第一章
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過ぎてしまえばあっという間の七日間だった。
一週間に及ぶ探窟を終え、今はもうシーカーキャンプへと昇るゴンドラの中。行きは良いのだが戻る時に味わう上昇負荷はやはり気分の良いものではなく。ジルオは気を紛らわせようとルトと過ごした七日間を思い返す。
――タオラートとの遭遇以外は窮地に陥る事もなく、実に滞りなく行われた探窟だった。
それは紛れもなくルトの持つ不思議な皮膚感覚のおかげだ。更には、ルトの優れた察知能力のおかげで探窟中の食糧に困窮する事すらなかった。
ただ……食糧の保存性を高めるべく使用する香辛料を、ルトが尽く嫌がった事には少々困らされた。
初日の夕食。捕らえたトカゲ肉を香辛玉仕立てのスープにしようとすれば「ジルオさんそれ辛いから嫌です!棒味噌仕立ての方がいいです!!」と青い顔のルトが必死に止めてきて。
「心配するな。少々ピリ辛にはなるが子どもが食べられぬ程の辛さではない。それに、身体もより温まる」とジルオがルトの意見を聞き入れぬままに香辛玉を溶き入れれば「ぶぇやぁああああああぁぁ?!」と周囲にルトの絶叫が響き渡り……そのまま膝から崩れ落ちたルトの姿は忘れられそうにない。
それでも、焚き火を前に香辛料の効用や必然性を訥々と説けば、ルトは「わかっては、いるんですけど…………でも……でも……辛いです……」と涙目でスープを口にしたのだが。
子どもらしい味覚は微笑ましくもあるが、何れは克服して貰いたい部分でもある。長期に及ぶ探窟では好き嫌いなど言っていられない場合など多々あるのだ。
だが、彼女には食べ物の好き嫌い以外の問題は特に無く……寧ろルトは己が過去に教えてきた子どもたちの中で誰よりも優秀だとジルオは感じ取った。
この一週間でルトは乾いた砂が水を吸い込んでゆくが如くみるみるうちに探窟に関する知識や技術を覚えていった。
特に発想力や手先の器用さは中々のものであり、ナイフの使い方を教えた翌々日に「ジルオさん。これ、狩りに使えますかね?」と自身で削り出した良くしなる丈夫な木の枝と伸縮性のある蔦を組み合わせた手製のスリングショットをルトから見せられた時には素直に感心した。
元より賢い部分のある子ではあるが、それでも目を見張る程の秀逸さだった。
(……流石はライザさんの娘というべきか)
言葉にはせず、ジルオが口元を弛めればそれに気づいたルトが「どうしたんですか?ジルオさん」ときょとりとした眼差しを向けてきた。
「ん?……ルトはやはり君の母上……ライザさんに似ていると思ってな」
「そ、うですか?」
「あぁ。破天荒な部分はあまり似てはいないが」
寧ろ破天荒な内面は姉のリコに引き継がれたか……とジルオは思えどそれは言わずともいい事か、と口をつぐんだ。
ルトはジルオの言葉に「お母さん、」と声を落とす。
「似、て……ますかね?私」
「俺は似ていると思ったが。……そういえば、ルト。君、ピーマンは好きか?」
「ピーマン……ですか?食べ、られなくはないですが……好きか嫌いかで言えば、その……」
えっと……ピーマンって、苦いですし……、とルトが目を泳がせてもごもごと言い淀めばジルオは堪えきれずに小さく噴き出した。
「……ジルオさん?」
「ふふ、……すまんすまん。やはりルトとライザさんは母娘だな。血は争えん」
ガコン、とゴンドラは止まるもジルオのクスクスとした微かな笑い声は止まぬまま。ルトはそんなジルオを不思議そうに眺め、ジルオの後に続いてゴンドラを降りた。
――ルトの母であるライザは、ルトよりも酷い偏食家だった。辛いものは好物だったと記憶しているが、野菜全般が主に苦手で特にピーマンを目の仇にしていた事をジルオははっきりと覚えている。
