第一章
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「ジルオさ、ん……、」
凭れる身体はずしりと重く、果たされた約束は苦いものであった。
ジルオが気を失う寸前に紡いだ母の名前。それが棘のようにルトの胸に深々と突き刺さり、心臓を凍てつかせる。
……薄々思ってはいたのだ。この青年が自分の事を気にかけているのは、自分が〝殲滅卿〟の娘だからではないかと。母がジルオの師でなければ、自分は目もかけてもらえなかったのでは、と。
ジルオが、自分を通して見ているのは……今は底にいるという母の姿なのだろうか。
小さな背中は悲壮感に満ち溢れ。傍らに居たイェルメは「……ルトちゃん。ジルオ、重たいんじゃないん?」とそっと彼女を気遣う言葉をかけた。
ルトはイェルメに大丈夫です、と応えようとするも、言葉は何故か喉につかえたまま声にはならず……森閑たる空気がただ流れゆき。イェルメは表情を曇らせたままのルトを宥めようと頭を軽くぽふぽふ叩く。
「ルトちゃんが離れたくないってのも分かるんだけどさ。そのままでいてもしょうがないじゃん?」
「……、…………。」
「それに。ジルオの事、キャンプに運んで寝かせてやった方がジルオの身体も休まると思うよ」
イェルメに諭されてルトの気持ちが揺らぐ。
……彼から離れ難い気持ちは事実だ。だが――このままでいたところで現実は何も変わらない。傍にいたところで自分には何も出来ない。そんな事は――分かりきっている。
「、っ」
ルトは一度だけぎゅぅとジルオの身体をキツく抱きしめ、ゆっくりとイェルメへ視線を向けた。
「です、ね……ですよね、イェルメさん。私じゃジルオさんを運べないので……後はイェルメさんにお願いしてもいいですか?私は……その、ご飯作りのお手伝いをしてきますので」
浮かべられた微笑には幼さに似合わぬ諦念が入り混じり。
こりゃジルオの所為で随分としょっぱい飯になっちまいそうだなー……と思いつつ、イェルメはジルオの身体を引き摺り、キャンプへと運び込んだ。
目覚めた時には金色の豊かな波も、小さなひだまりも存在していなかった。
混濁する記憶。自分がキャンプ内に寝かされているという事は、あの大断層を登りきったという事だろうとは思うのだが……。
「……、……。」
重たい頭を抱え、無言のままにジルオが身を起こせば空腹を誘う芳ばしい棒味噌の匂いがふわりと鼻腔を擽った。
その匂いに誘われるようにしてフラフラとテントの外へ出れば焚き火にあたるルトの姿が見え。一瞬、パチリと視線がかち合ったのだが、その視線はふぃっと外されてしまい……どこか感じるよそよそしさに首を捻れば「なんだー?ジルオやっと起きたかー」とイェルメに声をかけられて、小声でヒソッと問いをぶつけられた。
「ジルオさ、壁を登り終えた後の事って覚えてるん?」
「いえ……。情けない事に幻覚に飲まれてしまって…………少々記憶があやふやになっておりまして」
ジルオの言葉にイェルメは「あー、やっぱりかぁ」と苦笑いを零す。
自分は……何か不味い事をしてしまったのだろうか。ジルオの胸に一抹の不安が過ぎる。
「お前さ、壁を登り切ったあと、ルトちゃんに倒れこんでライザさんの名前呼んだんだよね」
言われて、僅かながらに蘇る記憶。
そうだ――己は幻覚の中でもう二度とは会えぬであろう煌めきに溺れ、惑わされて……。
「ま、ルトちゃんはライザさんの娘だし?確かに似てはいるんだろうけどさー……感動の再会で名前呼び間違えちゃうのはちょっと無いんじゃないん?」
「…………。」
「兎も角さ、俺のかわいい妹分慰めてやってよ。ルトちゃん、だいぶそれで落ち込んでるみたいだからさ」
イェルメに背中をばしばし叩かれ、ジルオの口から「あ、はい、」と少々狼狽えた返事が漏れた。
しかし……ルトが落ち込んでるというのは遠巻きにでも見て取れるのだが、慰めるとはどうすればいいのだろうか。ジルオは「むむ、」と眉を顰めて考え込むもこのまま立ち尽くしていてもどうにもならぬか……とルトのいる方へ足を向けた。
そうして「ルト……隣いいか?」と伺えば「は、はい。ど、どうぞ」と若干固い声で返事が返されて。ジルオはどかりとルトの隣に腰を下ろす。
しかし……隣に座ったはいいが何をどう取り繕うべきなのか。
