第一章
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闇深い逆さ森に存在するシーカーキャンプに陽は射さない。大ボルタという大木のウロ穴を利用して造られたシーカーキャンプに窓は存在すれど、そこに射し込む朝日は皆無だ。
だが、そんなシーカーキャンプにも時間という概念としての朝は訪れる。
「ジ……さん、……ルオさん、」
小鳥の囀りよりも心地よい呼び声が耳に届いてジルオの意識が浮かび上がった。
薄らと瞼を開ければ日向にも似た温もりが背に触れて、身体をそっと揺さぶってくる。
頬には何やら固い感触――これは……木の板、だろうか。
どうやら、ジルオはテーブルに突っ伏したまま眠りに落ちていたようで……昨晩は一週間ぶりに布団の中で休める状況に有りながら布団で身体を休める事は無かったらしい。一瞬、自分が何故このような状況にあるのか理解出来なかったが……霞がかった思考が晴れるにつれて段々と昨夜の記憶が蘇ってきた。――そうだ、昨日は書類を書き上げた後、オーゼンからライザが好んでいたという酒を勧められ……。
「ぐ……、」
突っ伏していた上半身を無理矢理に起こせばガンガンと頭蓋の内から殴られているかのような痛みに襲われた。
オーゼンから勧められたのはたかが数杯――まさか、たかだか数杯の酒でこのような二日酔いに見舞われるとは。
確かに自ら進んで酒を嗜む事は多くはない。だが、ジルオ自身全く酒を飲まない訳ではなく、宴会やらなんやと酒を飲む機会はこれまでに何度も何度もあった。
(こんなにも簡単に酔い潰れてしまう程、俺は酒に弱くはないつもりであったのだが……)
飲まされた酒の度数は相当度し難いものだったようで、二層での上昇負荷を思わせるような頭痛は止む気配を見せない。
そうして暫く眉間に皺を寄せながらジルオが呻いていれば、ルトが心配そうに「大丈夫ですか、ジルオさん」と水を差し出してきた。
ジルオはこんな下らん事で彼女に心配をかけまいと眉間の皺をほぐしてルトと目線を合わせる。
そして、「……ありがとう、ルト」と努めて柔らかく礼を述べるとグラスを受け取り、一気に中身を飲み干した。
「まさか殲滅卿の弟子があれしきの酒で潰されるとは。情けないねェ?」
ヌッと差した影に二人が見上げればそこには愉快そうに喉を鳴らして笑うオーゼンの姿。
その言葉に反論出来ずジルオが黙りこめば、ルトが少々ムッとした顔を見せた。
「疲れて帰ってきたジルオさんを酔い潰すお師さまの方が情け容赦ないと思いますし、人でなしだと思いますけど」
ルトがピシャリと言い放った言葉にカチンときたのか、オーゼンは無言でルトの額へとデコピンを放った。刹那、デコピンとは思えぬ音が室内に轟き「ぴげゃんっ?!」とルトの口から形容しがたい奇声が上がる。
ジルオが慌てて「だ、大丈夫か?!」と声をかければ、ルトは「な、れてますから……だいひょぶ、です……!」とプルプル震え……そして、涙目になりながらもオーゼンの顔をキッと睨みつけ、大声で叫んだ。
「お師さまのろくでなしぃ!!」
「……お前は本当に口の聞き方を知らないクソガキだね」
「お師さまこそ大人げない!手加減ってものをいい加減学んでくださいよ!」
「馬鹿だね。私が手加減しなかったらお前さんなんか今の一撃で粉微塵だよ」
ハンッ、と鼻で笑うオーゼンの姿にルトは「ふぐぅ……!」と頬を膨らませて黙り込む。
――オーゼンの身体には一級遺物である〝 千本楔〟という一刺しで千人力を得る楔が至る所に埋め込まれている。その怪力をもってすれば、己の頭蓋など卵を割るが如く容易く割れるとルトもわかっているのだ。