まだ己が鈴付きだった頃、酔っ払ったライザから『おらおら、もっと食えジルオ~!』と彼女が苦手としていたピーマンばかりをやたらと食べさせられた事は苦くも懐かしき思い出だ。
シーカーキャンプに戻り、荷を解き終えればあっという間に夕刻になっていた。
探窟していた一週間……いや、寧ろシーカーキャンプに戻ってからもずっと元気に見えていたルトだったが、やはり疲労が溜まっていたのだろう。
夕餉の香りが漂う頃には眠たそうに目を擦る仕草が目立ちはじめ……皿がテーブルに並べられ、さぁ食べようか、という頃にはナイフとフォークを握りしめたままルトはこくりこくりと船を漕ぎだし、そうしてそのまま眠りに落ちてしまった。
リコも幼い頃は食事中に突然寝落ちる事が有ったな、とジルオが思えば「久しぶりにルトちゃんが食事中に寝落ちるところを見たのぉ」とザポ爺が口元の笑いジワを更に深くする。
「昔はウトウトしたままスープに顔突っ込んじゃってその衝撃で目を覚ましたりとか、結構有ったっけ」
「懐かしいな。俺はいつかルトが顔面を火傷しやしないかとヒヤヒヤしていたが……おっと、」
「お、シムレドさんナイスキャッチ」
イェルメもシムレドもルトの寝姿を微笑ましく眺めていたのだが、ガクンとルトの頭が前のめりに倒れ込み。ルトの隣に座っていたシムレドが咄嗟に手を出しルトの顔面を受け止めた。
シムレドが優しい声音で「ほら……ルト、起きろ。飯抜きになっちまうぞ」とルトの身体をそっと揺すれど「むぐぅ……ぴーまんは、やですぅ……」とルトは寝ぼけるばかりで目を覚ます気配は無く。
上座にあたる向かいの席で食事をしていたオーゼンは呆れたようなため息を吐くと肉を刺したままのフォークでルトの事を緩慢に指し示した。
「……そこの間抜け面を晒している馬鹿弟子はもう片付けちまいな」
「はは……この様子じゃもう朝まで起きそうにないですしね」
シムレドはオーゼンの言葉にルトの身体をよいせ、と抱えあげる。ジルオがルトへと視線を向ければむにゃむにゃとした口元に光る何か。同じくそれに気づいたイェルメが「何とも油断しきった顔してんなー」と笑いながらルトの口の端から垂れる涎をナフキンで拭った。
ジルオは居室へと運ばれてゆくルトを見やり、ルトが皆に愛されているようで何よりだと目を細める。
――リコや自分と離れてしまったとしても、きっと此方の方が暖かい。同じ暗がりだったとしても、孤児院の地下などよりアビスの闇の方がルトを活かすには最善であり、最適だったのだろう。ジルオは改めてそう思い、己の心に言い聞かせた。本音は――そっと胸の内に押し留めておこう。
夕食を終え、身も清め。後はもう疲れた身体を休めるだけ……と言いたいところでは有ったが、ジルオにはまだ片付けねばならぬ仕事が残っていた。
眠気覚ましの珈琲を啜りつつ、ジルオは探窟報告書にペンを走らせる。――特に目新しい遺物は発見できず、発窟できた量もそれほどではない。だが、初めて遺物を掘り返した時のルトの笑顔はとても喜びに満ちていた。
「これ、初めての記念なので!ジルオさんに差し上げます!」とルトから満面の笑みで差し出されたのは〝姫乳房〟――通称、おっぱい石。名の由来の如くふかふかと柔らかいその遺物の等級は低いものだが、枕代わりに丁度よく……しかしながら主な使い途として挙げられるのは所謂〝慰み〟の供である。
まぁ、それは年端も行かぬ少女にわざわざ説明すべき事では無いだろう、そう思いつつ礼を述べジルオが姫乳房を受け取れば「そういえば、これ……ノラさんがとても良いおかずになるって言ってたんですが、食べられるんですか?」とルトから純粋な瞳で見つめられ――ジルオは顔を引き攣らせながら地上に帰ったら先ずはあの軽率な兄貴分に拳骨を食らわせると固く誓った。
