第一章
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木々に凭れて座り込み、ルトと他愛の無い雑談に興じつつ身体を休めれば自身の中の度し難い熱はいつの間にやら収まって。
張り詰めていた欲望も今や大人しく、普段通りの形状になっている。
平常心を取り戻した事を実感したジルオはフゥ、と大きく息を吐き出すと「さて、」と身体を起こし、立ち上がった。
「……もう充分に休んで毒も抜けた。そろそろ行くか、ルト」
「はい!!」
「君が行ってみたい、と言った場所は……あちらの方角か」
ジルオは地図を開き、改めて進路の確認をする。
ルトが行きたいと望んだ場所はここから凡そ一キロメートル先にある水源地。そこには澄んだ水源にのみ棲息する光虫――ロウハナが群れをなしている。ルトはきっとそれを見てみたかったのだろう。二層の暗闇にて煌々と水源を照らすロウハナ達の光は幻想的であり、赤紫色に煌めく光景は見る者全ての瞳を魅了する程に美しい。
但し、そこには少々厄介な原生生物が棲息する可能性も非常に高い。勿論、対策は練っているが、それでもしっかりと気を引き締めねばな……とジルオは改めて手元の装備品の確認をした。閃光弾数発、煙幕数発、爆裂弾数発……これだけあればその原生生物と出会っても逃げ出すだけの時間は稼げるだろう。
そうして、いざ目的地へとジルオが足を向けようとすれば「待ってください、ジルオさん」とルトの手がジルオの服の裾を引き、それを阻んだ。
「……どうした?」
「えっと……そっちの方角……今行くのは良くない、です」
「??どういう事だ?」
「何か……おっきいのが、居ます。狩りを生業にしている方たちや、シムレドさん達がたまに狩ってくる、オットバスかな……?何か……凄く気が立ってる感じもする……えーっと、だいたい一キロメートルくらい、先……ですかね」
「は……?」
思わぬルトの言葉にジルオは目を丸くする。
オットバス――それは二層に潜み水源地に住まう大型の原生生物の名であり、今まさにジルオが警戒していた原生生物の名だ。危険度はそこそこに高く、迂闊に近寄れば人一人くらい容易く丸飲みにしてしまう。
しかしながら……一キロメートルも離れた先にいるオットバスの気配など、ジルオには微塵も感じとれない。
「ルト。君はなぜそう感じるんだ?」
「こう……もゎもゎとしたのが、教えてくれるんです」
「…………もわもわ?」
「んと……教えてくれる、と言いますか……もゎもゎから伝わってくる、と言いますか……」
靄がかかったような口調でルトは懸命に説明しようとするも、それを言葉にするには少々難しいようで。
それでもルトは頑張ってその〝感覚〟を伝えようと言葉を紡ぐ。
「ほんとに何となくなんですが。……肌でわかるんです。目で視るよりも、ハッキリと。さっきのタオラートも、それで気づいたんです」
……言われてみれば。ルトは初めての探窟だというのに、そのほんの僅かな気配をすかさず察知していた。
それなりに多くの探窟の数をこなし〝師範代〟としての月笛を所持している己よりもずっと早くだ。
「この辺りはシーカーキャンプよりもゎもゎがハッキリしてるので……特にわかりやすいです。それに……私、ジルオさんや他の人がシーカーキャンプに来た時も、もゎもゎで誰が来たのかわかるんです」
ルトの言葉に気付かされる事実。
確かに、ルトは自身がシーカーキャンプに訪れる度に自分の予想より遥かに素早く出迎えてくれていた気がする。それも、ルトが幼い頃――彼女がまだ見張り番としての業務を行っていなかったずっと前からだ。
それにしても、もゎもゎとは……ルトが繰り返し口にするそれは一体何なのか。そうジルオが思案すれば「……あれ?」とルトが唐突に小さな声を上げた。
「??どうかしたか?」
「何か……おっきいのが動かなくなって……気配……違う、命……生命力が弱まってきてる……?どうしたんだろ……??」
