第一章
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紫藍色の空で星々がまだ囁きあう冬の夜明け前。
キン、と冷えた空気を吸って肺を満たせば心做しか胸を刺すような痛みがしたような気がした。
それはまるで横を歩く弟分のジルオの心情を表しているようだ、とノラは白い息を吐く。
「懐かしいねー、ここ」
「あぁ」
オース南区に位置する岸壁街の入り口に辿り着いた二人。ノラはボソリと言葉を落とし、ジルオも短く相槌を打った。
寒風に吹かれ、ノラの一つに縛った明るい銅色をした後ろ髪が、ジルオの鈍い銀色をした無造作な前髪が揺れる。
岸壁街は俗に言うスラム街だ。
辺りには上下左右考えなしに建て増しを繰り返された所為で猥雑になってしまった建物たちが所狭しとひしめき合っている。
複雑に入り組む路地を二人は迷う事なく歩いた。
衛生状態が良いとは決して言えぬ街。
周囲には、糞尿と腐敗物を混ぜこぜにしたような匂いが薄らと漂っている。
「お別れの場所にしちゃぁここはちょっと臭うんじゃない?」
ノラは冗談めかしてハハッと笑い、ジルオは僅かに眉を潜めて嘆息を漏らした。
「公的に言えば俺は黒笛だからな。俺だけの白笛を持っているとはいえ……奈落門を潜る正規のルートを辿って絶界行を果たす事はできない」
淡白な返事を返しながらジルオは自身の首にかけている白い笛に視線を落とす。
それは、二人の師匠である伝説の白笛・殲滅のライザが所持していた笛にとても酷似していた。
強いて言うなら……ジルオの所持する白笛の方が、ライザの持っていた白笛よりもやや小さい、だろうか。
「確かにここは酷い街だ。だが、岸壁街は俺たちにとっての故郷であり、出会いの場所でもある」
「そうなんだけど、ねー」
この街で、幼き日のノラとジルオは師匠であるライザに拾われた。
屑拾い、物乞い、窃盗……生きる為とはいえ何でもやった。
ライザと出会ったきっかけも、彼女相手にスリを働こうとしたからだ。
ノラとジルオの二人でこっそり彼女から財布をスろうと近づいたら渾身の力で彼女に投げ飛ばされた。
当時、幼かった二人は『殲滅卿』などという随分と物騒な二つ名を、一般的な体躯をした若い女性が背負っているとは思わなかったのだ。
『おまえ達、中々良い目をしているなぁ!このごみ溜めの中に在って尚輝きを失わない柘榴石の瞳に天青石の瞳!うん!気に入った!おまえ達、私の弟子になれ!』
『は……?』
『で、でし……?』
『あぁ、そうだ!おまえ達をここで腐らせるのは余りに惜しい!私は探窟家だ!価値有るものを掘り出して見つけるのは大得意なんだ!』
腐った街で腐った日々を送っていた二人にとって、それは強烈過ぎるくらい鮮烈な出会いであり、そして救いだった。
あの時に向けられた鮮やかな満面の笑みは今も網膜に焼き付いたまま、脳裏から離れずにいる。
そうして、眩く光る豊かな金の髪を翻しながら、ライザはノラとジルオの首根っこを引っ掴んで掻っ攫い、半ば強引に弟子にした。もう、二十年以上昔の事だ。
師であるライザと共に行けた探窟は数える程ではあるが、それでもライザと共に過ごした日々は今も尚、太陽のように輝いている。
(確かに、ライザさんは俺の『憧れ』だった)
彼女がジルオに与えた光はとてつもなく大きかった。
――『底』を目指して旅立った彼女から託されていた小さな光を、小さな光が抱いていた『憧れ』を、ジルオ自身が見落としてしまう程度には。
ビュゥ、と冷えきった風が頬を掠めた。
辿り着いたのは、奈落の大穴――『アビス』へとはみ出した足場。
明るみを増してきた空とは逆に、奈落の大穴は夜の闇より黒々と全てを飲み込んでしまいそうな暗黒色を湛えている。
ジルオは上着についたポケットの中をモゾモゾと探った。
取り出したのは『ルトは奈落へ還り巡る』と書かれた黒い札と小さな袋に入れられた僅かな遺灰、それから白いトコシエコウの花弁。
「……底で待っていてくれ、ルト。俺も、すぐに其処へ向かう」
慈しみに溢れた温かな声音がそっと響く。
長く弔う事の出来なかった彼女の為に、ジルオは静かにそれらを奈落へと手放した。
ジルオの手を離れ、一瞬で闇の中へと吸い込まれて消えてゆく弔いの品々。それらを愛おしそうに、しかし寂しそうに見据えるジルオの横顔を見守りながら、ノラは胸ポケットから煙草を取り出して口に咥えた。
「それにしても、まさかおまえまでリコちゃん達と同じ場所から底を目指す事になるとはね」
ノラは何年か前に『憧れ』を追いかけて奈落の奥底へと旅立って行った少女の名を口にしながら煙草に火を灯す。
