本編
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その事務所のような建物の内部は、見た目よりもずっと豪華で近代的な創りだった。何重ものロックがかかった扉をくぐり抜けると、現れたのはテーブルとソファの置かれたシンプルかつ広い部屋。勘解由小路無花果の部下はそこで退出を命じられ、ようやく大勢の監視の目から逃れてほっと安堵の息をつく。
乱数は部屋に入るなり、真ん中のソファにぼすんと音を立てて腰掛け「あー疲れたっ、ここでどんなお話するのー?オネーサン」と足をぶらぶらさせた。
「ふん、大体のことは予想がついているだろうに」と勘解由小路無花果が溜め息をつき、「お前もここに座れ」と言われたので「失礼します……」と恐る恐る乱数の隣に腰掛ける。
私としては勘解由小路無花果の隣に行くのはさすがに怖かっただけなのだが「わあーっ、麻子ちゃんの隣だーっ!」と乱数がわざとらしく声を上げ、ぎゅっと腕を組んで抱きついてきて、ぞわっと鳥肌が立つ。
しばらく会っていなかったとはいえ、私にとって乱数とのことはけっこうトラウマなのだ。いきなり抱きつくのはやめてほしい。まあ、言ったところでやめてくれるはずもないので黙っておくけど。
「貴様──湊川麻子にやってもらいたいことは、大きく分けてふたつだ」
勘解由小路無花果がよく通る声で話し出した。
「ひとつ、神宮寺寂雷が中王区への反逆を企てた場合、人質としてその身を差し出すこと。ふたつ、飴村が中王区に黙って勝手な動きをしないように監視すること」
「もーっ、監視なんてしなくても逆らったりしないのに!」
「馬鹿を言え。今まで中王区の許可なしに行動した数々のこと……気づかれていないとでも思ったか」
「わわっ、オネーサンこわいーっ」
勘解由小路無花果の鋭い視線から逃れるように、さらに乱数が私の腕に密着する。私はさらに恐怖で身を縮めたが、ただ黙って震えていることしかできない。
「……ただ、現時点でお前がやることは少ない。神宮寺寂雷が反逆を企てる可能性は低いとこちらも見ているし、言うなれば貴様は最後の手段だ。主にやってほしいのは飴村の監視。そこで貴様には…」
「あ、あの……ちょっと質問、いいですか」
私は、どうしても気になったことがあったので、思い切って話の途中で手を挙げた。勘解由小路無花果は一瞬ピリッとした目でこちらを見たが、「いいだろう」と私の発言を許可してくれる。
「あの……張本人である私が言うのもなんですが、人質であれば、私にわざわざ伝える必要はなかったのではないでしょうか……中王区ならば、今日のように無理やり誘拐することはそう難しくないはずですし……」
「ほう、お前、察しがいいな。その質問に答えよう」
勘解由小路無花果は妖艶に笑い、口を動かす。
「湊川麻子──お前は、神宮寺寂雷の過去を知っているか?」
「過去……?先生、の……? 」
「その様子だと知らされていないようだな。では教えよう。あの男は、元は凄腕の殺し屋だ」
「──え──?」
私は、一瞬自分の耳を疑った。しかし、勘解由小路無花果の声色は至って真剣で、わけが分からなくなる。
「今は医者一本でやっているようだが、人体の仕組みを知り尽くしたあの男の殺しの技術は、他に例がない。中王区でも、残念ながらマイク以外ではあの男に及ばない。それに、これから奴はラップの技術も習得する予定だから、さらに危険な相手になっていくだろう」
「う……そ、だ……先生が、そんな……」
「オネーサン、なんか麻子話聞くどころじゃないっぽいよー?震えちゃってる、だいじょーぶ?」
さほど心配しているとは思えない様子で、乱数が私の頬をつつく。私は、あまりの衝撃に震えが止まらなくて、現実を受け入れられなくて、誰の話も耳に入ってこなかった。先生が、殺し屋。あの聖人みたいな先生が、殺し屋。到底信じられない。だけど、勘解由小路無花果の口調を見る限り恐らく本当だ。信じられないけれど、きっと本当なのだ。それなら、なんで私に隠していたのだろう。いや、普通に考えて元殺し屋ですなんて大切な人にこそ言えないものだろう。きっと寂雷先生にも、人には言えない事情があったのだ。そうだ。落ち着け、私。私は、なんとか気持ちを落ち着かせようとゆっくり深呼吸をする。