むむ、とルトは眉間に皺を寄せて考え込む。
だが……相変わらずジルオには何も感じ取れない。一体――彼女は何を感じ取っているというのか。
「うーん……。とりあえず、おっきいの以外の気配は無い、ですし……そっちに行っても、もう大丈夫……ですかね」
言いながら一人先へ向かおうとするルトの腕をジルオは「ま、待て!」と慌てて引っ掴んだ。
ルトはその勢いと力強さに驚いたのか「……ジルオさん?」と名を呼びながら振り返る。
「あ、あぁ、いや。……君の言葉を疑っている訳では無い。寧ろ……信用している。だからこそ、ここはより慎重に其方へ向かおう」
――ジルオとて一端の探窟家。根拠や確証が無くともそういった〝勘〟が馬鹿に出来ない事を良く知っている。現に――兄貴分のノラなどは己より遥かに勘が良く、ジルオは彼に幾度と無く助けられた経験がある。
だからこそ……ここで慢心するなどもってのほかだ。
「念の為、ルトにも煙幕を渡しておく。危ないと思ったらこれをすかさず投げつけてその隙に逃げろ。いいな?」
ジルオの凛とした眼差したるやまさしく〝師範代〟としてのそれで。沈着冷静且つ簡潔にジルオは万が一に備えての教えを示す。
ルトもジルオの真摯たる態度に応じるかの如く真剣な顔で「……はい、わかりました」と一度だけ深く頷いた。
警戒に警戒を重ね辿り着いた水源地。
それは、泉そのものが光を放っているかのようにも思える光景だった。
揺らめく水面に反射する明かりは淡く滲み、赤みを帯びた紫色の光彩は柔らかくその闇を照らし出す。
ロウハナ達が描く艶やかな光の筋に目を奪われたルトはその玲瓏たる光景にただ一言「…………綺麗……」と感嘆の声を口にした。
「…………俺も幾度となく見てきた景色ではあるが……何度見ても美しいものは美しいな」
「私……ロウハナを見るなら、一番最初にジルオさんと見れたらな、って思っていたんです」
「……俺と?」
「はい。……私が見られる一番綺麗な景色って、今はまだ、ここしか知らないですから」
……勿論、更に深層まで潜ればここよりも綺麗な場所があるかもしれませんけど、とルトは更に言葉を続ける。
「私は、今の私が見る事の出来る一番綺麗な景色を、誰よりも一番好きな人と見てみたかったんです。ジルオさん」
サラリと。至極自然に告げられたその言葉に、向けられた笑顔に、ジルオの鼓動が高鳴った。
……何故だろう。煌々と煌めくロウハナ達よりも、今はルトから向けられた笑みの方が眩く思えてしまい、目が眩みそうだ。
頬にも熱が上り、もう抜けきった筈の媚薬ガスによる火照りを再び味あわされているような錯覚にさえ陥って。
だがしかし……この感覚は何処かこそばゆくも不快感は無い。いや、寧ろ。
「そ、うか……。そう、だな。俺も……この光景をルトと見る事が出来て、嬉しく思う」
ルトから向けられた好意に対して、ジルオは素直な気持ちを口に出した。
胸の内側から溢れる熱はまるで日向のような温かさを持ち、甘やかな何かが自身を満たしてゆく。
泉のように湧き上がる感情の正体はわからない。だが――彼女に特別な思い出を与えられた事、それは己にとっても途轍もなく大きな喜びだ。
「そういえばだが……結局この周辺にはオットバスの姿は無かったな」
言いながらジルオは水源の周囲をルトと共に探る。……いや、痕跡は確かに点在する。よくよく地面を観察すればそこには糞や餌の食べ残しがあり、確かにこの水源に棲う主が居た事を知らしめているのだが。
「……あ。それでしたら、こっちの方角ですジルオさん。……ただ、もう……命の気配は殆どないんですが」
ルトはジルオの手を引き、水源地から少々離れた奥地へと迷いなく導いてゆく。ジルオは警戒を怠らぬままルトに手を引かれ――時間にして五分程歩いただろうか。
二人は一枚の立て札に気がついた。そこには奈落文字で〝警告:罠に注意〟と大きく記されている。