しかし、頭ではわかっていても納得は出来ないのかルトは尚も師匠の顔を睨みつけ。オーゼンも反抗的な弟子の眼差しにますます腹が立ったのか、ルトの顔に向かってずいっと手を伸ばした。
「……何なら本当に木っ端微塵にしてやってもよかったんだがねェ?」
「ぐぶゅっ!」
ニタニタと笑いながらオーゼンは膨らんだルトの頬を片手で捻り潰し、ルトの口から蛙が潰れたような悲鳴が飛び出した。
ルトの無様で不細工な面構えに満足したのか、オーゼンは一旦その手を離したのだが……弟子はまだまだ懲りないようで。ルトは両手で頬をさすりながらオーゼンに向かって更なる悪態を投げつける。
「……ぅぅぅ……お師さまのばか!弟子イジメかっこ悪いです!」
「ほぅ?お前さん、こんだけ痛めつけられといてまだ躾が足りないと言うのかい?」
「躾と言う名のイジメの間違いだと思いまむぎゃん?!」
ルトが言葉を言い切る前にオーゼンは再度ルトの頬を片手で引っ掴む。
そしてそのまま小さな身体を持ち上げて宙に浮かせると「……誰に似たのかどこまでも小生意気なガキだよ全く、」と呆れたように大きく息を吐いた。
ルトはオーゼンに頬を掴んで持ち上げられたまま「んむぐむむむ!!」と暴れ、オーゼンの胸をガシガシ蹴りつけるが……当たり前ながらオーゼンの身体はビクともせず。
一部始終を眺めていながらジルオは師弟喧嘩を止めあぐね……これが不動卿とルトの日常なのだろうか、ライザさんも不動卿にこのような扱いをされていたのだろうか、と現実逃避のような考えが過ぎっていった。
どうしたものかと迷いはすれどこれをこのまま放置するのも如何なものか。そう思ったジルオは二人を何とか宥めようと意を決して口を開いた。
「ルト、不動卿を蹴るな!不動卿も……その、ルトを離してやって下さいませんか?!」
「んん?……大丈夫さぁ、コレは母親に似てそこそこ頑丈に出来てるからねェ。それより、君は君自身の心配をした方がいいんじゃないのかなぁ?」
「……と、言いますと、」
「君、これから三層だろう?――三層で味わう上昇負荷は君が今味わっている二日酔いなんざ比にならないくらい度し難いってわかってるだろうに」
「…………!」
ニヤリと笑いながら告げられたオーゼンの言葉にジルオは息を詰まらせる。
そうこうするうちにオーゼンは弟子の相手に飽きたのか、ポイッとやや乱暴にルトの身体を解放すると「ま、精々頑張る事さね」との言葉を残して私室へと向かって行った。
「………………ジルオさん、」
「……何だ?」
「…………私。この世にお師さまより度し難いモノは存在しないと思います」
淡々と述べながらもルトはかんかんに怒っているようで、オーゼンの背中に向けて思いっきりあかんべえをする。
オーゼンにバレてはいないとはいえ、未だ反抗的な態度を見せるルトにギョッとしたジルオは「こら、ルト。やめろ」とルトの手を取り、その行動を止めた。――これがもしもバレたなら、ルトに待ち受けているのは裸吊りの刑だろう。
敢えて少なめにした朝食を食べ終えて。ジルオはどっかりと床に座り込むと三層へ向かう為の装備の最終確認を始める。まずは深度計、石灯、つるはしに不備はないか。そして次にロープを掴み、ほつれ等がないか目視で確認し、強度に問題がないか両手で掴んで引っ張り。「メインロープ……よし」とジルオが声にすれば背後に微かな気配を感じ取った。
「……折角ジルオさんが長い期間二層にいるのに。シーカーキャンプに殆どいないなんて…………面白くないです」