「……話を続けていいか」
「……大丈夫、です……」
「……いいだろう。そんな奴が大事にしているものを奪われそうになったなら、何が起こるか分からない。そんなときに、無理やり誘拐するというプランだけでは、容易に阻止されてしまうのは目に見えている。だから、お前に事前に知らせておくことで、先回りされるのを防ぐというわけだ」
「さっすが中王区!何から何まで用意周到だね!」
乱数がその場の空気に不釣り合いな明るい声で言う。
「ひとつめの仕事については以上だ。他に質問はあるか」
「……ありません。ありがとうございます」
私がそう答えてすぐ、勘解由小路無花果は別の話題を切り出した。
「いいだろう。次はふたつめの飴村の監視についてだ」
「ぷんぷんっ、ボクそれ、まだちょっと不服なんだけどなー?」
「お前は少し黙っておけ。……そこで話題に上がるのが、先程言ったラップチームのマネージャーの件だ」
「ああ……あの、車の中での……!」
私は思わず声を上げる。一番分からなかったことだからだ。
「表向きのマネージャーの仕事は、誰にでもできる雑用がほとんどだ。内容は飴村に通達するから、飴村に聞いてその都度仕事をこなしてくれればいい」
「麻子がマネージャーになるんだね?なら、チームに入ってる間は、麻子とずっと一緒にいられるんだ。悪くないかも♡」
「ひいぃっ!?」
いきなり乱数の腕が首に絡みついてきて、首筋に頬をすり寄せられる。本能的な恐怖を感じて後ずさると、乱数はその表情にほんの少しだけ不満そうな色を宿して、ぷうっと頬を膨らませた。
「……もー、そんなに怖がらなくたっていいじゃん」
「飴村、巫山戯るのも大概にしろ。あまり調子に乗ると、いくらお前でもそれ相応の処置を下すからな」
「ごめんってばー無花果オネーサン、いいよ、続けて?」
乱数がにこっと余所行きの笑顔で微笑んで、私の首からぱっと腕を離す。 勘解由小路無花果は呆れたようにため息をつき、再び口を開いた。
「……今から話すことがお前の役目だ。この端末を使って、変わったことがあれば連絡してほしい。この端末には厳重なセキュリティロックがかかっているから、余程のことがない限り第三者によって開かれることはない。もちろん飴村にもだ」
「オネーサンさすがにボクのこと疑いすぎじゃない?激おこぷんぷん丸だよっ!!」
「当然だ。この計画に失敗は許されないからな。今話したことについて、何か質問はあるか」
「だ、大丈夫です」
私は短くそう答える。最初は心配だったけれど、あまり難しそうなことではないみたいだ。とはいえ、乱数と共謀して行動しなければいけないのは、かなり骨が折れるだろうけど──中王区の役人にここまで言われている以上、拒否権なんてあるはずもない。拒否したら絶対に消される。間違いない。
「いいだろう。……こちらの命令ばかり話してしまったが、実のところ私たちは、女性を強制的に使役するなんてことはしたくない。中王区の役人が弱い立場の女性を搾取しては、国民の信頼を裏切ることになるからな。……私が言いたいことが分かるか?」
「え……っと……?」
突然の問いに目を白黒させていると、勘解由小路無花果は再び口を開いた。
「これは、一方的な命令ではない。こちらにもお前にも、きちんとした利益がある取引だ」
「え……?それはつまり……?」
「お前が仕事をきちんとこなしてくれている間は、私たちがあらゆる危険からお前を守ることを約束しよう。それは、身内からの搾取や暴力もだ。だから、お前は飴村に怯えなくていい」
「ほ、本当ですか……!?」
願ってもみない提案に、私は目を輝かせる。反対に、乱数は誰にも聞こえないくらいに小さく舌打ちをした、ような気がした。