「罠?」
「…………これは……猟師が獲物を罠にかける際に使う警告用の札だな。他の探窟家や猟師が罠にかからぬように警告しているんだ」
ルトへと説明しながらジルオは札に書かれた内容の詳細をしっかり確認する。仕掛けられている罠は一つ。所謂トラバサミ式の罠であり、きっちりと罠の場所も記されている。――組合番号も記載されているという事は密猟者の類ではなさそうだ。
そうして更に木々や草々を掻き分け、道無き道を二人で歩めば――それはいきなり姿を表した。
「………………驚いたな」
二人の眼前には罠にかかり息も絶え絶えなオットバスの姿が。
ルトの言葉を、感覚を、信じていない訳では無かった。しかし、実際にこの目で見ると……どうしても驚きを禁じ得ない。
「……あ。ジルオさん、私……わかりました」
「……何がだ?」
「あのオットバス、凄く気が立っているって私、言いました……よね?」
「あぁ、言っていたな」
「あれ……オットバスが罠から逃げ出そうとして怒ってたんじゃないですかね……?」
ルトの言葉にジルオは思わず息を飲んだ。
彼女が感じ取っているモノ。肌でわかると言ったソレ。その正体が何かはわからないが――ジルオが知りうる凄腕の探窟家達――それは己の師匠である〝殲滅卿〟やルトの師匠である〝不動卿〟も含め、そんな鋭敏な感覚を持ちうる探窟家などそう居ないのではなかろうか。
まるで奈落に愛されたかの如くルトの中に秘められた才覚。それにジルオは驚嘆を隠せなかった。
「ルト……君には奈落で生き抜く才能がある。ルトは俺が思っている以上に探窟家に向いているのかもしれんな」
ポロッと口を吐いて出た言葉は、ジルオにとっては褒め言葉のつもりだった。――だが、しかし。
「ジルオさん…………私、良くわからないモノを感じる肌よりも……地上で、オースで……お日様の下で、リコやジルオさんと遊んだり勉強したりできる普通の皮膚が欲しかった、です」
それを受けたルトの口からポツリと零れ落ちたのは、けして叶わぬ切なる願い。
ルトの皮膚は、肌は。陽光を浴びれば焼け、地上で生きる事は許されない。
彼女は奈落の中でしか生きられず、如何にそれが奈落において恵まれた才能であろうと本人が望まぬならそれは呪いでしかない。――いや、寧ろ呪いそのものだ。
何故、その事を失念していたのか。ジルオは絞り出すような声で「…………すまない」と謝罪の言葉を落とす。
「……いえ、私こそすいません……今更、こんな事を言ったって、どうにもならないのに」
眉根を下げた彼女から返されたのは諦観漂う言動で。
幼い彼女にそんな表情をさせた事が、そんな事を言わせた事が許せず、しかしそれをどう取り繕えば良いのかもわからず。
迂闊すぎる失言だった。ルトは……望んで此処で暮らしている訳ではないというのに。自分はそれを知っていたというのに。
肺の中の空気が重く、口の中の唾液がやたらと苦く感じる。
何が師範代だ。何が指導者だ。俺は……まだまだ未熟者だと思い知らされた気がしてジルオは拳をキツくキツく握り込む。
「……っ、…………っ、」
苦々しい顔のまま、延々とジルオが黙り込めばルトからギュッと手を握られて。
力強いその感触にジルオはハッと我に返る。
「?…………ルト?」
「ジルオさん……私、探窟家に向いてるって言われても、まだ探窟をした事はないんです!」
「…………?」
「だから!ジルオさんがちゃんと〝探窟〟を教えて下さい!」
「!!」
――そうだ。そうだった。
探窟はこれからが本番であり、己はまだ何一つルトに探窟の技術を教えていない。
それに、だ。……何よりもこれ以上彼女に気を使わせては、それこそ大人としての、月笛としての面目が丸潰れだ。
「すまん……ルトの言う通り、だな。それが俺の大事な仕事であり、大切な役割だ。……だが、覚悟はするように。俺の指導は厳しいぞ?」