「ふぅ…………」
書類の記入を一通り終えてジルオは大きく息を吐く。すると、音も無く重々しい影が頭上に落ちてきた。
「…………不動卿」
「雑務を終えたなら、一杯どうだい?」
顔を上げれば口元に弧を描くオーゼンの姿。ジルオは苦笑いを浮かべつつも「……ありがとうございます」とオーゼンから差し出されたグラスを受け取った。
トポリ、と注がれたのは琥珀色の液体。無言の圧で促され、否応なしに口に含めば甘苦くビリビリとした刺激が舌に走り、喉を通せば身体が灼けるように熱くなる。これは――随分と度数の高い酒だ。
「君の師匠が好んでいた酒だよ。どうだい?美味かろう?」とオーゼンはニタニタとした笑みを浮かべるが、ジルオは「む……、」と顔を顰めて唸る事しかできず……これを浴びるように飲んでいたライザの味覚は正直理解しがたい。
オーゼンは明らかに飲み慣れていない様子のジルオの姿に「……これは良い酒のアテだねェ」とククッと喉を鳴らし、グラスの中身を一気に煽った。
「で。君……あの馬鹿弟子を引率してみてどうだったかね?」
「馬鹿弟子だなんてそんな。……ルトは驚く程に優秀でしたよ。寧ろ……俺の方が己の未熟さを思い知らされたくらいです」
ジルオはこの一週間でのルトの様子を掻い摘んでオーゼンに語る。オーゼンは「フゥン」と空になった己のグラスに酒を注ぎ、闇よりも暗い瞳でジルオの瞳を見据えた。
「あの子は特殊だから君も随分と楽が出来たろ」
オーゼンの言葉にジルオは言葉を詰まらせる。
どう応えるべきか、と案じる前にジルオの脳裏に浮かんだのは一つの問いだった。
「……不動卿。ルトの感じ取っているモノの正体とは一体何なのでしょう」
「さぁねェ。それは私にも見えないモノだからわかりようがないさ。ただ、」
「ただ?」
「それは間違いなくアビスの呪いがもたらした変容なんだろうよ。どこぞのろくでなしはそれを〝祝福〟などとのたまっていたがね」
――祝福。
誰がそう表したのかは知らぬが――何と皮肉めいた表現だろうか。
「俺には――とても祝福などとは思えませんが」
「それは君が決める事じゃ無かろうよ。アレがどう受け止めてどう活かすかで決まる事さ」
「…………。」
「まぁ、アレが呪いに生かされ、呪いに愛されているのは確かだろうよ。――現に、アレはアビスの呪いすら捩じ伏せる」
「……え?」
「何だ、君は気づいちゃいなかったのかい?」
言われてジルオはふと気づく。――探窟に至る道筋は平坦な場所を選びとった故に上昇負荷はかからなかったが……シーカーキャンプへと昇るゴンドラ。あれは否応なしに二層での上昇負荷を味わう代物だ。それは――子どもに耐えうる負荷では無かった筈なのに、ルトは平然としたままゴンドラに乗っていた。
「言ったろう?探窟はさせちゃいなかったが、ここいらの散歩くらいはさせていたと。――ま、二層以降の呪いはどうだか知らんがね」
あぁ、そうだ。君の研修ついでにアレを大断層に吊るして三層以降の呪いの影響をアレが受けるかどうかを調べてみるのもまた一興かね、とオーゼンは嗤うが、流石にそれは洒落にならないと思ったジルオは「やめてください!」と顔を青くして拒んだ。
「冗談さァ。流石の私も嗜虐趣味は持ち合わせてないからねェ?――ところで君。グラスの中身が減ってないように見えるんだけど……口に合わなかったかい?」
オーゼンの口元は三日月を描けど、その深淵の瞳は笑っていないように見えて。「いえ……そんなことは、」とジルオは慌ててグラスに口をつける。――明日からは己自身の過酷な研修が控えている。夜通し飲まされて酔い潰されるような事だけは勘弁願いたいが……果たしてそれは避けられるのだろうか。