「お前が飴村と会う場所には、監視カメラが張り巡らされている。死角になる部分はほとんどない。そして、その映像は全て録画されていて、お前に渡したその端末で見ることができる。つまり、証拠は全て残っているということだ。もし飴村に変なことをされたら、その端末で連絡してくれれば、すぐに適切な処置を下す。どうだ?お前にとっては、これ以上ないほどの条件だろう?」
勘解由小路無花果が、真っ赤に塗られた唇を釣り上げてにやりと笑う。確かに、私にとってその案はとても魅力的だった。乱数が戻ってきた今、何をされるか分からない恐怖から抜けることができる。それに、この体制ならもしかすると、長年のわだかまりを解くことも夢じゃないかもしれない。私は膝の上で拳を握りしめて、勘解由小路無花果のことをまっすぐに見据える。
「勘解由小路無花果さん、やります。私、この仕事。やらせてください」
「ふん、交渉成立だな」
勘解由小路無花果が満足そうに笑う。その前で、乱数は真意の分からない笑みを浮かべながら、私たちのやりとりを黙って見守っていた。
そして、私はここで聞いたことを絶対に内密にするという内容が書かれた契約書を何枚か書き終えると、勘解由小路無花果に続いて部屋を出ていこうとした。すると、「ねえねえ麻子ー?」と明るい乱数の声が後ろから聞こえて、振り向くとそこにはいつもの笑顔を浮かべた乱数が、手を差し出して立っていた。
「……今まで色々、嫌なことしてごめんね。これからは、ちゃんと仲良くしよっ、これは、仲直りの握手!」
これも、駄目かな?と乱数は眉を下げて私の顔を覗き込んでくる。私は少し考えたが、勘解由小路無花果がいるこの部屋で、下手なことはしないだろうと思い、その手を取った。
握った乱数の手は、大きさはあまり変わっていないけれど、少し骨ばっていてこれでもれっきとした成人男性なのだと気付かされる。乱数も何もしてこないし、やっぱり成長したんだな、と思いながら、上下に手を振る乱数にされるがままになっていると、不意に、ぐっといきなり顔の距離が縮まった。近い、と思ったときにはもう遅かった。耳元でかすかに唇が動いて、すぐに離れていく。
「逃げられると思うなよ」
いつもの乱数からは想像できないような、低い男性の声だった。顔から血の気が引いていく。それから乱数は何事もなかったかのようににっこりと笑うと、勘解由小路無花果に続いて私の横を通り過ぎていった。
乱数は部屋に入るなり、真ん中のソファにぼすんと音を立てて腰掛け「あー疲れたっ、ここでどんなお話するのー?オネーサン」と足をぶらぶらさせた。
「ふん、大体のことは予想がついているだろうに」と勘解由小路無花果が溜め息をつき、「お前もここに座れ」と言われたので「失礼します……」と恐る恐る乱数の隣に腰掛ける。
私としては勘解由小路無花果の隣に行くのはさすがに怖かっただけなのだが「わあーっ、麻子ちゃんの隣だーっ!」と乱数がわざとらしく声を上げ、ぎゅっと腕を組んで抱きついてきて、ぞわっと鳥肌が立つ。
しばらく会っていなかったとはいえ、私にとって乱数とのことはけっこうトラウマなのだ。いきなり抱きつくのはやめてほしい。まあ、言ったところでやめてくれるはずもないので黙っておくけど。
「貴様──湊川麻子にやってもらいたいことは、大きく分けてふたつだ」
勘解由小路無花果がよく通る声で話し出した。
「ひとつ、神宮寺寂雷が中王区への反逆を企てた場合、人質としてその身を差し出すこと。ふたつ、飴村が中王区に黙って勝手な動きをしないように監視すること」
「もーっ、監視なんてしなくても逆らったりしないのに!」
「馬鹿を言え。今まで中王区の許可なしに行動した数々のこと……気づかれていないとでも思ったか」
「わわっ、オネーサンこわいーっ」
勘解由小路無花果の鋭い視線から逃れるように、さらに乱数が私の腕に密着する。私はさらに恐怖で身を縮めたが、ただ黙って震えていることしかできない。
「……ただ、現時点でお前がやることは少ない。神宮寺寂雷が反逆を企てる可能性は低いとこちらも見ているし、言うなれば貴様は最後の手段だ。主にやってほしいのは飴村の監視。そこで貴様には…」
「あ、あの……ちょっと質問、いいですか」
