1932 喧嘩のあとには
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「お兄ちゃああん」
「‥‥‥またか」
ラックさんと喧嘩をしてお兄ちゃんのところに駆け込むのはこれが初めてじゃない。
避難所とも言う。お兄ちゃんの家の鍵を貰っている私は、事あるごとにお兄ちゃんの家に避難してはお兄ちゃんの帰りを待ち話を聞いてもらっていた。
「今度は何だ?」
「‥あんなに、怒らなくてもいいのに」
ソファーに腰掛けながら唇を尖らせる。
お兄ちゃんはコーヒーを入れるとミルクを私の前に置いた。いくらでも入れろと、お兄ちゃんの家ではいつもこのスタイルだ。
「今日暑かったから窓開けてたんだけどね、午後からいい風が吹いてきてすごく気持ち良かったの」
日付的には夏目前、気温的には初夏と言ってもいいこの頃。
暑い室内に涼しい風が吹き抜け、私はキャミソールにスカートという日本ではよく見かけたその格好のままソファーで居眠りしていた。
朝は上に薄手のカーディガンを羽織っていたものの、上がっていく気温に耐えられなくて。
「そしたら忘れ物を取りに戻ってきたラックさんに起こされて、鍵が開けっ放しだったって‥」
いつもラックさんを見送ってから鍵をかける。それはラックさんから言われたことで、続けていたんだけど。
「忘れちゃったって言ったら、‥すごく怒られた」
うっかりだよ?一回だけだよ?それなのに、あんなに怖い顔して怒らなくてもいいのに。
「抗議したら‥ここは平和な日本じゃないって言われて、何か‥カチンとして、」
私は17年間日本で育ったのだ。習慣だって常識だって簡単に変わるものじゃない。
「‥‥好きでここに来たわけじゃないって、言っちゃったの」
ラックさんは一瞬悲しそうな目をしたけれどすぐに怒りへと変え、時計を見ると「鍵は締めて行きますから」と仕事へと戻ってしまった。
「そんなこと‥言うつもりなかった‥」
膝に置いた指先を見つめながら俯いていると、隣に移動してきたお兄ちゃんに頬を摘ままれる。
「いふぁい~!」
「まだまだ子供だな、お前もあいつも」
「‥らっふはんほ?」
「ああ。これにははっきり言ってやらないと分からないだろう」
どうにか暴れて解放された頬をさすりながら、これ呼ばわりに眉を寄せる。
「今回はお前が悪い」
お兄ちゃんはコーヒーを飲むと背もたれに寄りかかりながら脚を組んだ。
「お前の住んでいた場所がどれだけ平和だったか知らんが、鍵が開いている家など『強盗に入ってください』と言っているようなものだ」
親戚の家にいた時、日中は家に誰か一人でもいれば鍵なんてかけなかった。
「強盗が入ってみれば、襲ってくれと言わんばかりに肌を露出させた女が眠っている。手を出さない男はいないだろうな」
「‥‥‥」
そんなに、危険だったの?
カップから上がる湯気を見つめながら、更に罪悪感が私の心を締め付ける。
「‥謝る‥‥でも、」
ラックさんの表情を思い出す。‥怖い。あの瞳と向き合う勇気はまだない。
「それでお前は、置き手紙でもしてきたんだろうな」
「え?」
「このまま泊まっていく気だろう」
時計を見ればもう夜の11時を過ぎている。悶々と考えていたせいか5時頃ここに避難してきてから何も食べてない。忘れてた。忘れてたと言えば、
「‥置き手紙、してくるの忘れた」
「‥‥‥‥帰れ」
「やだよぅ!絶対ラックさん怒ってるもん!お兄ちゃん一緒に来て!」
しがみつくと完全無視に入ったお兄ちゃんを揺さぶる。
「お兄ちゃああんっ」
「‥自業自得だ」
「悪魔あぁ」
「ほう‥‥?」
低い声にぴたりと動きを止める。恐る恐る見上げれば、お兄ちゃんがニヤリと口角を上げて。
「ならばお前の望む通り、悪魔になってやろう」
「え――」
ぱちりと。瞬きしたその一瞬。目を開けたその眼前にはドア。
慌てて振り返り辺りを見回すと、そこはどう見ても‥
「‥‥うちだ」
私とラックさんが暮らしている、見覚えのありすぎるドア。
瞬間移動しちゃった‥私すごい体験したような気がする。でも今はそれどころじゃない。お兄ちゃんの鬼、悪魔。
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