番外編
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それから数日後のこと。麻子くんの容態は、病院での生活によってみるみるうちに回復していった。そして、少しずつ診察や軽い世間話をするうちに、この環境にも慣れて、入れ替わりで来る看護師とも打ち解けてくれているようだった。特に、篠原さんとはかなり気が合って仲良くなったらしく、彼女と話している時は笑顔まで見せるようになっていた。
おそらく、彼女が思ったよりも早く私に心を開いてくれるようになったのは、大半が篠原さんによる恩恵に違いない。そう思うほどに、毎日の診察での話題はほとんど篠原さんのことが中心だった。篠原さんのことを話題に出すと、途端に顔色が明るくなり、饒舌になる彼女が何だか微笑ましい。そんな風に、まるで彼女を自分の娘のように思い始めている自分に驚きながらも、以前よりも少し楽しい時間を過ごすことが多くなっていた、そんなある日。いつものように診察で麻子くんの病室に入ると、昨日より少し彼女の顔色が悪いことに気がついた。
「おはよう、麻子くん。調子はどうだい?何だか少し、顔色が悪いように見えるけれど」
「おはようございます……あ、そう見えますか?ちょっと、悪い夢を見てしまって……」
あんまりよく眠れなくて、と呟く彼女に、「どんな夢だったんだい?」と私は自然な流れで聞いた。すると彼女は少し顔色を曇らせて、どこか遠くの方を見るように下を向きながら、一つ一つ思い出すように口にしていった。
「お母さん、が……私のこと、産まなきゃ、よかった……って……言って……それで、許して……って言って、泣いてたら……足音がして……らむだが、あらわれ……」
「麻子くん。もういいよ」
また過呼吸を起こしかけているよ、と言って彼女の両肩に手を置くと、彼女はハッと気づいて胸元を強く掴み、俯いて大きく息を吐き出した。できるだけ優しく背中を摩りながら、呼吸を落ち着けるために私が唱えるリズムで呼吸してもらうと、すぐに元の状態に戻った。彼女は申し訳なさそうに「すみません」と言って、何かを言い淀むように口を動かしてからまた口を開いた。
「……私のお母さん、昔男の人に暴力振るわれてて、私って、その人に無理やり産まされた子供なんです。その人とは私が小さい頃に別れたらしくて、私は顔も覚えてないんですけど、そのせいで私、お母さんに嫌われてて……『成長するにつれて、お前の顔がどんどんあの人に似てくる』『お前が憎くて仕方がない』『お前さえいなければ、私は幸せになれてた』……たまに帰ってきたと思ったら、そんな感じのことずっと言われて……お金がなくて、生活保護で何とか生活してたので、携帯電話も持ってないんです。私」
彼女が落ち着いた様子で話しているので、私は止めなかった。しかし、内心ではかなり衝撃を受けていた。この子は、どれだけ辛い思いをして、今までの人生を過ごしてきたのだろう。出会ったときから訳ありな子なのだろうと思ってはいたが、ここまでとは想像もつかなかった。
ふと、初めて出会ったときに、彼女が口にしていた寝言のことを思い出す。そして、彼女の荷物の中を見た時に感じた違和感のことも。彼女の言葉で、全て合点がいった。きっとあの時、彼女は昨日と同じような夢を見ていたのだ。自分の肉親に、泣きながら許しを乞う夢を。想像するだけで、胸が締め付けられる感覚がした。
「……話してくれて、ありがとう。保護だけで暮らしていくのは、大変だっただろう。食事や生活は、親戚か誰かが助けてくれていたのかい?」
「それは……その……そう、です……」
一瞬、彼女の瞳に陰りが見えたような気がした。もしかして嘘をついているのではないかと思ったが、そこも訳ありなのかもしれないと思い、追求するのはやめた。それからは普通の世間話をして、挨拶をしながら病室から立ち去り、歩いている途中、私はある重大なことについて考えていた。