言葉は浮かばぬままパチパチと焚き火の爆ぜる音ばかりがやたらと耳に届く。
「あ、えと……ジルオさん。三層研修、お疲れ様でした」
そんな中、先に沈黙を破ったのはルトの方だった。
更には「その、お腹、空いてますよね?……ネリタンタンの棒味噌スープ、出来てます」とスープをよそって手渡され。ジルオは「あ、あぁ……ありがとう、ルト」と礼を述べ、ほこほこと湯気を立てる器を受け取った。
彼女を気遣わねばならぬのはこちらだというのに却って気を遣わせてしまったな……と思いつつジルオがスープに口をつければ優しい味わいが口内に広がって五臓六腑に旨味が染み渡る。
「……君には少々みっともない姿を晒してしまったみたいだな。……すまない」
スープの熱が緊張を取り払ったのか、ジルオの口から素直な言葉がポロリと零れ落ち。ルトは思わぬジルオの言葉に「え!いえ、その……!みっともない、なんて……そんな、事は……」と語尾を窄ませつつ慌てふためいた。
「気を使わなくてもいい。本当の事だ。……俺もまさかあのような幻に飲まれるとは思いもしなかった」
「幻…………、」
ジルオの見た幻――それは母の姿だとルトは認識していた。
幻にまで見る自身の母――ジルオにとっての師匠……〝殲滅卿〟とはどんな存在だったのだろう。
母は、自身が二歳の時に絶界行を果たしてしまった。故にルトの記憶に母の姿はない。母の師であり自身の師でもある不動卿・オーゼンに話を聞いた事もあるが、その師ですら母の事は多くは語ってくれないのだ。
だからこそ……ルトはジルオへと問いかけてしまった。
「……あの、ジルオさん……私のお母さんって、どんな人だったんですか?」
ルトの問いかけに「……ライザさんか?」とジルオは聞き返し、ルトはこくりと小さく頷きを返す。
「そうだな……一言で言うとするなら、敵わない憧れとでも言うべきか……」
「憧れ……、」
ライザを〝憧れ〟と呼ぶジルオの声音は何とも言えないまろやかさを秘め、敬慕と傾慕がちらりと覗くその表情はルトが初めて目にするモノだった。
ジルオはライザとの思い出話を滔々と語る。……自分と兄貴分を無理矢理に弟子にした日の事、度を越した悪戯の所為で最高峰の白笛だというのにライザの親友である黒笛の女性から裸吊りにされていたという話、酒場に連れてかれてはライザの苦手な食べ物ばかりを食べさせられていた事――。
ルトは生き生きとした描写で紡がれる母の話に耳を傾けながらジルオの瞳をちら、と盗み見る。
蒼い瞳は言葉よりもずっと雄弁で……ジルオの眼差しが語る想いに胸がざわついて仕方がない。
「……ジルオさん、お母さんの事が大好きだったんですね」
唇が震えて呟きが落ち。
それを拾い上げたジルオは「ん?」と目を丸くした。
「好き、か……そうだな。……君が不動卿を好いているように、俺もライザさんを好いてはいたな」
好意と好意のズレに気付かぬまま、ジルオはさらりと言ってのける。
浮かべられた笑みはふわりと柔らかく温かで……だが、それは自分に向けられている笑みではないのだろうとルトは感じ取った。
その微笑みを、自分にも向けて欲しくて。向けられたくて。ルトはジルオの目をじっと見つめて口を開く。
「ジルオさん。……もし、もしも、ですよ?私がお母さんのようになれたのなら……、」
私の事、もっと、ずっと、好きになってくれますか?と言いかけた言葉は口の中でもやりと溶けた。
拒否が、拒絶が怖かった。ルトはふるふると首を横に振り「……いえ、何でもないです」と無理矢理に言葉を濁す。
母親のようになれたのなら……、ルトは何を言いたかったのだろうか。濁された言葉の向こう側を、ジルオは察する事が出来ず。
それでも……ルトが何かを求めているように思えたジルオは打ち消された問いかけと真剣に向き合って口を開く。
「ルトは……確かにライザさんに似た部分もあるが……。ライザさんと君は違う人間だろう?」
想いが見えないなりに出した答えを口にして、ジルオは日向の髪をくしゃりと撫でた。
――この子は、己の師を、母親を超えてゆける可能性を秘めている。そう思っての言葉だった。
「……君は君であり、ライザさんはライザさんだ」
ジルオの言葉に「私は私、ですか……」と返してルトは不覚にも気づいてしまった。