ジルオは己に発破をかけるかのようにニヤリとした笑みを浮かべ、探窟帽越しにルトの頭を撫でてやる。
ルトはそんなジルオの言葉を受け「はい!」とハリのある声で応えた。
張り詰めていた欲望も今や大人しく、普段通りの形状になっている。
平常心を取り戻した事を実感したジルオはフゥ、と大きく息を吐き出すと「さて、」と身体を起こし、立ち上がった。
「……もう充分に休んで毒も抜けた。そろそろ行くか、ルト」
「はい!!」
「君が行ってみたい、と言った場所は……あちらの方角か」
ジルオは地図を開き、改めて進路の確認をする。
ルトが行きたいと望んだ場所はここから凡そ一キロメートル先にある水源地。そこには澄んだ水源にのみ棲息する光虫――ロウハナが群れをなしている。ルトはきっとそれを見てみたかったのだろう。二層の暗闇にて煌々と水源を照らすロウハナ達の光は幻想的であり、赤紫色に煌めく光景は見る者全ての瞳を魅了する程に美しい。
但し、そこには少々厄介な原生生物が棲息する可能性も非常に高い。勿論、対策は練っているが、それでもしっかりと気を引き締めねばな……とジルオは改めて手元の装備品の確認をした。閃光弾数発、煙幕数発、爆裂弾数発……これだけあればその原生生物と出会っても逃げ出すだけの時間は稼げるだろう。
そうして、いざ目的地へとジルオが足を向けようとすれば「待ってください、ジルオさん」とルトの手がジルオの服の裾を引き、それを阻んだ。
「……どうした?」
「えっと……そっちの方角……今行くのは良くない、です」
「??どういう事だ?」
「何か……おっきいのが、居ます。狩りを生業にしている方たちや、シムレドさん達がたまに狩ってくる、オットバスかな……?何か……凄く気が立ってる感じもする……えーっと、だいたい一キロメートルくらい、先……ですかね」
「は……?」
思わぬルトの言葉にジルオは目を丸くする。
オットバス――それは二層に潜み水源地に住まう大型の原生生物の名であり、今まさにジルオが警戒していた原生生物の名だ。危険度はそこそこに高く、迂闊に近寄れば人一人くらい容易く丸飲みにしてしまう。
しかしながら……一キロメートルも離れた先にいるオットバスの気配など、ジルオには微塵も感じとれない。
「ルト。君はなぜそう感じるんだ?」
「こう……もゎもゎとしたのが、教えてくれるんです」
「…………もわもわ?」
「んと……教えてくれる、と言いますか……もゎもゎから伝わってくる、と言いますか……」
靄がかかったような口調でルトは懸命に説明しようとするも、それを言葉にするには少々難しいようで。
それでもルトは頑張ってその〝感覚〟を伝えようと言葉を紡ぐ。
「ほんとに何となくなんですが。……肌でわかるんです。目で視るよりも、ハッキリと。さっきのタオラートも、それで気づいたんです」
……言われてみれば。ルトは初めての探窟だというのに、そのほんの僅かな気配をすかさず察知していた。
それなりに多くの探窟の数をこなし〝師範代〟としての月笛を所持している己よりもずっと早くだ。
「この辺りはシーカーキャンプよりもゎもゎがハッキリしてるので……特にわかりやすいです。それに……私、ジルオさんや他の人がシーカーキャンプに来た時も、もゎもゎで誰が来たのかわかるんです」
ルトの言葉に気付かされる事実。
確かに、ルトは自身がシーカーキャンプに訪れる度に自分の予想より遥かに素早く出迎えてくれていた気がする。それも、ルトが幼い頃――彼女がまだ見張り番としての業務を行っていなかったずっと前からだ。
それにしても、もゎもゎとは……ルトが繰り返し口にするそれは一体何なのか。そうジルオが思案すれば「……あれ?」とルトが唐突に小さな声を上げた。
「??どうかしたか?」
「何か……おっきいのが動かなくなって……気配……違う、命……生命力が弱まってきてる……?どうしたんだろ……??」
むむ、とルトは眉間に皺を寄せて考え込む。