彼女は、あの話と態度から察するに身寄りがいない。ということは、この病院を出た後は児童相談所で保護され、成人するまでそこで暮らすことになるのだろう。私は、多くの同じような境遇の子供たちに囲まれて過ごす麻子くんの姿を想像してみた。しかし、何だかしっくりこなかった。そして、私の頭の隅には、普通に考えたら馬鹿らしい、ある突飛な考えがちらついていた。無責任に選んでいいことじゃない。相当の覚悟と、お互いの強い信頼がなければ、成り立たない選択だ。しかし、もしそれを実現することができれば、彼女は──。そんな考えが、次の仕事で看護師に呼ばれるまで、暫く頭の中を離れなかった。
***
それからまた数日後。今度は夜の回診の時に、麻子くんが「話があるんです」と真剣な顔で言ってきたので、次の日の朝の回診はいつもより少し長めに時間を取った。その時話されたのは、以前話された家族のことと同じくらいに衝撃的な内容だった。なんと、同い年の飴村乱数という少年に、ずっと無理やり身体の関係を求められていたらしい。この病院にたどり着いたのも、その少年が原因なのだと。
「ごめんなさい……私、あの時、嘘をつきました。食べ物がないときとかは、親戚じゃなくて、いつも乱数に頼っていたんです……本当は、嫌いなわけじゃないんですけど、もう今は……怖いっていう気持ちの方が強すぎて……」
時折涙を流しながら語る彼女の言葉を、私はただ受け止めて頭を撫でることしかできなかった。親に虐待されていたうえに、幼なじみにまで支配されていただなんて。そんなの、精神を病んでしまうのもいた仕方ないではないか。そう思ってしまうくらい、泣いている彼女を見ている自分まで辛くてならなかった。そして、彼女のことを害した母親、父親、そして飴村乱数、全てが憎いと思った。こんな激情が芽生えるだなんて、らしくないと思いつつも、考えずにはいられなかった。
そして、私はこの話を聞いて、ついにあの時考えた手段を実行に移す決心をした。彼女のことを、自分の元で守るという決断を。
「この病院で働いて、近くの寮で篠原さんと一緒に暮らさないかい?」
その提案を聞いた瞬間、麻子くんは信じられないといった表情で、「迷惑じゃないんですか」と言いながらぼろぼろと涙をこぼし始めた。迷惑だなんてとんでもない。むしろこの手段は、半分は私と篠原さんのエゴであるといっても過言ではないのだ。
この決心を意を決して篠原さんに話してみたとき、彼女は驚いた顔をして「ちょうど私も、同じようなことを考えていたところなんです。私1人じゃ無理だけど、神宮寺先生の力があれば、大丈夫かも」と言った。実は私に話すよりも前に、篠原さんには自分の家族のこと、飴村乱数のこと全てを話していたのだそうだ。それから少し話をして、改めて彼女と麻子くんの強い信頼関係を実感させられていくうちに、やはり麻子くんの人生を預かるに値する人物は彼女しかいない、と強く感ぜられた。だから、二人で協力してこの子を守っていこう、と決めたのだ。
この決断をしたことで、彼女には普通では味わうことのない辛い思いをさせてしまうかもしれない。もしかして、児童相談所に預けた方が、結果的にはいらない苦労をせずに済むのかもしれない。そう思っていたが、この話を聞いた以上、もう彼女を知らない環境へ放り出すことなんてできそうになかった。
彼女には、今まで味わうことのできなかった「愛情」、そして「拠り所」が必要なのだ。そして、今それができるのは、私たちしかいない。だから決めたのだ。彼女の人生を全力で引き受け、命に替えてでも彼女のことを守ると。そうする覚悟はもうとっくにできている。あとは、彼女がどう思うかだけだ。
ありったけの思いを込めて、麻子くんにその旨を伝えると、彼女は様々な感情が溢れ出したように、途端に瞳を涙でいっぱいにして、堪えきれないという風に私の体に抱きついてきた。私は、突然襲ってきた体温と感触に一瞬戸惑ってしまったが、目の前にいる小さな命を目の前にして、よりいっそうこの子を守りたいという気持ちが強くなるのを感じた。
