第一章
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
二層の終点であり三層の始点である大断層。
奥底からは絶え間なく靄が湧き上がり、真白い靄が乱反射する光の所為か視界は酷く悪い。
耳を劈くのは皮膜を拡げ中空を舞う巨大原生生物・ベニクチナワの咆哮か。
「ベニクチナワは遺物や鉱石なんかの光り物を好んで腹に入れたがるからその腹を掻っ捌けば労せず大量の遺物を手に入れられる……、そんな噂も有ったっけな」
「あくまでも噂ですよね、シムレドさん。実際は殆ど排泄されてしまう事の方が多いと俺は聞いています。それに、あの巨体を狩るくらいなら大人しく探窟に徹した方が懸命かと」
「ははっ、流石にジルオは騙されないか。ルトとイェルメは騙されたんだがな」
冗談めかして笑う同行者――シムレドに釣られ、ジルオもフッと笑みを零した。
シムレドという壮年男性は顔に似合わず随分と茶目っ気に溢れた性分であるようだ。だが、彼は確かな実力を持つ達人クラスの探窟家――黒笛である。今のユーモアも、余分に込められたジルオの肩の力を抜く為に発せられたものだろう。
だからこそジルオは「イェルメさんは兎も角として……ルトには俺から正しい知識を後ほど伝えさせて頂きます」と真面目さの中に含みを持たせるような言い回しでシムレドへと言葉を返した。
「ま、あの断崖絶壁でヤツに出くわしたら腹を掻っ捌くどころじゃないわなぁ」
「寧ろ、捌かれるのは俺たちですね」
「そうはならないようにしないとな。――将来有望な若者を餌になんかした日にゃ、俺はルトに何を言われるやら」
言いながらシムレドは原生生物が忌避する香りを放つ草を数種類混ぜ合わせすり潰した軟膏を身体中に塗りこんでゆく。
独特の匂いはけして良いモノではなく、鼻をつまみたくなるような刺激臭が辺りに漂った。
「ほれ。ジルオも塗っとけよ」
「……とはいえ、この忌避剤の効果も無いよりマシと言った所ですよね――それよりも、如何に奴らに気取られる前に壁を下り上るかが重要な訳で」
「確かに、皆はコレをまじないみたいなモンだろうと笑うんだがな。だが、ジルオにとっちゃ効果覿面かもしれんぞ?」
「……どういう意味です?」
「ソイツは、ルトの手製だ」
シムレドから告げられたその名が、ジルオの胸へと温かな灯をともす。同時に、日向のような笑みで「ジルオさん、」と名を呼ぶ声が鼓膜の内で響いた気がして。
「いつもなら俺が作るんだがよ、ルトが『私にも何かできませんかね?』って何度も何度も聞いてきてなぁ。こいつの作り方を教えたら刺激臭に涙目になりながらも懸命に薬草を磨り潰していたよ。――こちらの予定も聞いてきたから……ありゃ絶対イェルメを引っ張ってここに来るな」
「…………、」
「……そう聞いたら、何が何でも生きて帰ってやるという気にならないか?――願いや思いの込もったモノほど、己を活かすモノはないからな」
彼女の願い。自分の思い。
呼び声、匂い、ふわふわの髪。手離したくないと思ってしまった〝たからもの〟――そんな彼女へと、帰ったらまたいくらでもぎゅーっとしてやると約束をしたのは自分だ。
覗き込んだ深淵から吹き荒ぶ風は冷たい。
だが、この胸の温かな灯はけして消してはなるものか。
(……ルト。俺は、君の待つ元へと必ず帰ってみせる)
――心に宿す決意は固く、思いは重い。
上昇負荷に身体を慣らす為に三層を降りて登ってを繰り返して数週間。――その日はとうとう三層の終盤、四層の入口を目指す事となった。三層での探窟経験はゼロという訳では無かったが、ここまでの深部にまで潜る事は初めてだ。
壁の内部に張り巡らされた原生生物の巣穴を使い、断層内部を下りに下り、穴ぐらに棲うネリタンタンを狩っては食らい、途中ビバークを挟みつつどれ程の時が過ぎただろうか。慣れぬ行程の所為か体力の消耗は激しい。
もう、大分三層の終わりに近いのだろう。壁面には何らかの原生生物の卵という刺々しい突起物が増え、四層に自生する植物、ダイラカズラ――巨人の盃から立ちのぼる湯気の所為で皮膚にまとわりつく空気がじとりと重くなり、不快感が強まってきた。