背中に落ちてきたのは小さな呟き。
確認を終えたロープをリュックに入れて振り返れば、ぷっくりと頬を膨らませ眉間に皺を寄せたルトの姿が目に映る。
「そう言うな、ルト。君とは一週間ものあいだ朝から晩まで共に居れただろう?」
言いながらジルオはふと気づく。
……成程、不動卿はこの言い訳を用意する為にルトと探窟へ行かせてくれたのか。
しかし、そんな言い訳ではルトの気持ちは収まりはせず。ルトは何ともわかりやすく不機嫌を表した顔のまま俯いている。
「……ルトの頬はさっきからずっと膨れっぱなしだな」
ジルオはルトのほっぺたをつついて萎ませてみるも、深々と刻まれた眉間の皺まではほぐれないままで。これは……相当拗ねているようだ。
俺は君に笑顔で見送ってもらいたいんだがな、と思ったジルオはルトの前髪を撫で「どうすれば君の機嫌は治る?」とそっと問いかけてみる。
「どう、って言われましても……、」
「君の機嫌が治るのであれば、俺はなんでもするぞ?」
途端、ルトは「え!」と顔を輝かせてジルオの目を真っ直ぐに見つめてきた。
「なっ、なな、なんでもっ、ですか!?」
頬を紅潮させ興奮気味に食ってかかるルトに、俺は何を頼まれるんだか、と思ったジルオは「あくまでも出来る範囲でだがな」と言葉を付け足して苦笑する。
この様子だと何か珍しい土産でも強請られるのだろうか。三層で得られるものといえば大人しく肉質も美味な小型原生生物のネリタンタンや、そのネリタンタンが主食としているバラコチャの実が有名である。強請られるのがそれらなら土産にする事もそう難しくはないのだが……とジルオが思案すれば、ルトの口から予想外の頼み事が飛び出してきた。
「じゃ、じゃぁ……!私っ!ジルオさんにぎゅーってされたい、ですっ!」
「………………ぎゅー?」
「は、ははは、はいっ!!」
「…………そんな簡単な事でいいのか?」
無理難題を突きつけられやしないか、と身構えていたジルオは拍子抜けしたように聞き返し、ルトはジルオの言葉に大きな頷きを返した。
期待に満ちたルトの眼差しに自然と零れ落ちる笑み。ジルオはそわそわした様子のルトへ「わかった。……ほら、来い」と両手を拡げてみせた。
「!、――――っ」
拡げられた両の手を見るや否や、ルトは無言のままに勢い良くジルオの腕の中へと飛び込んだ。
弾丸のように飛びついてきたルトをしっかと受け止めて。細く柔い身体に腕を回すと、ジルオはルトの望み通りにぎゅうと抱きしめてやった。ふわふわとした金糸が耳元にかかり、少々こそばゆい。ふわりと香る匂いは安らぐ心地で、体温と相まって春の日差しを抱いているかのように思えた。
離れたくないと言わんばかりにルトの腕はジルオの首元に回されて――言葉にならない思いが切なくも甘やかにジルオの胸を震わせてくる。
――これでは、俺の方が此処を離れ難くなってしまう、そう感じたジルオはそっとルトの身体を離し、「……これでいいか?」と囁いた。
「……、……もっと、いっぱいがいいです」
「いっぱい……君は意外と欲張りだな」
まだ足りないと膨れっ面を見せるルトへ、ジルオは困惑と愛しさが入り交じったような眼差しを向ける。
ルトはその言葉に「ぷむ……、」とますます頬を膨らませ……しまった、と思ったジルオは「帰ったら、またいくらでもぎゅーっとしてやる」と空気のたっぷり詰まった頬をそっと両の手で挟み「……だから、あまりそのような顔をしてくれるな」と優しく説きつつ、ルトの頬を萎ませた。
