていくのを感じた。恐る恐る見上げればやはりそれは‥いるはずのないロニーで。
「‥あ、え‥ロニー‥?」
「何だ」
「ここは‥どこ?」
「アルヴェアーレの近くだが‥今にも私は誰とでも言い出しそうな顔だな」
キョロキョロと辺りを見回すと裏通りを通っているらしく人通りは少ない。
横抱きのままでいるのは恥ずかしかったけれど、頭がグラグラして自分で立って歩ける自信はなかった。
「‥‥どっちが夢?」
「どちらも夢ではない。お前は拐われ、俺が取り返した。勝手に持っていかれては困る」
‥私はあなたのものでもないのだけど。と、口にする勇気はなく閉口する。
それに今は話していると頭に響いて辛い。この人と話すのは頭を使うから尚更。おずおずとその胸に頭を預け目を閉じると大分楽で、早く睡眠薬が抜けないかと考えている間にまた眠ってしまった。
**
「‥ん‥」
目を開けると見覚えのある天井にゆっくり瞬きをする。頭痛はなくなったもののまだぼんやりする頭に布団から腕を出して当てると、あ、と柔らかい声がした。
「大丈夫ですか?お水‥飲みますか?」
視線をやると、今時珍しいスーツを着た女の人が私を覗き込んでいる。頷くとソファーからクッションを持ってきてくれて、起き上がった私の背中に挟んでくれた。
「ありがとう」
「いいえ」
「あなたも‥マフィアなの?」
「私は置いてもらっているだけでマフィアという訳では‥簡単なお手伝いはさせてもらったりはしていますが」
彼女も‥何か訳ありなのだろうか。相槌を打っているとドアがノックされ、彼女が一言残してドアへと向かう。
「分かりました。ではお願いします」
「ああ」
少しだけ開いていたドアが大きく開けられたことで聞こえた声に動揺して辺りを見回したけれど隠れる場所はない。
その間に彼女と入れ替わるようにロニーが入ってきて、静かな部屋に彼の近付いてくる靴音が響く。
「まだ痛むのか?」
「動いたりすると少しだけ‥」
彼は傍まで来るとベッドに腰を下ろし、逃げることのできない私はせめてもの抵抗として目線を落とした。
どうやって場所を突き止めたのかとか、どうしてそこまでしてくれるのかとか、聞きたいことは沢山あるのに言葉にならない。
ジクジクと突き刺さるような視線を感じながら顔を上げられずにいると、頭に重みを感じて肩を上げた。
何度も、何度も。撫でられるそれはとても優しくて‥温かい。
ロニーは怖いけど、でも‥優しい人、なのかな‥?
「ロニー、あの‥」
視線が重なる。ロニーは手を止めて、私の言葉を待った。彼に抱き上げられていた時気付いたのだけど、彼からはその見かけには似合わない蜂蜜の甘い香りがする。今はこのお店の匂いに紛れてしまっているけれど、そのギャップが何だか少し‥可笑しかった。
「ありがとう。助けてくれて」
自然と口角が上がり弧を描く。彼が驚いたように目を丸くしたものだからきょとんと首を傾げれば、彼が初めて優しく笑った‥ように見えた。
「‥切れてる」
「え?あ‥」
それも一瞬のことでロニーの手が頬に添えられ親指が唇をなぞる。‥ああ、キスされた時に‥
「んうっ」
突然親指が強く唇をなぞるから驚いてロニーの腕を握る。な、なに、痛い。
眉を寄せてまるで拭うように唇を親指がぐりぐりぐりぐり‥
「い、いたい!」
涙目になって抵抗するとやっと解放されたものの、塞がったところがまた切れてしまったのか血の味がした。
もう、一体何なの。血を拭おうと口元に持ってきた手がロニーに掴まれ、今度は何事かと顔を上げた瞬間。
ロニーでいっぱいになった視界と、唇にチリッと走った痛み。
「い‥い、い、いま舐め‥!?」
「消毒だ」
「そんな――‥っ!?」