今は、大人二人がかろうじてしゃがみこめる程度の広さの横穴にて束の間の休憩を挟んでいる最中だ。
「とりあえず、行きは順調だったな」
「…………。」
シムレドの言葉にジルオはゴクリと喉を鳴らす。
酸っぱいモノが込み上げてくるのはダイラカズラの捕食器が出す消化液の匂いの所為か、それとも。
(胸が……震えるとは、こういう事か……)
緊張と高揚がないまぜになり、ジルオの口角が釣り上がる。身体は疲弊しているにも関わらず、精神は愉悦と恍惚に満ち溢れ――己がアビス無しには生きられぬ探窟家である事をまざまざと突きつけられている心地だ。
身を潜めている横穴から眼下を望めば、ダイラカズラの出す蒸気と力場の光が混ざりあい青く染まった幽玄の世界が広がって。――あぁ、昔ライザさんから聞いた以上の美しさだ。それはとても幻想的で、蠱惑的で……美しい場所をまだ一つしか知らないという彼女にも見せてやりたいモノだとジルオは思った。
「……アビスは、本当に過酷で美しいですね」
ほう、と感嘆混じりの息を吐きつつジルオが呟けばシムレドが「そうさなぁ、」と相槌を打ち苦笑を浮かべる。
「しっかし……本当に過酷なのはここからなんだよなぁ。さて……そろそろ行くか?」
シムレドの言葉に「はい」とジルオも短く返し、出発の準備を整える。
……三層での上昇負荷は二層で受ける重い頭痛、吐き気、末端の痺れに加え、平衡感覚の異常及び、幻覚・幻聴。そして、それらの負荷は決して避けられぬ呪いだ。
深く潜れば潜る程に重くなるアビスの呪い――それでも己が何故深層を目指すのか、と問われればそこに〝憧れ〟が有るからだ、としか言いようがないのだろう。いつか、あの人が見た景色を自分もその目で見てみたい。
帰路は遠回りであろうとも少しでも上昇負荷を抑えるべく緩やかな勾配のルートを選んでゆく。
狭苦しい横穴を這いずって這いずって、二人は慎重に先を進んでいった。忌避剤の影響なのか、幸いにして危険な原生生物と出くわす事もなく、極めて順調な……いや、順調すぎてやや早いくらいのペースだ。
――……ォさん、
そんな中、ジルオの耳元を掠めてゆく呼び声。
傾斜は緩やかであるというのに、呪いは着実に忍び寄り、蝕み、囁きを落としてゆく。
――……ジルオさん、おかえりなさい!私、ずっと待ってました……!
――ぎゅーってしてくれるって言った約束、忘れてないですよ、私……!
コロコロと響く可愛らしい声。
蜜より甘い声色に飲み込まれたら最後、戻れなくなるのは自明の理だ。そもそも――己が会いたいのは、幻の中に在る偽物などではない。
ジルオはまとわりつく幻影を必死に払い除けるも、それでも呪いはくすくすと微かな笑みを零し、次々と甘言を投げかける。
そうしてどれほどの時間を、日数をかけ、どれだけの距離を登りつめたのか。最後の横穴を這い登り、ジルオは聳える壁の終焉にある上層を睨む。
危険性を考慮してこれまでの移動は極力大断層中に張り巡らされた穴ぐらを使ってきたが、ここからは否が応でも絶壁とも言える垂直の壁を登らねばならない。
身体も精神もだいぶ擦り切れていた。それでも、ジルオはここさえ乗り越えれば幻覚ではない彼女が上で待っていてくれる筈だと己を奮い立たせ、ロープを握り上へ、上へ、と帰還を目指す。
革製のグローブの内側でもう幾つ目だかわからないマメの潰れる気配がした。最早空になった胃から胃液を幾度吐き出したかもわからない。少女の甘やかな囁きは耳鳴りの如く鳴り続く。
そうして漸く大断層の淵――二層までもう一息という所に来た次の瞬間だった。呪いが更なる牙を向いたのは。
――もう、休んでもいいんですよジルオさん。お母さんだってそう言ってます。
その言葉に、ジルオの皮膚がざわりと粟立った。
刹那、豊かな金色が眼前に広がって。
『お~い、ジルオー!!お前まだ赤笛の癖に何でこんな所にいるんだ?!』
響いた声は懐かしく。