手のひらに伝わってくるのは温かく柔らかな頬の感触――蕩けるような陽だまりを、手放したくないのは己の方だ。しかし――今回此処に来た目的を見誤る訳には行かない。陽だまりをそっと手放して、目指すは闇の最果てだ。
だが、そんなシーカーキャンプにも時間という概念としての朝は訪れる。
「ジ……さん、……ルオさん、」
小鳥の囀りよりも心地よい呼び声が耳に届いてジルオの意識が浮かび上がった。
薄らと瞼を開ければ日向にも似た温もりが背に触れて、身体をそっと揺さぶってくる。
頬には何やら固い感触――これは……木の板、だろうか。
どうやら、ジルオはテーブルに突っ伏したまま眠りに落ちていたようで……昨晩は一週間ぶりに布団の中で休める状況に有りながら布団で身体を休める事は無かったらしい。一瞬、自分が何故このような状況にあるのか理解出来なかったが……霞がかった思考が晴れるにつれて段々と昨夜の記憶が蘇ってきた。――そうだ、昨日は書類を書き上げた後、オーゼンからライザが好んでいたという酒を勧められ……。
「ぐ……、」
突っ伏していた上半身を無理矢理に起こせばガンガンと頭蓋の内から殴られているかのような痛みに襲われた。
オーゼンから勧められたのはたかが数杯――まさか、たかだか数杯の酒でこのような二日酔いに見舞われるとは。
確かに自ら進んで酒を嗜む事は多くはない。だが、ジルオ自身全く酒を飲まない訳ではなく、宴会やらなんやと酒を飲む機会はこれまでに何度も何度もあった。
(こんなにも簡単に酔い潰れてしまう程、俺は酒に弱くはないつもりであったのだが……)
飲まされた酒の度数は相当度し難いものだったようで、二層での上昇負荷を思わせるような頭痛は止む気配を見せない。
そうして暫く眉間に皺を寄せながらジルオが呻いていれば、ルトが心配そうに「大丈夫ですか、ジルオさん」と水を差し出してきた。
ジルオはこんな下らん事で彼女に心配をかけまいと眉間の皺をほぐしてルトと目線を合わせる。
そして、「……ありがとう、ルト」と努めて柔らかく礼を述べるとグラスを受け取り、一気に中身を飲み干した。
「まさか殲滅卿の弟子があれしきの酒で潰されるとは。情けないねェ?」
ヌッと差した影に二人が見上げればそこには愉快そうに喉を鳴らして笑うオーゼンの姿。
その言葉に反論出来ずジルオが黙りこめば、ルトが少々ムッとした顔を見せた。
「疲れて帰ってきたジルオさんを酔い潰すお師さまの方が情け容赦ないと思いますし、人でなしだと思いますけど」
ルトがピシャリと言い放った言葉にカチンときたのか、オーゼンは無言でルトの額へとデコピンを放った。刹那、デコピンとは思えぬ音が室内に轟き「ぴげゃんっ?!」とルトの口から形容しがたい奇声が上がる。
ジルオが慌てて「だ、大丈夫か?!」と声をかければ、ルトは「な、れてますから……だいひょぶ、です……!」とプルプル震え……そして、涙目になりながらもオーゼンの顔をキッと睨みつけ、大声で叫んだ。
「お師さまのろくでなしぃ!!」
「……お前は本当に口の聞き方を知らないクソガキだね」
「お師さまこそ大人げない!手加減ってものをいい加減学んでくださいよ!」
「馬鹿だね。私が手加減しなかったらお前さんなんか今の一撃で粉微塵だよ」
ハンッ、と鼻で笑うオーゼンの姿にルトは「ふぐぅ……!」と頬を膨らませて黙り込む。
――オーゼンの身体には一級遺物である〝 千本楔〟という一刺しで千人力を得る楔が至る所に埋め込まれている。その怪力をもってすれば、己の頭蓋など卵を割るが如く容易く割れるとルトもわかっているのだ。