ジルオはそんなノラの呟きには応えなかった。
多くの探窟家たちが未知への浪漫を求め真実を解き明かそうと挑む奈落の果て。ライザも例に漏れず、底を目指して随分と前に旅立っていった。
だが、ジルオが追いかけるのは『憧れ』ではなく『彼女の面影』なのだろう。……アビスには『魂は星の底に還る』という信仰がある。
ノラが紫煙をひとしきり吐き出し、フィルターを残すのみとなった煙草をもみ消せば、ジルオは丁度帰らぬ旅の準備を終えていた。
「もう、行くのか?」
「……あぁ」
「寂しくなるなぁ」
「すまない。今まで……世話になった」
神妙な顔を見せるジルオに対してノラはニヤニヤとした笑みを向ける。
「うーわ。らしくねーなぁ。てーか。どっちかってーと世話されてたのって俺の方だしぃ?」
別れを前にしても尚 普段と何ら変わらないノラの軽口。
それを聞いてジルオは僅かながらに目を丸くした。
いつもずっと聞いてきた兄貴分の軽妙な言葉が、ジルオの重たかった気持ちを少しだけ軽くした。
「ふ……っ、確かに、な」
ジルオの口から自然と微かな笑い声が漏れる。
ノラはそれを聞いて満足気にヘラヘラと笑った。
「ま、俺はやるときゃやる男だかんな。世話焼きの弟分がいなくなったって何とかしてみせるさ」
「どうだか。書類、溜め込みすぎるなよ?」
「ん、んー……ハイ。努力シマス」
「じゃぁな、ノラ」
「おう」
短い別れの言葉を遺して、ジルオはぐっとロープを握る。
ノラがヒラヒラと緩慢に手を降れば、その姿はあっという間に闇の中へ消えていった。
後に残ったのは、穴へと潜る為に使われたロープだけ。
『あの日』感じとった『予感』を、止める事はできなかった。
ノラの横髪を留める〝天啓鋼〟で作られたヘアピンが朝日を受けてキラリと光る。
「ライザさんとリコちゃんに続いて……ジルオまで居なくなっちまうとはなぁ……」
『どんな形でもいいから、あの人の傍にいたい』と願った少女がいた。
彼の為に『全て』を捧げるという『意思』を持って『命を響く石』へ加工される事を選んだ少女。
ノラは深淵を見つめ、少女の名前を口にした。
「ルトちゃん……君は、こうなるってわかっていて〝白笛〟になったのかねぇ……」
命を響く石――それは、探窟家を奈落の底へと導く為に必要な『白笛』の原料。
そして、命を響く石を作る為に必要な材料は――『人間』である。
キン、と冷えた空気を吸って肺を満たせば心做しか胸を刺すような痛みがしたような気がした。
それはまるで横を歩く弟分のジルオの心情を表しているようだ、とノラは白い息を吐く。
「懐かしいねー、ここ」
「あぁ」
オース南区に位置する岸壁街の入り口に辿り着いた二人。ノラはボソリと言葉を落とし、ジルオも短く相槌を打った。
寒風に吹かれ、ノラの一つに縛った明るい銅色をした後ろ髪が、ジルオの鈍い銀色をした無造作な前髪が揺れる。
岸壁街は俗に言うスラム街だ。
辺りには上下左右考えなしに建て増しを繰り返された所為で猥雑になってしまった建物たちが所狭しとひしめき合っている。
複雑に入り組む路地を二人は迷う事なく歩いた。
衛生状態が良いとは決して言えぬ街。
周囲には、糞尿と腐敗物を混ぜこぜにしたような匂いが薄らと漂っている。
「お別れの場所にしちゃぁここはちょっと臭うんじゃない?」
ノラは冗談めかしてハハッと笑い、ジルオは僅かに眉を潜めて嘆息を漏らした。
「公的に言えば俺は黒笛だからな。俺だけの白笛を持っているとはいえ……奈落門を潜る正規のルートを辿って絶界行を果たす事はできない」
淡白な返事を返しながらジルオは自身の首にかけている白い笛に視線を落とす。
それは、二人の師匠である伝説の白笛・殲滅のライザが所持していた笛にとても酷似していた。
強いて言うなら……ジルオの所持する白笛の方が、ライザの持っていた白笛よりもやや小さい、だろうか。
「確かにここは酷い街だ。だが、岸壁街は俺たちにとっての故郷であり、出会いの場所でもある」
「そうなんだけど、ねー」
この街で、幼き日のノラとジルオは師匠であるライザに拾われた。
屑拾い、物乞い、窃盗……生きる為とはいえ何でもやった。
ライザと出会ったきっかけも、彼女相手にスリを働こうとしたからだ。
ノラとジルオの二人でこっそり彼女から財布をスろうと近づいたら渾身の力で彼女に投げ飛ばされた。
当時、幼かった二人は『殲滅卿』などという随分と物騒な二つ名を、一般的な体躯をした若い女性が背負っているとは思わなかったのだ。
『おまえ達、中々良い目をしているなぁ!このごみ溜めの中に在って尚輝きを失わない柘榴石の瞳に天青石の瞳!うん!気に入った!おまえ達、私の弟子になれ!』