世界がグラリと傾いた。
「な……っ!師匠!俺はもう赤笛なんかじゃ……!!」
『でも、赤笛だっていうのに私を追いかけてここまで来るなんて……流石は私の弟子だなぁ!』
「わぷっ!し、ししょ……っ、じゃなくてライザさん!俺はもう月笛です!子ども扱いは止めてください!」
わしゃわしゃと己の頭を撫でる手は温かく、それが現実のものでないと分かっていたにも関わらずジルオはその手を振り解けなかった。
自身が底を目指さぬ限りはもう二度と会えぬであろう煌めきであり憧れを前にして、警鐘の如く頭痛は鳴り響き、ぐゎんぐゎんと視界が揺れる。
不味い、と思った時には完全に呪いに飲み込まれ。ロープを握る手からどんどん力が抜けてゆく。
「……ルオ!あともう少……だ!……ん張れ!!……ルトと、……ルメが上で待ってる!!」
「ッ、ッ!!」
そんな中、幻と現実の狭間で響いたシムレドの声にジルオはふっと我に返った。
更には上から「ジ……さん!……ルオさん!」と幼い呼び声が降り注いで。
(ルト……!!)
ジルオは手と足にぐっと力を入れ、幻ではない本物の彼女の声を道標に壁を再び登り始めた。
「ぐ……っ、……っ、」
呪いに苛まれながらも何とか壁を登りきり――膝が折れたまま肩で息をすれば己の名を呼び駆け寄る金色の――。
――……良く頑張ったな、ジルオ!
同時に……疲弊しきった己の耳に届いた最後の幻。
上昇負荷の影響でぼやけた視界に映るのは――――、
「……ライ、ザ……さん、」
ジルオは揺らめく金に倒れ込むかのようにしてその名を紡ぐ。
「…………ジルオ、さん?」
幼い金色をぎゅぅと抱きしめたまま気を失ってしまったジルオは気づいていない――彼女の表情が、その名を聞いたその瞬間……僅かに強ばっていたという事を。
奥底からは絶え間なく靄が湧き上がり、真白い靄が乱反射する光の所為か視界は酷く悪い。
耳を劈くのは皮膜を拡げ中空を舞う巨大原生生物・ベニクチナワの咆哮か。
「ベニクチナワは遺物や鉱石なんかの光り物を好んで腹に入れたがるからその腹を掻っ捌けば労せず大量の遺物を手に入れられる……、そんな噂も有ったっけな」
「あくまでも噂ですよね、シムレドさん。実際は殆ど排泄されてしまう事の方が多いと俺は聞いています。それに、あの巨体を狩るくらいなら大人しく探窟に徹した方が懸命かと」
「ははっ、流石にジルオは騙されないか。ルトとイェルメは騙されたんだがな」
冗談めかして笑う同行者――シムレドに釣られ、ジルオもフッと笑みを零した。
シムレドという壮年男性は顔に似合わず随分と茶目っ気に溢れた性分であるようだ。だが、彼は確かな実力を持つ達人クラスの探窟家――黒笛である。今のユーモアも、余分に込められたジルオの肩の力を抜く為に発せられたものだろう。
だからこそジルオは「イェルメさんは兎も角として……ルトには俺から正しい知識を後ほど伝えさせて頂きます」と真面目さの中に含みを持たせるような言い回しでシムレドへと言葉を返した。
「ま、あの断崖絶壁でヤツに出くわしたら腹を掻っ捌くどころじゃないわなぁ」
「寧ろ、捌かれるのは俺たちですね」
「そうはならないようにしないとな。――将来有望な若者を餌になんかした日にゃ、俺はルトに何を言われるやら」
言いながらシムレドは原生生物が忌避する香りを放つ草を数種類混ぜ合わせすり潰した軟膏を身体中に塗りこんでゆく。
独特の匂いはけして良いモノではなく、鼻をつまみたくなるような刺激臭が辺りに漂った。
「ほれ。ジルオも塗っとけよ」
「……とはいえ、この忌避剤の効果も無いよりマシと言った所ですよね――それよりも、如何に奴らに気取られる前に壁を下り上るかが重要な訳で」
「確かに、皆はコレをまじないみたいなモンだろうと笑うんだがな。だが、ジルオにとっちゃ効果覿面かもしれんぞ?」
「……どういう意味です?」
「ソイツは、ルトの手製だ」
シムレドから告げられたその名が、ジルオの胸へと温かな灯をともす。同時に、日向のような笑みで「ジルオさん、」と名を呼ぶ声が鼓膜の内で響いた気がして。