抗議の途中で唇が重ねられ、今までで一番の早さで後ずさる。
枕を抱き締めて壁にぺったりと背中を張り付けているとロニーが笑うから悔しくて、でも赤くなっているであろう顔は治めようがなくて。
その間にもベッドを軋ませ近付いてくるロニーに、枕で身を守るように縮こまった。
「失礼しま‥‥」
ガチャ、と気遣わしげに開いた扉から姿を見せたマイザーさんと目が合った。
彼は目を見開くとそのまま部屋に入り、ベッドの横に立ちロニーを呼んだ。一気に空気の冷めるような冷たい声で。
「‥‥何か用かマイザー」
「ええ、まあ。何してるんですロニー。仕事はどうしたんですか?」
「今は休憩中だ」
「なるほど。それで‥まだ体調の優れない彼女に何をしようと?」
「傷の消毒だ」
「‥私の目には彼女が怯えているように見えるのですが」
眉をひそめとうとう振り返ったロニーとマイザーさんの間に沈黙が流れる。
無言のにらみ合いが続く中ドキドキとその様子を見ていると、ロニーが私を一眼しため息をついてベッドから立ち上がった。
「腕と膝を怪我している。手当てしてやれマイザー」
彼が部屋を出ていくとほっと息が漏れて、マイザーさんが振り返って申し訳なさそうに謝った。マイザーさんが謝ることはないし、ロニーに対してもふつりと罪悪感が沸いた。
「彼が怖いですか?」
ドアを見つめていた私の心情を読み取ったのか、マイザーさんは近くに椅子を持って来ると壁に張り付いていた私をベッドの淵まで来るように促す。
「‥怖い、けど、嫌な人じゃないんだろうなって思うの。‥多分。どう説明したらいいか分からないけど‥」
椅子に腰を下ろしたマイザーさんに腕を手当てして貰いながら、初めて彼を見たあの瞬間のことを思い出した。
「彼の存在が‥絶対的なものみたいに思えたの。大袈裟かもしれないけど彼に見つかって見つめられていたあの瞬間は、彼に全てを握られている感覚だった」
動きも、呼吸も、私の存在‥生死すらも。
「‥なんて、そんなの私が今までこういう世界に触れたことがなかったから、ロニーをすごく怖く感じてしまったんだと思う」
苦笑すると、続いて転んだ時に擦りむいてしまった膝の手当てに入る。
「ロニーは‥強引だけど、でも、私を助けてくれて‥なのにあんな態度を取るのは失礼よね‥」
彼の放つ空気を前にすると畏縮してしまって、彼の瞳が私を見つめると逃げ出したくなる。何を考えているか分からないところも私の不安を膨らませ、彼の前にいるのが辛くて避けるような態度を取ってしまう。
「ロニーは気にしていないと思いますよ」
「そう、なの?」
「どちらかと言うと‥貴方の反応を楽しんでいる節があるかと」
そ‥それは何となく、分かるけど。遊ばれている‥というか。
「はい、いいですよ。長年一緒にいますがロニーのことは私もよく分かりません」
「ありがとう。え、マイザーさんも?」
「ええ。深く考えるだけ無駄ですし、向こうには筒抜けですからね」
「筒抜け‥?」
‥勘がいいってこと?私が首を傾げると時計を見たマイザーさんが立ち上がる。
「すみませんそろそろ仕事に戻らなくては。明日には薬も抜けますから、今日はゆっくり休んでください」
「お仕事の邪魔してごめんなさい。本当にありがとう‥マイザーさん」
彼は優しい笑みを残して部屋を出た。こうして接していると優しいお兄さんなのに、ロニーとのやりとりを見ている限りやはりマイザーさんもマフィアなのだと感じる。
目まぐるしく変わる日常。心だけが取り残されて、私自体はもう戻れない場所まで来ているのに。
膝を抱えて目を閉じると、遠くに暮らす両親の顔が浮かんだ。
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