だが……相変わらずジルオには何も感じ取れない。一体――彼女は何を感じ取っているというのか。
「うーん……。とりあえず、おっきいの以外の気配は無い、ですし……そっちに行っても、もう大丈夫……ですかね」
言いながら一人先へ向かおうとするルトの腕をジルオは「ま、待て!」と慌てて引っ掴んだ。
ルトはその勢いと力強さに驚いたのか「……ジルオさん?」と名を呼びながら振り返る。
「あ、あぁ、いや。……君の言葉を疑っている訳では無い。寧ろ……信用している。だからこそ、ここはより慎重に其方へ向かおう」
――ジルオとて一端の探窟家。根拠や確証が無くともそういった〝勘〟が馬鹿に出来ない事を良く知っている。現に――兄貴分のノラなどは己より遥かに勘が良く、ジルオは彼に幾度と無く助けられた経験がある。
だからこそ……ここで慢心するなどもってのほかだ。
「念の為、ルトにも煙幕を渡しておく。危ないと思ったらこれをすかさず投げつけてその隙に逃げろ。いいな?」
ジルオの凛とした眼差したるやまさしく〝師範代〟としてのそれで。沈着冷静且つ簡潔にジルオは万が一に備えての教えを示す。
ルトもジルオの真摯たる態度に応じるかの如く真剣な顔で「……はい、わかりました」と一度だけ深く頷いた。
警戒に警戒を重ね辿り着いた水源地。
それは、泉そのものが光を放っているかのようにも思える光景だった。
揺らめく水面に反射する明かりは淡く滲み、赤みを帯びた紫色の光彩は柔らかくその闇を照らし出す。
ロウハナ達が描く艶やかな光の筋に目を奪われたルトはその玲瓏たる光景にただ一言「…………綺麗……」と感嘆の声を口にした。
「…………俺も幾度となく見てきた景色ではあるが……何度見ても美しいものは美しいな」
「私……ロウハナを見るなら、一番最初にジルオさんと見れたらな、って思っていたんです」
「……俺と?」
「はい。……私が見られる一番綺麗な景色って、今はまだ、ここしか知らないですから」
……勿論、更に深層まで潜ればここよりも綺麗な場所があるかもしれませんけど、とルトは更に言葉を続ける。
「私は、今の私が見る事の出来る一番綺麗な景色を、誰よりも一番好きな人と見てみたかったんです。ジルオさん」
サラリと。至極自然に告げられたその言葉に、向けられた笑顔に、ジルオの鼓動が高鳴った。
……何故だろう。煌々と煌めくロウハナ達よりも、今はルトから向けられた笑みの方が眩く思えてしまい、目が眩みそうだ。
頬にも熱が上り、もう抜けきった筈の媚薬ガスによる火照りを再び味あわされているような錯覚にさえ陥って。
だがしかし……この感覚は何処かこそばゆくも不快感は無い。いや、寧ろ。
「そ、うか……。そう、だな。俺も……この光景をルトと見る事が出来て、嬉しく思う」
ルトから向けられた好意に対して、ジルオは素直な気持ちを口に出した。
胸の内側から溢れる熱はまるで日向のような温かさを持ち、甘やかな何かが自身を満たしてゆく。
泉のように湧き上がる感情の正体はわからない。だが――彼女に特別な思い出を与えられた事、それは己にとっても途轍もなく大きな喜びだ。
「そういえばだが……結局この周辺にはオットバスの姿は無かったな」
言いながらジルオは水源の周囲をルトと共に探る。……いや、痕跡は確かに点在する。よくよく地面を観察すればそこには糞や餌の食べ残しがあり、確かにこの水源に棲う主が居た事を知らしめているのだが。
「……あ。それでしたら、こっちの方角ですジルオさん。……ただ、もう……命の気配は殆どないんですが」
ルトはジルオの手を引き、水源地から少々離れた奥地へと迷いなく導いてゆく。ジルオは警戒を怠らぬままルトに手を引かれ――時間にして五分程歩いただろうか。
二人は一枚の立て札に気がついた。そこには奈落文字で〝警告:罠に注意〟と大きく記されている。
「罠?」
「…………これは……猟師が獲物を罠にかける際に使う警告用の札だな。他の探窟家や猟師が罠にかからぬように警告しているんだ」