「いつもなら俺が作るんだがよ、ルトが『私にも何かできませんかね?』って何度も何度も聞いてきてなぁ。こいつの作り方を教えたら刺激臭に涙目になりながらも懸命に薬草を磨り潰していたよ。――こちらの予定も聞いてきたから……ありゃ絶対イェルメを引っ張ってここに来るな」
「…………、」
「……そう聞いたら、何が何でも生きて帰ってやるという気にならないか?――願いや思いの込もったモノほど、己を活かすモノはないからな」
彼女の願い。自分の思い。
呼び声、匂い、ふわふわの髪。手離したくないと思ってしまった〝たからもの〟――そんな彼女へと、帰ったらまたいくらでもぎゅーっとしてやると約束をしたのは自分だ。
覗き込んだ深淵から吹き荒ぶ風は冷たい。
だが、この胸の温かな灯はけして消してはなるものか。
(……ルト。俺は、君の待つ元へと必ず帰ってみせる)
――心に宿す決意は固く、思いは重い。
上昇負荷に身体を慣らす為に三層を降りて登ってを繰り返して数週間。――その日はとうとう三層の終盤、四層の入口を目指す事となった。三層での探窟経験はゼロという訳では無かったが、ここまでの深部にまで潜る事は初めてだ。
壁の内部に張り巡らされた原生生物の巣穴を使い、断層内部を下りに下り、穴ぐらに棲うネリタンタンを狩っては食らい、途中ビバークを挟みつつどれ程の時が過ぎただろうか。慣れぬ行程の所為か体力の消耗は激しい。
もう、大分三層の終わりに近いのだろう。壁面には何らかの原生生物の卵という刺々しい突起物が増え、四層に自生する植物、ダイラカズラ――巨人の盃から立ちのぼる湯気の所為で皮膚にまとわりつく空気がじとりと重くなり、不快感が強まってきた。
今は、大人二人がかろうじてしゃがみこめる程度の広さの横穴にて束の間の休憩を挟んでいる最中だ。
「とりあえず、行きは順調だったな」
「…………。」
シムレドの言葉にジルオはゴクリと喉を鳴らす。
酸っぱいモノが込み上げてくるのはダイラカズラの捕食器が出す消化液の匂いの所為か、それとも。
(胸が……震えるとは、こういう事か……)
緊張と高揚がないまぜになり、ジルオの口角が釣り上がる。身体は疲弊しているにも関わらず、精神は愉悦と恍惚に満ち溢れ――己がアビス無しには生きられぬ探窟家である事をまざまざと突きつけられている心地だ。
身を潜めている横穴から眼下を望めば、ダイラカズラの出す蒸気と力場の光が混ざりあい青く染まった幽玄の世界が広がって。――あぁ、昔ライザさんから聞いた以上の美しさだ。それはとても幻想的で、蠱惑的で……美しい場所をまだ一つしか知らないという彼女にも見せてやりたいモノだとジルオは思った。
「……アビスは、本当に過酷で美しいですね」
ほう、と感嘆混じりの息を吐きつつジルオが呟けばシムレドが「そうさなぁ、」と相槌を打ち苦笑を浮かべる。
「しっかし……本当に過酷なのはここからなんだよなぁ。さて……そろそろ行くか?」
シムレドの言葉に「はい」とジルオも短く返し、出発の準備を整える。
……三層での上昇負荷は二層で受ける重い頭痛、吐き気、末端の痺れに加え、平衡感覚の異常及び、幻覚・幻聴。そして、それらの負荷は決して避けられぬ呪いだ。
深く潜れば潜る程に重くなるアビスの呪い――それでも己が何故深層を目指すのか、と問われればそこに〝憧れ〟が有るからだ、としか言いようがないのだろう。いつか、あの人が見た景色を自分もその目で見てみたい。
帰路は遠回りであろうとも少しでも上昇負荷を抑えるべく緩やかな勾配のルートを選んでゆく。
狭苦しい横穴を這いずって這いずって、二人は慎重に先を進んでいった。忌避剤の影響なのか、幸いにして危険な原生生物と出くわす事もなく、極めて順調な……いや、順調すぎてやや早いくらいのペースだ。
――……ォさん、
そんな中、ジルオの耳元を掠めてゆく呼び声。
傾斜は緩やかであるというのに、呪いは着実に忍び寄り、蝕み、囁きを落としてゆく。
――……ジルオさん、おかえりなさい!私、ずっと待ってました……!