一週間に及ぶ探窟を終え、今はもうシーカーキャンプへと昇るゴンドラの中。行きは良いのだが戻る時に味わう上昇負荷はやはり気分の良いものではなく。ジルオは気を紛らわせようとルトと過ごした七日間を思い返す。
――タオラートとの遭遇以外は窮地に陥る事もなく、実に滞りなく行われた探窟だった。
それは紛れもなくルトの持つ不思議な皮膚感覚のおかげだ。更には、ルトの優れた察知能力のおかげで探窟中の食糧に困窮する事すらなかった。
ただ……食糧の保存性を高めるべく使用する香辛料を、ルトが尽く嫌がった事には少々困らされた。
初日の夕食。捕らえたトカゲ肉を香辛玉仕立てのスープにしようとすれば「ジルオさんそれ辛いから嫌です!棒味噌仕立ての方がいいです!!」と青い顔のルトが必死に止めてきて。
「心配するな。少々ピリ辛にはなるが子どもが食べられぬ程の辛さではない。それに、身体もより温まる」とジルオがルトの意見を聞き入れぬままに香辛玉を溶き入れれば「ぶぇやぁああああああぁぁ?!」と周囲にルトの絶叫が響き渡り……そのまま膝から崩れ落ちたルトの姿は忘れられそうにない。
それでも、焚き火を前に香辛料の効用や必然性を訥々と説けば、ルトは「わかっては、いるんですけど…………でも……でも……辛いです……」と涙目でスープを口にしたのだが。
子どもらしい味覚は微笑ましくもあるが、何れは克服して貰いたい部分でもある。長期に及ぶ探窟では好き嫌いなど言っていられない場合など多々あるのだ。
だが、彼女には食べ物の好き嫌い以外の問題は特に無く……寧ろルトは己が過去に教えてきた子どもたちの中で誰よりも優秀だとジルオは感じ取った。
この一週間でルトは乾いた砂が水を吸い込んでゆくが如くみるみるうちに探窟に関する知識や技術を覚えていった。
特に発想力や手先の器用さは中々のものであり、ナイフの使い方を教えた翌々日に「ジルオさん。これ、狩りに使えますかね?」と自身で削り出した良くしなる丈夫な木の枝と伸縮性のある蔦を組み合わせた手製のスリングショットをルトから見せられた時には素直に感心した。
元より賢い部分のある子ではあるが、それでも目を見張る程の秀逸さだった。
(……流石はライザさんの娘というべきか)
言葉にはせず、ジルオが口元を弛めればそれに気づいたルトが「どうしたんですか?ジルオさん」ときょとりとした眼差しを向けてきた。
「ん?……ルトはやはり君の母上……ライザさんに似ていると思ってな」
「そ、うですか?」
「あぁ。破天荒な部分はあまり似てはいないが」
寧ろ破天荒な内面は姉のリコに引き継がれたか……とジルオは思えどそれは言わずともいい事か、と口をつぐんだ。
ルトはジルオの言葉に「お母さん、」と声を落とす。
「似、て……ますかね?私」
「俺は似ていると思ったが。……そういえば、ルト。君、ピーマンは好きか?」
「ピーマン……ですか?食べ、られなくはないですが……好きか嫌いかで言えば、その……」
えっと……ピーマンって、苦いですし……、とルトが目を泳がせてもごもごと言い淀めばジルオは堪えきれずに小さく噴き出した。
「……ジルオさん?」
「ふふ、……すまんすまん。やはりルトとライザさんは母娘だな。血は争えん」
ガコン、とゴンドラは止まるもジルオのクスクスとした微かな笑い声は止まぬまま。ルトはそんなジルオを不思議そうに眺め、ジルオの後に続いてゴンドラを降りた。
――ルトの母であるライザは、ルトよりも酷い偏食家だった。辛いものは好物だったと記憶しているが、野菜全般が主に苦手で特にピーマンを目の仇にしていた事をジルオははっきりと覚えている。