私は、どうしても気になったことがあったので、思い切って話の途中で手を挙げた。勘解由小路無花果は一瞬ピリッとした目でこちらを見たが、「いいだろう」と私の発言を許可してくれる。
「あの……張本人である私が言うのもなんですが、人質であれば、私にわざわざ伝える必要はなかったのではないでしょうか……中王区ならば、今日のように無理やり誘拐することはそう難しくないはずですし……」
「ほう、お前、察しがいいな。その質問に答えよう」
勘解由小路無花果は妖艶に笑い、口を動かす。
「湊川麻子──お前は、神宮寺寂雷の過去を知っているか?」
「過去……?先生、の……? 」
「その様子だと知らされていないようだな。では教えよう。あの男は、元は凄腕の殺し屋だ」
「──え──?」
私は、一瞬自分の耳を疑った。しかし、勘解由小路無花果の声色は至って真剣で、わけが分からなくなる。
「今は医者一本でやっているようだが、人体の仕組みを知り尽くしたあの男の殺しの技術は、他に例がない。中王区でも、残念ながらマイク以外ではあの男に及ばない。それに、これから奴はラップの技術も習得する予定だから、さらに危険な相手になっていくだろう」
「う……そ、だ……先生が、そんな……」
「オネーサン、なんか麻子話聞くどころじゃないっぽいよー?震えちゃってる、だいじょーぶ?」
さほど心配しているとは思えない様子で、乱数が私の頬をつつく。私は、あまりの衝撃に震えが止まらなくて、現実を受け入れられなくて、誰の話も耳に入ってこなかった。先生が、殺し屋。あの聖人みたいな先生が、殺し屋。到底信じられない。だけど、勘解由小路無花果の口調を見る限り恐らく本当だ。信じられないけれど、きっと本当なのだ。それなら、なんで私に隠していたのだろう。いや、普通に考えて元殺し屋ですなんて大切な人にこそ言えないものだろう。きっと寂雷先生にも、人には言えない事情があったのだ。そうだ。落ち着け、私。私は、なんとか気持ちを落ち着かせようとゆっくり深呼吸をする。
「……話を続けていいか」
「……大丈夫、です……」
「……いいだろう。そんな奴が大事にしているものを奪われそうになったなら、何が起こるか分からない。そんなときに、無理やり誘拐するというプランだけでは、容易に阻止されてしまうのは目に見えている。だから、お前に事前に知らせておくことで、先回りされるのを防ぐというわけだ」
「さっすが中王区!何から何まで用意周到だね!」
乱数がその場の空気に不釣り合いな明るい声で言う。
「ひとつめの仕事については以上だ。他に質問はあるか」
「……ありません。ありがとうございます」
私がそう答えてすぐ、勘解由小路無花果は別の話題を切り出した。
「いいだろう。次はふたつめの飴村の監視についてだ」
「ぷんぷんっ、ボクそれ、まだちょっと不服なんだけどなー?」
「お前は少し黙っておけ。……そこで話題に上がるのが、先程言ったラップチームのマネージャーの件だ」
「ああ……あの、車の中での……!」
私は思わず声を上げる。一番分からなかったことだからだ。
「表向きのマネージャーの仕事は、誰にでもできる雑用がほとんどだ。内容は飴村に通達するから、飴村に聞いてその都度仕事をこなしてくれればいい」
「麻子がマネージャーになるんだね?なら、チームに入ってる間は、麻子とずっと一緒にいられるんだ。悪くないかも♡」
「ひいぃっ!?」
いきなり乱数の腕が首に絡みついてきて、首筋に頬をすり寄せられる。本能的な恐怖を感じて後ずさると、乱数はその表情にほんの少しだけ不満そうな色を宿して、ぷうっと頬を膨らませた。
「……もー、そんなに怖がらなくたっていいじゃん」
「飴村、巫山戯るのも大概にしろ。あまり調子に乗ると、いくらお前でもそれ相応の処置を下すからな」
「ごめんってばー無花果オネーサン、いいよ、続けて?」
乱数がにこっと余所行きの笑顔で微笑んで、私の首からぱっと腕を離す。 勘解由小路無花果は呆れたようにため息をつき、再び口を開いた。