――ぎゅーってしてくれるって言った約束、忘れてないですよ、私……!
コロコロと響く可愛らしい声。
蜜より甘い声色に飲み込まれたら最後、戻れなくなるのは自明の理だ。そもそも――己が会いたいのは、幻の中に在る偽物などではない。
ジルオはまとわりつく幻影を必死に払い除けるも、それでも呪いはくすくすと微かな笑みを零し、次々と甘言を投げかける。
そうしてどれほどの時間を、日数をかけ、どれだけの距離を登りつめたのか。最後の横穴を這い登り、ジルオは聳える壁の終焉にある上層を睨む。
危険性を考慮してこれまでの移動は極力大断層中に張り巡らされた穴ぐらを使ってきたが、ここからは否が応でも絶壁とも言える垂直の壁を登らねばならない。
身体も精神もだいぶ擦り切れていた。それでも、ジルオはここさえ乗り越えれば幻覚ではない彼女が上で待っていてくれる筈だと己を奮い立たせ、ロープを握り上へ、上へ、と帰還を目指す。
革製のグローブの内側でもう幾つ目だかわからないマメの潰れる気配がした。最早空になった胃から胃液を幾度吐き出したかもわからない。少女の甘やかな囁きは耳鳴りの如く鳴り続く。
そうして漸く大断層の淵――二層までもう一息という所に来た次の瞬間だった。呪いが更なる牙を向いたのは。
――もう、休んでもいいんですよジルオさん。お母さんだってそう言ってます。
その言葉に、ジルオの皮膚がざわりと粟立った。
刹那、豊かな金色が眼前に広がって。
『お~い、ジルオー!!お前まだ赤笛の癖に何でこんな所にいるんだ?!』
響いた声は懐かしく。
世界がグラリと傾いた。
「な……っ!師匠!俺はもう赤笛なんかじゃ……!!」
『でも、赤笛だっていうのに私を追いかけてここまで来るなんて……流石は私の弟子だなぁ!』
「わぷっ!し、ししょ……っ、じゃなくてライザさん!俺はもう月笛です!子ども扱いは止めてください!」
わしゃわしゃと己の頭を撫でる手は温かく、それが現実のものでないと分かっていたにも関わらずジルオはその手を振り解けなかった。
自身が底を目指さぬ限りはもう二度と会えぬであろう煌めきであり憧れを前にして、警鐘の如く頭痛は鳴り響き、ぐゎんぐゎんと視界が揺れる。
不味い、と思った時には完全に呪いに飲み込まれ。ロープを握る手からどんどん力が抜けてゆく。
「……ルオ!あともう少……だ!……ん張れ!!……ルトと、……ルメが上で待ってる!!」
「ッ、ッ!!」
そんな中、幻と現実の狭間で響いたシムレドの声にジルオはふっと我に返った。
更には上から「ジ……さん!……ルオさん!」と幼い呼び声が降り注いで。
(ルト……!!)
ジルオは手と足にぐっと力を入れ、幻ではない本物の彼女の声を道標に壁を再び登り始めた。
「ぐ……っ、……っ、」
呪いに苛まれながらも何とか壁を登りきり――膝が折れたまま肩で息をすれば己の名を呼び駆け寄る金色の――。
――……良く頑張ったな、ジルオ!
同時に……疲弊しきった己の耳に届いた最後の幻。
上昇負荷の影響でぼやけた視界に映るのは――――、
「……ライ、ザ……さん、」
ジルオは揺らめく金に倒れ込むかのようにしてその名を紡ぐ。
「…………ジルオ、さん?」
幼い金色をぎゅぅと抱きしめたまま気を失ってしまったジルオは気づいていない――彼女の表情が、その名を聞いたその瞬間……僅かに強ばっていたという事を。