――母と自分は違う人間。ジルオはそう言い切った。だからこそ……あの眼差しを自分が得る事は叶わないのではないか、と。
凭れる身体はずしりと重く、果たされた約束は苦いものであった。
ジルオが気を失う寸前に紡いだ母の名前。それが棘のようにルトの胸に深々と突き刺さり、心臓を凍てつかせる。
……薄々思ってはいたのだ。この青年が自分の事を気にかけているのは、自分が〝殲滅卿〟の娘だからではないかと。母がジルオの師でなければ、自分は目もかけてもらえなかったのでは、と。
ジルオが、自分を通して見ているのは……今は底にいるという母の姿なのだろうか。
小さな背中は悲壮感に満ち溢れ。傍らに居たイェルメは「……ルトちゃん。ジルオ、重たいんじゃないん?」とそっと彼女を気遣う言葉をかけた。
ルトはイェルメに大丈夫です、と応えようとするも、言葉は何故か喉につかえたまま声にはならず……森閑たる空気がただ流れゆき。イェルメは表情を曇らせたままのルトを宥めようと頭を軽くぽふぽふ叩く。
「ルトちゃんが離れたくないってのも分かるんだけどさ。そのままでいてもしょうがないじゃん?」
「……、…………。」
「それに。ジルオの事、キャンプに運んで寝かせてやった方がジルオの身体も休まると思うよ」
イェルメに諭されてルトの気持ちが揺らぐ。
……彼から離れ難い気持ちは事実だ。だが――このままでいたところで現実は何も変わらない。傍にいたところで自分には何も出来ない。そんな事は――分かりきっている。
「、っ」
ルトは一度だけぎゅぅとジルオの身体をキツく抱きしめ、ゆっくりとイェルメへ視線を向けた。
「です、ね……ですよね、イェルメさん。私じゃジルオさんを運べないので……後はイェルメさんにお願いしてもいいですか?私は……その、ご飯作りのお手伝いをしてきますので」
浮かべられた微笑には幼さに似合わぬ諦念が入り混じり。
こりゃジルオの所為で随分としょっぱい飯になっちまいそうだなー……と思いつつ、イェルメはジルオの身体を引き摺り、キャンプへと運び込んだ。
目覚めた時には金色の豊かな波も、小さなひだまりも存在していなかった。
混濁する記憶。自分がキャンプ内に寝かされているという事は、あの大断層を登りきったという事だろうとは思うのだが……。
「……、……。」
重たい頭を抱え、無言のままにジルオが身を起こせば空腹を誘う芳ばしい棒味噌の匂いがふわりと鼻腔を擽った。
その匂いに誘われるようにしてフラフラとテントの外へ出れば焚き火にあたるルトの姿が見え。一瞬、パチリと視線がかち合ったのだが、その視線はふぃっと外されてしまい……どこか感じるよそよそしさに首を捻れば「なんだー?ジルオやっと起きたかー」とイェルメに声をかけられて、小声でヒソッと問いをぶつけられた。
「ジルオさ、壁を登り終えた後の事って覚えてるん?」
「いえ……。情けない事に幻覚に飲まれてしまって…………少々記憶があやふやになっておりまして」
ジルオの言葉にイェルメは「あー、やっぱりかぁ」と苦笑いを零す。
自分は……何か不味い事をしてしまったのだろうか。ジルオの胸に一抹の不安が過ぎる。
「お前さ、壁を登り切ったあと、ルトちゃんに倒れこんでライザさんの名前呼んだんだよね」
言われて、僅かながらに蘇る記憶。
そうだ――己は幻覚の中でもう二度とは会えぬであろう煌めきに溺れ、惑わされて……。
「ま、ルトちゃんはライザさんの娘だし?確かに似てはいるんだろうけどさー……感動の再会で名前呼び間違えちゃうのはちょっと無いんじゃないん?」
「…………。」
「兎も角さ、俺のかわいい妹分慰めてやってよ。ルトちゃん、だいぶそれで落ち込んでるみたいだからさ」
イェルメに背中をばしばし叩かれ、ジルオの口から「あ、はい、」と少々狼狽えた返事が漏れた。
しかし……ルトが落ち込んでるというのは遠巻きにでも見て取れるのだが、慰めるとはどうすればいいのだろうか。ジルオは「むむ、」と眉を顰めて考え込むもこのまま立ち尽くしていてもどうにもならぬか……とルトのいる方へ足を向けた。
そうして「ルト……隣いいか?」と伺えば「は、はい。ど、どうぞ」と若干固い声で返事が返されて。ジルオはどかりとルトの隣に腰を下ろす。
しかし……隣に座ったはいいが何をどう取り繕うべきなのか。
言葉は浮かばぬままパチパチと焚き火の爆ぜる音ばかりがやたらと耳に届く。