しかし、頭ではわかっていても納得は出来ないのかルトは尚も師匠の顔を睨みつけ。オーゼンも反抗的な弟子の眼差しにますます腹が立ったのか、ルトの顔に向かってずいっと手を伸ばした。
「……何なら本当に木っ端微塵にしてやってもよかったんだがねェ?」
「ぐぶゅっ!」
ニタニタと笑いながらオーゼンは膨らんだルトの頬を片手で捻り潰し、ルトの口から蛙が潰れたような悲鳴が飛び出した。
ルトの無様で不細工な面構えに満足したのか、オーゼンは一旦その手を離したのだが……弟子はまだまだ懲りないようで。ルトは両手で頬をさすりながらオーゼンに向かって更なる悪態を投げつける。
「……ぅぅぅ……お師さまのばか!弟子イジメかっこ悪いです!」
「ほぅ?お前さん、こんだけ痛めつけられといてまだ躾が足りないと言うのかい?」
「躾と言う名のイジメの間違いだと思いまむぎゃん?!」
ルトが言葉を言い切る前にオーゼンは再度ルトの頬を片手で引っ掴む。
そしてそのまま小さな身体を持ち上げて宙に浮かせると「……誰に似たのかどこまでも小生意気なガキだよ全く、」と呆れたように大きく息を吐いた。
ルトはオーゼンに頬を掴んで持ち上げられたまま「んむぐむむむ!!」と暴れ、オーゼンの胸をガシガシ蹴りつけるが……当たり前ながらオーゼンの身体はビクともせず。
一部始終を眺めていながらジルオは師弟喧嘩を止めあぐね……これが不動卿とルトの日常なのだろうか、ライザさんも不動卿にこのような扱いをされていたのだろうか、と現実逃避のような考えが過ぎっていった。
どうしたものかと迷いはすれどこれをこのまま放置するのも如何なものか。そう思ったジルオは二人を何とか宥めようと意を決して口を開いた。
「ルト、不動卿を蹴るな!不動卿も……その、ルトを離してやって下さいませんか?!」
「んん?……大丈夫さぁ、コレは母親に似てそこそこ頑丈に出来てるからねェ。それより、君は君自身の心配をした方がいいんじゃないのかなぁ?」
「……と、言いますと、」
「君、これから三層だろう?――三層で味わう上昇負荷は君が今味わっている二日酔いなんざ比にならないくらい度し難いってわかってるだろうに」
「…………!」
ニヤリと笑いながら告げられたオーゼンの言葉にジルオは息を詰まらせる。
そうこうするうちにオーゼンは弟子の相手に飽きたのか、ポイッとやや乱暴にルトの身体を解放すると「ま、精々頑張る事さね」との言葉を残して私室へと向かって行った。
「………………ジルオさん、」
「……何だ?」
「…………私。この世にお師さまより度し難いモノは存在しないと思います」
淡々と述べながらもルトはかんかんに怒っているようで、オーゼンの背中に向けて思いっきりあかんべえをする。
オーゼンにバレてはいないとはいえ、未だ反抗的な態度を見せるルトにギョッとしたジルオは「こら、ルト。やめろ」とルトの手を取り、その行動を止めた。――これがもしもバレたなら、ルトに待ち受けているのは裸吊りの刑だろう。
敢えて少なめにした朝食を食べ終えて。ジルオはどっかりと床に座り込むと三層へ向かう為の装備の最終確認を始める。まずは深度計、石灯、つるはしに不備はないか。そして次にロープを掴み、ほつれ等がないか目視で確認し、強度に問題がないか両手で掴んで引っ張り。「メインロープ……よし」とジルオが声にすれば背後に微かな気配を感じ取った。
「……折角ジルオさんが長い期間二層にいるのに。シーカーキャンプに殆どいないなんて…………面白くないです」
背中に落ちてきたのは小さな呟き。
確認を終えたロープをリュックに入れて振り返れば、ぷっくりと頬を膨らませ眉間に皺を寄せたルトの姿が目に映る。
