一周年企画小説
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受験の日。
遅刻しそうで、なのに迷ってしまった私はとてつもない不安に押し潰されそうになっていた。
左か右か、時計を見てももう受付時間の終了が間近に迫っているのに。
「どうしよう‥わっ‥」
腕を引かれ、転びそうになりながらも足を動かして耐える。
目を見開いて腕を辿れば、スーツの裾を靡かせて前を走るくすんだ金髪が視界を彩り。
「あのっ‥」
外人さん‥だよね?どうしよう‥
困惑に声を上げた私は、その先に校門を捕らえて。
足を止めて肩で息をしながら初めて、この人は学校まで連れてきてくれたのだと気がついた。
「Good luck」
落ちてきた声は低く、風のように私の背中を押してくれた。
さっきまでの不安は走って来る時に置いてきてしまったのかもしれない。
そんな気すらして、私は風に靡く髪を押さえて振り返った。
「はい!」
――そうして私は無事合格。その人が私の通うことになった学校の先生だと知ったのは、入学を迎えて数日後のことだった。
「あの人‥」
「あ、あれ多分ラック先生だ!」
「ラック先生?わあ‥かっこいい」
「中学からの先輩に聞いたの。まだ来て2年目なのに、男女関係なく人気のある先生なんだって」
聞こえた会話に、思わず私も同じように相槌を打ってしまった。
はっとして止めた足を進めながらも、もう一度廊下から窓の外を見やる。
「先生、だったんだ‥」
だから、あの日は受験だと知っていて、迷っていた私を連れてきてくれたんだ。
数人の生徒と談笑しているその姿は頭一つ分大きく、太陽に髪色が反射して目立つ。
「ラック先生‥」
確かめるようにぽつりと呟く。
不意に先生の瞳がこっちを向いたような気がして、慌てて逸らした。
おかしい。変なの。ここからなんて絶対聞こえないはずなのに、偶然先生がこっちを向いただけなのに、どうしてこんなに。
「藤崎さん、顔赤いけど大丈夫?」
着いた教室で心配そうに覗き込んで来るクラスメートに、私はぶんぶんと首を振った。
視線の行き先
‥‥えっと。今のこの状態は、どうして出来上がったんだっけ。
「あ、あのっ、藤原くん‥?」
まず、出席番号の近い藤原くんと週番の仕事を与えられて。
担任の先生は用事があって他の先生に頼んであるからと、ホチキスを渡され資料室に連れてこられた。
プリントは先生が持ってくるらしく、手持ち無沙汰に窓から外を眺めていれば。
不意に窓に写り込んだ影に振り向くと、藤原くんが私を見下ろしていた。
「あの‥さ、藤崎って男嫌いなの?」
人見知りではあるけど、男嫌いという程ではない。
不思議に思いながらふるりと首を振ると、藤原くんがあからさまにほっとした表情を見せた。
「ただの噂かよ‥よかった。でも藤崎が男子と話してる姿ってあんま見ないよな」
「それは、その。私すごい人見知りだから‥近くにいる女の子と話すのが精一杯、で」
それに私は、人数が増えれば増えるほど聞き手に回って黙ってしまう傾向にある。
「そうだったんだ。なら‥これからも話しかけていいか?」
頷いて小さく笑顔を返せば、藤原くんが何か呟いて向こうを向いてしまった。
何かあるのかとその方向を見れば、設置してある時計が3時半を指していて。
「先生、遅いね」
「えっ?ああ‥‥って、もう3時半じゃん!やっべー、部活の先輩にもっと遅れるって連絡入れねぇと」
「‥部活行ってもいいよ?先生には言っておくし、大丈夫だよ」
携帯を手に唸りながら考えていた藤原くんは、しばらくするとパンッと顔の前で手を合わせて頭を下げた。
「悪い藤崎!今ポジションとか結構大事な時期なんだ。本当にごめん、任せていいか?」
「うん、頑張ってね」
バタバタと廊下を走る音が遠ざかって行き、静かになった資料室をぐるりと眺める。
少し開けた窓の外から部活の声が響いて、私はこんな放課後の雰囲気が何となく好きだった。
その辺にあった本を見ては戻し、雑に並べられた資料を揃えてみたり。
上の方にあった本は少し古そうで、だけどあれは図書室のシールが貼られていて。
精一杯背伸びをして、指先に触れた感覚に手前に引いた。
「はえ‥‥ひゃあっ!」
本は取れたものの、その上から雪崩のように薄手の冊子やらプリントやらが見えて。
バサバサッと耳にした割に感じなかった痛みにそろそろと目を開けると。
「――‥」
「っ‥怪我は?」
落ちてきた声は、あの時の。
「‥ラックせんせ‥?」
庇うように私の目の前にいるのは、紛れもなく、その人で。
「怪我はないんですね?」
こくこくと頷くと、先生は小さく咽せながらスーツについた埃払う。
いつからあったのか、落ちてきたプリントや冊子にはすごい埃が積もっていたらしい。
「何を取ろうとしてたんですか?」
腕に抱いたその本を差し出す。先生が不思議そうに本を裏返して、中を見ると最後のページで手を止めた。
「これは‥お手柄ですね」
首を傾げて掲げられたカードを見ると、その本の貸し出しは5年前の日付で止まっている。
「わ‥」
「その本、確か消失扱いにされてましたから図書員の方は喜ぶと思いますよ」
本を受け取ってまじまじと眺めていると、先生が開けた窓から脱いだ背広の埃を払っていて。
「ご、ごめんなさい‥」
「いえ、払えば落ちますから。生徒の無事が守れて良かったです」
‥とは言えやっぱり落ち込んでしまう。
落ちたプリントを片付けていると、背広をそのまま椅子にかけて先生も散らばったそれを集め始めた。
「藤崎さんと藤原くんの二名と聞いていたんですが‥」
ぱちりと瞬く。振り返ると机の上にはプリントの束があって、先生の言っていた代わりの先生はラック先生のことだったらしい。
「藤原くんはさっきまで待ってたんですけど部活があるみたいだったので‥あのっ、私ちゃんと藤原くんの分までやるので、」
「それについては大丈夫。‥すみません、会議が長引いてしまって。早く終わらせてしまいましょう」
私の手から拾ったプリントを取って、不意に先生の指が髪に触れた。
「防ぎきれませんでしたね」
埃が取り払われてから、私はきゅっと唇を結んで小さくお礼を返す。
初めてたくさん話して、少しだけラック先生を知れた。
さり気なく片付けまで手伝ってくれて、何をしてもスマートなのは外国の血なのかもしれないとか変なことを思ってしまって。
作業が続き、穏やかな沈黙が資料室を支配する中。
「先生って、すごく日本語上手ですね」
何の脈絡もないことを言ってしまったと自覚したのは、しばらくして、ありがとうございますと震えた声がしたからで。
ちらりと見るとクスクスと肩を揺らしていて、私は頬が熱くなるのを感じながらひたすらパチパチとプリントをとじた。
‥先生は、あの日のことを覚えてはいないだろうけど。
『幸運を』その言葉は今もまだ私を支えてくれているから。
『あの時はありがとうございました』と伝えたら‥先生は笑ってくれるだろうか?
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