『は……?』
『で、でし……?』
『あぁ、そうだ!おまえ達をここで腐らせるのは余りに惜しい!私は探窟家だ!価値有るものを掘り出して見つけるのは大得意なんだ!』
腐った街で腐った日々を送っていた二人にとって、それは強烈過ぎるくらい鮮烈な出会いであり、そして救いだった。
あの時に向けられた鮮やかな満面の笑みは今も網膜に焼き付いたまま、脳裏から離れずにいる。
そうして、眩く光る豊かな金の髪を翻しながら、ライザはノラとジルオの首根っこを引っ掴んで掻っ攫い、半ば強引に弟子にした。もう、二十年以上昔の事だ。
師であるライザと共に行けた探窟は数える程ではあるが、それでもライザと共に過ごした日々は今も尚、太陽のように輝いている。
(確かに、ライザさんは俺の『憧れ』だった)
彼女がジルオに与えた光はとてつもなく大きかった。
――『底』を目指して旅立った彼女から託されていた小さな光を、小さな光が抱いていた『憧れ』を、ジルオ自身が見落としてしまう程度には。
ビュゥ、と冷えきった風が頬を掠めた。
辿り着いたのは、奈落の大穴――『アビス』へとはみ出した足場。
明るみを増してきた空とは逆に、奈落の大穴は夜の闇より黒々と全てを飲み込んでしまいそうな暗黒色を湛えている。
ジルオは上着についたポケットの中をモゾモゾと探った。
取り出したのは『ルトは奈落へ還り巡る』と書かれた黒い札と小さな袋に入れられた僅かな遺灰、それから白いトコシエコウの花弁。
「……底で待っていてくれ、ルト。俺も、すぐに其処へ向かう」
慈しみに溢れた温かな声音がそっと響く。
長く弔う事の出来なかった彼女の為に、ジルオは静かにそれらを奈落へと手放した。
ジルオの手を離れ、一瞬で闇の中へと吸い込まれて消えてゆく弔いの品々。それらを愛おしそうに、しかし寂しそうに見据えるジルオの横顔を見守りながら、ノラは胸ポケットから煙草を取り出して口に咥えた。
「それにしても、まさかおまえまでリコちゃん達と同じ場所から底を目指す事になるとはね」
ノラは何年か前に『憧れ』を追いかけて奈落の奥底へと旅立って行った少女の名を口にしながら煙草に火を灯す。
ジルオはそんなノラの呟きには応えなかった。
多くの探窟家たちが未知への浪漫を求め真実を解き明かそうと挑む奈落の果て。ライザも例に漏れず、底を目指して随分と前に旅立っていった。
だが、ジルオが追いかけるのは『憧れ』ではなく『彼女の面影』なのだろう。……アビスには『魂は星の底に還る』という信仰がある。
ノラが紫煙をひとしきり吐き出し、フィルターを残すのみとなった煙草をもみ消せば、ジルオは丁度帰らぬ旅の準備を終えていた。
「もう、行くのか?」
「……あぁ」
「寂しくなるなぁ」
「すまない。今まで……世話になった」
神妙な顔を見せるジルオに対してノラはニヤニヤとした笑みを向ける。
「うーわ。らしくねーなぁ。てーか。どっちかってーと世話されてたのって俺の方だしぃ?」
別れを前にしても尚 普段と何ら変わらないノラの軽口。
それを聞いてジルオは僅かながらに目を丸くした。
いつもずっと聞いてきた兄貴分の軽妙な言葉が、ジルオの重たかった気持ちを少しだけ軽くした。
「ふ……っ、確かに、な」
ジルオの口から自然と微かな笑い声が漏れる。
ノラはそれを聞いて満足気にヘラヘラと笑った。
「ま、俺はやるときゃやる男だかんな。世話焼きの弟分がいなくなったって何とかしてみせるさ」
「どうだか。書類、溜め込みすぎるなよ?」
「ん、んー……ハイ。努力シマス」
「じゃぁな、ノラ」
「おう」
短い別れの言葉を遺して、ジルオはぐっとロープを握る。
ノラがヒラヒラと緩慢に手を降れば、その姿はあっという間に闇の中へ消えていった。
後に残ったのは、穴へと潜る為に使われたロープだけ。
『あの日』感じとった『予感』を、止める事はできなかった。
ノラの横髪を留める〝天啓鋼〟で作られたヘアピンが朝日を受けてキラリと光る。
「ライザさんとリコちゃんに続いて……ジルオまで居なくなっちまうとはなぁ……」
『どんな形でもいいから、あの人の傍にいたい』と願った少女がいた。
彼の為に『全て』を捧げるという『意思』を持って『命を響く石』へ加工される事を選んだ少女。
ノラは深淵を見つめ、少女の名前を口にした。
「ルトちゃん……君は、こうなるってわかっていて〝白笛〟になったのかねぇ……」
命を響く石――それは、探窟家を奈落の底へと導く為に必要な『白笛』の原料。
そして、命を響く石を作る為に必要な材料は――『人間』である。