ルトへと説明しながらジルオは札に書かれた内容の詳細をしっかり確認する。仕掛けられている罠は一つ。所謂トラバサミ式の罠であり、きっちりと罠の場所も記されている。――組合番号も記載されているという事は密猟者の類ではなさそうだ。
そうして更に木々や草々を掻き分け、道無き道を二人で歩めば――それはいきなり姿を表した。
「………………驚いたな」
二人の眼前には罠にかかり息も絶え絶えなオットバスの姿が。
ルトの言葉を、感覚を、信じていない訳では無かった。しかし、実際にこの目で見ると……どうしても驚きを禁じ得ない。
「……あ。ジルオさん、私……わかりました」
「……何がだ?」
「あのオットバス、凄く気が立っているって私、言いました……よね?」
「あぁ、言っていたな」
「あれ……オットバスが罠から逃げ出そうとして怒ってたんじゃないですかね……?」
ルトの言葉にジルオは思わず息を飲んだ。
彼女が感じ取っているモノ。肌でわかると言ったソレ。その正体が何かはわからないが――ジルオが知りうる凄腕の探窟家達――それは己の師匠である〝殲滅卿〟やルトの師匠である〝不動卿〟も含め、そんな鋭敏な感覚を持ちうる探窟家などそう居ないのではなかろうか。
まるで奈落に愛されたかの如くルトの中に秘められた才覚。それにジルオは驚嘆を隠せなかった。
「ルト……君には奈落で生き抜く才能がある。ルトは俺が思っている以上に探窟家に向いているのかもしれんな」
ポロッと口を吐いて出た言葉は、ジルオにとっては褒め言葉のつもりだった。――だが、しかし。
「ジルオさん…………私、良くわからないモノを感じる肌よりも……地上で、オースで……お日様の下で、リコやジルオさんと遊んだり勉強したりできる普通の皮膚が欲しかった、です」
それを受けたルトの口からポツリと零れ落ちたのは、けして叶わぬ切なる願い。
ルトの皮膚は、肌は。陽光を浴びれば焼け、地上で生きる事は許されない。
彼女は奈落の中でしか生きられず、如何にそれが奈落において恵まれた才能であろうと本人が望まぬならそれは呪いでしかない。――いや、寧ろ呪いそのものだ。
何故、その事を失念していたのか。ジルオは絞り出すような声で「…………すまない」と謝罪の言葉を落とす。
「……いえ、私こそすいません……今更、こんな事を言ったって、どうにもならないのに」
眉根を下げた彼女から返されたのは諦観漂う言動で。
幼い彼女にそんな表情をさせた事が、そんな事を言わせた事が許せず、しかしそれをどう取り繕えば良いのかもわからず。
迂闊すぎる失言だった。ルトは……望んで此処で暮らしている訳ではないというのに。自分はそれを知っていたというのに。
肺の中の空気が重く、口の中の唾液がやたらと苦く感じる。
何が師範代だ。何が指導者だ。俺は……まだまだ未熟者だと思い知らされた気がしてジルオは拳をキツくキツく握り込む。
「……っ、…………っ、」
苦々しい顔のまま、延々とジルオが黙り込めばルトからギュッと手を握られて。
力強いその感触にジルオはハッと我に返る。
「?…………ルト?」
「ジルオさん……私、探窟家に向いてるって言われても、まだ探窟をした事はないんです!」
「…………?」
「だから!ジルオさんがちゃんと〝探窟〟を教えて下さい!」
「!!」
――そうだ。そうだった。
探窟はこれからが本番であり、己はまだ何一つルトに探窟の技術を教えていない。
それに、だ。……何よりもこれ以上彼女に気を使わせては、それこそ大人としての、月笛としての面目が丸潰れだ。
「すまん……ルトの言う通り、だな。それが俺の大事な仕事であり、大切な役割だ。……だが、覚悟はするように。俺の指導は厳しいぞ?」
ジルオは己に発破をかけるかのようにニヤリとした笑みを浮かべ、探窟帽越しにルトの頭を撫でてやる。
ルトはそんなジルオの言葉を受け「はい!」とハリのある声で応えた。