私は彼女の頭の上に手を置き、短い冗談を交わした後、「これからよろしく」と改めて言った。これが、私と麻子くんの、肉親よりも強くて深い絆が生まれる産声だった。
おそらく、彼女が思ったよりも早く私に心を開いてくれるようになったのは、大半が篠原さんによる恩恵に違いない。そう思うほどに、毎日の診察での話題はほとんど篠原さんのことが中心だった。篠原さんのことを話題に出すと、途端に顔色が明るくなり、饒舌になる彼女が何だか微笑ましい。そんな風に、まるで彼女を自分の娘のように思い始めている自分に驚きながらも、以前よりも少し楽しい時間を過ごすことが多くなっていた、そんなある日。いつものように診察で麻子くんの病室に入ると、昨日より少し彼女の顔色が悪いことに気がついた。
「おはよう、麻子くん。調子はどうだい?何だか少し、顔色が悪いように見えるけれど」
「おはようございます……あ、そう見えますか?ちょっと、悪い夢を見てしまって……」
あんまりよく眠れなくて、と呟く彼女に、「どんな夢だったんだい?」と私は自然な流れで聞いた。すると彼女は少し顔色を曇らせて、どこか遠くの方を見るように下を向きながら、一つ一つ思い出すように口にしていった。
「お母さん、が……私のこと、産まなきゃ、よかった……って……言って……それで、許して……って言って、泣いてたら……足音がして……らむだが、あらわれ……」
「麻子くん。もういいよ」
また過呼吸を起こしかけているよ、と言って彼女の両肩に手を置くと、彼女はハッと気づいて胸元を強く掴み、俯いて大きく息を吐き出した。できるだけ優しく背中を摩りながら、呼吸を落ち着けるために私が唱えるリズムで呼吸してもらうと、すぐに元の状態に戻った。彼女は申し訳なさそうに「すみません」と言って、何かを言い淀むように口を動かしてからまた口を開いた。
「……私のお母さん、昔男の人に暴力振るわれてて、私って、その人に無理やり産まされた子供なんです。その人とは私が小さい頃に別れたらしくて、私は顔も覚えてないんですけど、そのせいで私、お母さんに嫌われてて……『成長するにつれて、お前の顔がどんどんあの人に似てくる』『お前が憎くて仕方がない』『お前さえいなければ、私は幸せになれてた』……たまに帰ってきたと思ったら、そんな感じのことずっと言われて……お金がなくて、生活保護で何とか生活してたので、携帯電話も持ってないんです。私」
彼女が落ち着いた様子で話しているので、私は止めなかった。しかし、内心ではかなり衝撃を受けていた。この子は、どれだけ辛い思いをして、今までの人生を過ごしてきたのだろう。出会ったときから訳ありな子なのだろうと思ってはいたが、ここまでとは想像もつかなかった。
ふと、初めて出会ったときに、彼女が口にしていた寝言のことを思い出す。そして、彼女の荷物の中を見た時に感じた違和感のことも。彼女の言葉で、全て合点がいった。きっとあの時、彼女は昨日と同じような夢を見ていたのだ。自分の肉親に、泣きながら許しを乞う夢を。想像するだけで、胸が締め付けられる感覚がした。
「……話してくれて、ありがとう。保護だけで暮らしていくのは、大変だっただろう。食事や生活は、親戚か誰かが助けてくれていたのかい?」
「それは……その……そう、です……」
一瞬、彼女の瞳に陰りが見えたような気がした。もしかして嘘をついているのではないかと思ったが、そこも訳ありなのかもしれないと思い、追求するのはやめた。それからは普通の世間話をして、挨拶をしながら病室から立ち去り、歩いている途中、私はある重大なことについて考えていた。