まだ己が鈴付きだった頃、酔っ払ったライザから『おらおら、もっと食えジルオ~!』と彼女が苦手としていたピーマンばかりをやたらと食べさせられた事は苦くも懐かしき思い出だ。
シーカーキャンプに戻り、荷を解き終えればあっという間に夕刻になっていた。
探窟していた一週間……いや、寧ろシーカーキャンプに戻ってからもずっと元気に見えていたルトだったが、やはり疲労が溜まっていたのだろう。
夕餉の香りが漂う頃には眠たそうに目を擦る仕草が目立ちはじめ……皿がテーブルに並べられ、さぁ食べようか、という頃にはナイフとフォークを握りしめたままルトはこくりこくりと船を漕ぎだし、そうしてそのまま眠りに落ちてしまった。
リコも幼い頃は食事中に突然寝落ちる事が有ったな、とジルオが思えば「久しぶりにルトちゃんが食事中に寝落ちるところを見たのぉ」とザポ爺が口元の笑いジワを更に深くする。
「昔はウトウトしたままスープに顔突っ込んじゃってその衝撃で目を覚ましたりとか、結構有ったっけ」
「懐かしいな。俺はいつかルトが顔面を火傷しやしないかとヒヤヒヤしていたが……おっと、」
「お、シムレドさんナイスキャッチ」
イェルメもシムレドもルトの寝姿を微笑ましく眺めていたのだが、ガクンとルトの頭が前のめりに倒れ込み。ルトの隣に座っていたシムレドが咄嗟に手を出しルトの顔面を受け止めた。
シムレドが優しい声音で「ほら……ルト、起きろ。飯抜きになっちまうぞ」とルトの身体をそっと揺すれど「むぐぅ……ぴーまんは、やですぅ……」とルトは寝ぼけるばかりで目を覚ます気配は無く。
上座にあたる向かいの席で食事をしていたオーゼンは呆れたようなため息を吐くと肉を刺したままのフォークでルトの事を緩慢に指し示した。
「……そこの間抜け面を晒している馬鹿弟子はもう片付けちまいな」
「はは……この様子じゃもう朝まで起きそうにないですしね」
シムレドはオーゼンの言葉にルトの身体をよいせ、と抱えあげる。ジルオがルトへと視線を向ければむにゃむにゃとした口元に光る何か。同じくそれに気づいたイェルメが「何とも油断しきった顔してんなー」と笑いながらルトの口の端から垂れる涎をナフキンで拭った。
ジルオは居室へと運ばれてゆくルトを見やり、ルトが皆に愛されているようで何よりだと目を細める。
――リコや自分と離れてしまったとしても、きっと此方の方が暖かい。同じ暗がりだったとしても、孤児院の地下などよりアビスの闇の方がルトを活かすには最善であり、最適だったのだろう。ジルオは改めてそう思い、己の心に言い聞かせた。本音は――そっと胸の内に押し留めておこう。
夕食を終え、身も清め。後はもう疲れた身体を休めるだけ……と言いたいところでは有ったが、ジルオにはまだ片付けねばならぬ仕事が残っていた。
眠気覚ましの珈琲を啜りつつ、ジルオは探窟報告書にペンを走らせる。――特に目新しい遺物は発見できず、発窟できた量もそれほどではない。だが、初めて遺物を掘り返した時のルトの笑顔はとても喜びに満ちていた。
「これ、初めての記念なので!ジルオさんに差し上げます!」とルトから満面の笑みで差し出されたのは〝姫乳房〟――通称、おっぱい石。名の由来の如くふかふかと柔らかいその遺物の等級は低いものだが、枕代わりに丁度よく……しかしながら主な使い途として挙げられるのは所謂〝慰み〟の供である。
まぁ、それは年端も行かぬ少女にわざわざ説明すべき事では無いだろう、そう思いつつ礼を述べジルオが姫乳房を受け取れば「そういえば、これ……ノラさんがとても良いおかずになるって言ってたんですが、食べられるんですか?」とルトから純粋な瞳で見つめられ――ジルオは顔を引き攣らせながら地上に帰ったら先ずはあの軽率な兄貴分に拳骨を食らわせると固く誓った。