「……今から話すことがお前の役目だ。この端末を使って、変わったことがあれば連絡してほしい。この端末には厳重なセキュリティロックがかかっているから、余程のことがない限り第三者によって開かれることはない。もちろん飴村にもだ」
「オネーサンさすがにボクのこと疑いすぎじゃない?激おこぷんぷん丸だよっ!!」
「当然だ。この計画に失敗は許されないからな。今話したことについて、何か質問はあるか」
「だ、大丈夫です」
私は短くそう答える。最初は心配だったけれど、あまり難しそうなことではないみたいだ。とはいえ、乱数と共謀して行動しなければいけないのは、かなり骨が折れるだろうけど──中王区の役人にここまで言われている以上、拒否権なんてあるはずもない。拒否したら絶対に消される。間違いない。
「いいだろう。……こちらの命令ばかり話してしまったが、実のところ私たちは、女性を強制的に使役するなんてことはしたくない。中王区の役人が弱い立場の女性を搾取しては、国民の信頼を裏切ることになるからな。……私が言いたいことが分かるか?」
「え……っと……?」
突然の問いに目を白黒させていると、勘解由小路無花果は再び口を開いた。
「これは、一方的な命令ではない。こちらにもお前にも、きちんとした利益がある取引だ」
「え……?それはつまり……?」
「お前が仕事をきちんとこなしてくれている間は、私たちがあらゆる危険からお前を守ることを約束しよう。それは、身内からの搾取や暴力もだ。だから、お前は飴村に怯えなくていい」
「ほ、本当ですか……!?」
願ってもみない提案に、私は目を輝かせる。反対に、乱数は誰にも聞こえないくらいに小さく舌打ちをした、ような気がした。
「お前が飴村と会う場所には、監視カメラが張り巡らされている。死角になる部分はほとんどない。そして、その映像は全て録画されていて、お前に渡したその端末で見ることができる。つまり、証拠は全て残っているということだ。もし飴村に変なことをされたら、その端末で連絡してくれれば、すぐに適切な処置を下す。どうだ?お前にとっては、これ以上ないほどの条件だろう?」
勘解由小路無花果が、真っ赤に塗られた唇を釣り上げてにやりと笑う。確かに、私にとってその案はとても魅力的だった。乱数が戻ってきた今、何をされるか分からない恐怖から抜けることができる。それに、この体制ならもしかすると、長年のわだかまりを解くことも夢じゃないかもしれない。私は膝の上で拳を握りしめて、勘解由小路無花果のことをまっすぐに見据える。
「勘解由小路無花果さん、やります。私、この仕事。やらせてください」
「ふん、交渉成立だな」
勘解由小路無花果が満足そうに笑う。その前で、乱数は真意の分からない笑みを浮かべながら、私たちのやりとりを黙って見守っていた。
そして、私はここで聞いたことを絶対に内密にするという内容が書かれた契約書を何枚か書き終えると、勘解由小路無花果に続いて部屋を出ていこうとした。すると、「ねえねえ麻子ー?」と明るい乱数の声が後ろから聞こえて、振り向くとそこにはいつもの笑顔を浮かべた乱数が、手を差し出して立っていた。
「……今まで色々、嫌なことしてごめんね。これからは、ちゃんと仲良くしよっ、これは、仲直りの握手!」
これも、駄目かな?と乱数は眉を下げて私の顔を覗き込んでくる。私は少し考えたが、勘解由小路無花果がいるこの部屋で、下手なことはしないだろうと思い、その手を取った。
握った乱数の手は、大きさはあまり変わっていないけれど、少し骨ばっていてこれでもれっきとした成人男性なのだと気付かされる。乱数も何もしてこないし、やっぱり成長したんだな、と思いながら、上下に手を振る乱数にされるがままになっていると、不意に、ぐっといきなり顔の距離が縮まった。近い、と思ったときにはもう遅かった。耳元でかすかに唇が動いて、すぐに離れていく。
「逃げられると思うなよ」
いつもの乱数からは想像できないような、低い男性の声だった。顔から血の気が引いていく。それから乱数は何事もなかったかのようににっこりと笑うと、勘解由小路無花果に続いて私の横を通り過ぎていった。