「あ、えと……ジルオさん。三層研修、お疲れ様でした」
そんな中、先に沈黙を破ったのはルトの方だった。
更には「その、お腹、空いてますよね?……ネリタンタンの棒味噌スープ、出来てます」とスープをよそって手渡され。ジルオは「あ、あぁ……ありがとう、ルト」と礼を述べ、ほこほこと湯気を立てる器を受け取った。
彼女を気遣わねばならぬのはこちらだというのに却って気を遣わせてしまったな……と思いつつジルオがスープに口をつければ優しい味わいが口内に広がって五臓六腑に旨味が染み渡る。
「……君には少々みっともない姿を晒してしまったみたいだな。……すまない」
スープの熱が緊張を取り払ったのか、ジルオの口から素直な言葉がポロリと零れ落ち。ルトは思わぬジルオの言葉に「え!いえ、その……!みっともない、なんて……そんな、事は……」と語尾を窄ませつつ慌てふためいた。
「気を使わなくてもいい。本当の事だ。……俺もまさかあのような幻に飲まれるとは思いもしなかった」
「幻…………、」
ジルオの見た幻――それは母の姿だとルトは認識していた。
幻にまで見る自身の母――ジルオにとっての師匠……〝殲滅卿〟とはどんな存在だったのだろう。
母は、自身が二歳の時に絶界行を果たしてしまった。故にルトの記憶に母の姿はない。母の師であり自身の師でもある不動卿・オーゼンに話を聞いた事もあるが、その師ですら母の事は多くは語ってくれないのだ。
だからこそ……ルトはジルオへと問いかけてしまった。
「……あの、ジルオさん……私のお母さんって、どんな人だったんですか?」
ルトの問いかけに「……ライザさんか?」とジルオは聞き返し、ルトはこくりと小さく頷きを返す。
「そうだな……一言で言うとするなら、敵わない憧れとでも言うべきか……」
「憧れ……、」
ライザを〝憧れ〟と呼ぶジルオの声音は何とも言えないまろやかさを秘め、敬慕と傾慕がちらりと覗くその表情はルトが初めて目にするモノだった。
ジルオはライザとの思い出話を滔々と語る。……自分と兄貴分を無理矢理に弟子にした日の事、度を越した悪戯の所為で最高峰の白笛だというのにライザの親友である黒笛の女性から裸吊りにされていたという話、酒場に連れてかれてはライザの苦手な食べ物ばかりを食べさせられていた事――。
ルトは生き生きとした描写で紡がれる母の話に耳を傾けながらジルオの瞳をちら、と盗み見る。
蒼い瞳は言葉よりもずっと雄弁で……ジルオの眼差しが語る想いに胸がざわついて仕方がない。
「……ジルオさん、お母さんの事が大好きだったんですね」
唇が震えて呟きが落ち。
それを拾い上げたジルオは「ん?」と目を丸くした。
「好き、か……そうだな。……君が不動卿を好いているように、俺もライザさんを好いてはいたな」
好意と好意のズレに気付かぬまま、ジルオはさらりと言ってのける。
浮かべられた笑みはふわりと柔らかく温かで……だが、それは自分に向けられている笑みではないのだろうとルトは感じ取った。
その微笑みを、自分にも向けて欲しくて。向けられたくて。ルトはジルオの目をじっと見つめて口を開く。
「ジルオさん。……もし、もしも、ですよ?私がお母さんのようになれたのなら……、」
私の事、もっと、ずっと、好きになってくれますか?と言いかけた言葉は口の中でもやりと溶けた。
拒否が、拒絶が怖かった。ルトはふるふると首を横に振り「……いえ、何でもないです」と無理矢理に言葉を濁す。
母親のようになれたのなら……、ルトは何を言いたかったのだろうか。濁された言葉の向こう側を、ジルオは察する事が出来ず。
それでも……ルトが何かを求めているように思えたジルオは打ち消された問いかけと真剣に向き合って口を開く。
「ルトは……確かにライザさんに似た部分もあるが……。ライザさんと君は違う人間だろう?」
想いが見えないなりに出した答えを口にして、ジルオは日向の髪をくしゃりと撫でた。
――この子は、己の師を、母親を超えてゆける可能性を秘めている。そう思っての言葉だった。
「……君は君であり、ライザさんはライザさんだ」
ジルオの言葉に「私は私、ですか……」と返してルトは不覚にも気づいてしまった。
――母と自分は違う人間。ジルオはそう言い切った。だからこそ……あの眼差しを自分が得る事は叶わないのではないか、と。