「ふぅ…………」
書類の記入を一通り終えてジルオは大きく息を吐く。すると、音も無く重々しい影が頭上に落ちてきた。
「…………不動卿」
「雑務を終えたなら、一杯どうだい?」
顔を上げれば口元に弧を描くオーゼンの姿。ジルオは苦笑いを浮かべつつも「……ありがとうございます」とオーゼンから差し出されたグラスを受け取った。
トポリ、と注がれたのは琥珀色の液体。無言の圧で促され、否応なしに口に含めば甘苦くビリビリとした刺激が舌に走り、喉を通せば身体が灼けるように熱くなる。これは――随分と度数の高い酒だ。
「君の師匠が好んでいた酒だよ。どうだい?美味かろう?」とオーゼンはニタニタとした笑みを浮かべるが、ジルオは「む……、」と顔を顰めて唸る事しかできず……これを浴びるように飲んでいたライザの味覚は正直理解しがたい。
オーゼンは明らかに飲み慣れていない様子のジルオの姿に「……これは良い酒のアテだねェ」とククッと喉を鳴らし、グラスの中身を一気に煽った。
「で。君……あの馬鹿弟子を引率してみてどうだったかね?」
「馬鹿弟子だなんてそんな。……ルトは驚く程に優秀でしたよ。寧ろ……俺の方が己の未熟さを思い知らされたくらいです」
ジルオはこの一週間でのルトの様子を掻い摘んでオーゼンに語る。オーゼンは「フゥン」と空になった己のグラスに酒を注ぎ、闇よりも暗い瞳でジルオの瞳を見据えた。
「あの子は特殊だから君も随分と楽が出来たろ」
オーゼンの言葉にジルオは言葉を詰まらせる。
どう応えるべきか、と案じる前にジルオの脳裏に浮かんだのは一つの問いだった。
「……不動卿。ルトの感じ取っているモノの正体とは一体何なのでしょう」
「さぁねェ。それは私にも見えないモノだからわかりようがないさ。ただ、」
「ただ?」
「それは間違いなくアビスの呪いがもたらした変容なんだろうよ。どこぞのろくでなしはそれを〝祝福〟などとのたまっていたがね」
――祝福。
誰がそう表したのかは知らぬが――何と皮肉めいた表現だろうか。
「俺には――とても祝福などとは思えませんが」
「それは君が決める事じゃ無かろうよ。アレがどう受け止めてどう活かすかで決まる事さ」
「…………。」
「まぁ、アレが呪いに生かされ、呪いに愛されているのは確かだろうよ。――現に、アレはアビスの呪いすら捩じ伏せる」
「……え?」
「何だ、君は気づいちゃいなかったのかい?」
言われてジルオはふと気づく。――探窟に至る道筋は平坦な場所を選びとった故に上昇負荷はかからなかったが……シーカーキャンプへと昇るゴンドラ。あれは否応なしに二層での上昇負荷を味わう代物だ。それは――子どもに耐えうる負荷では無かった筈なのに、ルトは平然としたままゴンドラに乗っていた。
「言ったろう?探窟はさせちゃいなかったが、ここいらの散歩くらいはさせていたと。――ま、二層以降の呪いはどうだか知らんがね」
あぁ、そうだ。君の研修ついでにアレを大断層に吊るして三層以降の呪いの影響をアレが受けるかどうかを調べてみるのもまた一興かね、とオーゼンは嗤うが、流石にそれは洒落にならないと思ったジルオは「やめてください!」と顔を青くして拒んだ。
「冗談さァ。流石の私も嗜虐趣味は持ち合わせてないからねェ?――ところで君。グラスの中身が減ってないように見えるんだけど……口に合わなかったかい?」
オーゼンの口元は三日月を描けど、その深淵の瞳は笑っていないように見えて。「いえ……そんなことは、」とジルオは慌ててグラスに口をつける。――明日からは己自身の過酷な研修が控えている。夜通し飲まされて酔い潰されるような事だけは勘弁願いたいが……果たしてそれは避けられるのだろうか。