「そう言うな、ルト。君とは一週間ものあいだ朝から晩まで共に居れただろう?」
言いながらジルオはふと気づく。
……成程、不動卿はこの言い訳を用意する為にルトと探窟へ行かせてくれたのか。
しかし、そんな言い訳ではルトの気持ちは収まりはせず。ルトは何ともわかりやすく不機嫌を表した顔のまま俯いている。
「……ルトの頬はさっきからずっと膨れっぱなしだな」
ジルオはルトのほっぺたをつついて萎ませてみるも、深々と刻まれた眉間の皺まではほぐれないままで。これは……相当拗ねているようだ。
俺は君に笑顔で見送ってもらいたいんだがな、と思ったジルオはルトの前髪を撫で「どうすれば君の機嫌は治る?」とそっと問いかけてみる。
「どう、って言われましても……、」
「君の機嫌が治るのであれば、俺はなんでもするぞ?」
途端、ルトは「え!」と顔を輝かせてジルオの目を真っ直ぐに見つめてきた。
「なっ、なな、なんでもっ、ですか!?」
頬を紅潮させ興奮気味に食ってかかるルトに、俺は何を頼まれるんだか、と思ったジルオは「あくまでも出来る範囲でだがな」と言葉を付け足して苦笑する。
この様子だと何か珍しい土産でも強請られるのだろうか。三層で得られるものといえば大人しく肉質も美味な小型原生生物のネリタンタンや、そのネリタンタンが主食としているバラコチャの実が有名である。強請られるのがそれらなら土産にする事もそう難しくはないのだが……とジルオが思案すれば、ルトの口から予想外の頼み事が飛び出してきた。
「じゃ、じゃぁ……!私っ!ジルオさんにぎゅーってされたい、ですっ!」
「………………ぎゅー?」
「は、ははは、はいっ!!」
「…………そんな簡単な事でいいのか?」
無理難題を突きつけられやしないか、と身構えていたジルオは拍子抜けしたように聞き返し、ルトはジルオの言葉に大きな頷きを返した。
期待に満ちたルトの眼差しに自然と零れ落ちる笑み。ジルオはそわそわした様子のルトへ「わかった。……ほら、来い」と両手を拡げてみせた。
「!、――――っ」
拡げられた両の手を見るや否や、ルトは無言のままに勢い良くジルオの腕の中へと飛び込んだ。
弾丸のように飛びついてきたルトをしっかと受け止めて。細く柔い身体に腕を回すと、ジルオはルトの望み通りにぎゅうと抱きしめてやった。ふわふわとした金糸が耳元にかかり、少々こそばゆい。ふわりと香る匂いは安らぐ心地で、体温と相まって春の日差しを抱いているかのように思えた。
離れたくないと言わんばかりにルトの腕はジルオの首元に回されて――言葉にならない思いが切なくも甘やかにジルオの胸を震わせてくる。
――これでは、俺の方が此処を離れ難くなってしまう、そう感じたジルオはそっとルトの身体を離し、「……これでいいか?」と囁いた。
「……、……もっと、いっぱいがいいです」
「いっぱい……君は意外と欲張りだな」
まだ足りないと膨れっ面を見せるルトへ、ジルオは困惑と愛しさが入り交じったような眼差しを向ける。
ルトはその言葉に「ぷむ……、」とますます頬を膨らませ……しまった、と思ったジルオは「帰ったら、またいくらでもぎゅーっとしてやる」と空気のたっぷり詰まった頬をそっと両の手で挟み「……だから、あまりそのような顔をしてくれるな」と優しく説きつつ、ルトの頬を萎ませた。
手のひらに伝わってくるのは温かく柔らかな頬の感触――蕩けるような陽だまりを、手放したくないのは己の方だ。しかし――今回此処に来た目的を見誤る訳には行かない。陽だまりをそっと手放して、目指すは闇の最果てだ。