彼女は、あの話と態度から察するに身寄りがいない。ということは、この病院を出た後は児童相談所で保護され、成人するまでそこで暮らすことになるのだろう。私は、多くの同じような境遇の子供たちに囲まれて過ごす麻子くんの姿を想像してみた。しかし、何だかしっくりこなかった。そして、私の頭の隅には、普通に考えたら馬鹿らしい、ある突飛な考えがちらついていた。無責任に選んでいいことじゃない。相当の覚悟と、お互いの強い信頼がなければ、成り立たない選択だ。しかし、もしそれを実現することができれば、彼女は──。そんな考えが、次の仕事で看護師に呼ばれるまで、暫く頭の中を離れなかった。
***
それからまた数日後。今度は夜の回診の時に、麻子くんが「話があるんです」と真剣な顔で言ってきたので、次の日の朝の回診はいつもより少し長めに時間を取った。その時話されたのは、以前話された家族のことと同じくらいに衝撃的な内容だった。なんと、同い年の飴村乱数という少年に、ずっと無理やり身体の関係を求められていたらしい。この病院にたどり着いたのも、その少年が原因なのだと。
「ごめんなさい……私、あの時、嘘をつきました。食べ物がないときとかは、親戚じゃなくて、いつも乱数に頼っていたんです……本当は、嫌いなわけじゃないんですけど、もう今は……怖いっていう気持ちの方が強すぎて……」
時折涙を流しながら語る彼女の言葉を、私はただ受け止めて頭を撫でることしかできなかった。親に虐待されていたうえに、幼なじみにまで支配されていただなんて。そんなの、精神を病んでしまうのもいた仕方ないではないか。そう思ってしまうくらい、泣いている彼女を見ている自分まで辛くてならなかった。そして、彼女のことを害した母親、父親、そして飴村乱数、全てが憎いと思った。こんな激情が芽生えるだなんて、らしくないと思いつつも、考えずにはいられなかった。
そして、私はこの話を聞いて、ついにあの時考えた手段を実行に移す決心をした。彼女のことを、自分の元で守るという決断を。
「この病院で働いて、近くの寮で篠原さんと一緒に暮らさないかい?」
その提案を聞いた瞬間、麻子くんは信じられないといった表情で、「迷惑じゃないんですか」と言いながらぼろぼろと涙をこぼし始めた。迷惑だなんてとんでもない。むしろこの手段は、半分は私と篠原さんのエゴであるといっても過言ではないのだ。
この決心を意を決して篠原さんに話してみたとき、彼女は驚いた顔をして「ちょうど私も、同じようなことを考えていたところなんです。私1人じゃ無理だけど、神宮寺先生の力があれば、大丈夫かも」と言った。実は私に話すよりも前に、篠原さんには自分の家族のこと、飴村乱数のこと全てを話していたのだそうだ。それから少し話をして、改めて彼女と麻子くんの強い信頼関係を実感させられていくうちに、やはり麻子くんの人生を預かるに値する人物は彼女しかいない、と強く感ぜられた。だから、二人で協力してこの子を守っていこう、と決めたのだ。
この決断をしたことで、彼女には普通では味わうことのない辛い思いをさせてしまうかもしれない。もしかして、児童相談所に預けた方が、結果的にはいらない苦労をせずに済むのかもしれない。そう思っていたが、この話を聞いた以上、もう彼女を知らない環境へ放り出すことなんてできそうになかった。
彼女には、今まで味わうことのできなかった「愛情」、そして「拠り所」が必要なのだ。そして、今それができるのは、私たちしかいない。だから決めたのだ。彼女の人生を全力で引き受け、命に替えてでも彼女のことを守ると。そうする覚悟はもうとっくにできている。あとは、彼女がどう思うかだけだ。
ありったけの思いを込めて、麻子くんにその旨を伝えると、彼女は様々な感情が溢れ出したように、途端に瞳を涙でいっぱいにして、堪えきれないという風に私の体に抱きついてきた。私は、突然襲ってきた体温と感触に一瞬戸惑ってしまったが、目の前にいる小さな命を目の前にして、よりいっそうこの子を守りたいという気持ちが強くなるのを感じた。
私は彼女の頭の上に手を置き、短い冗談を交わした後、「これからよろしく」と改めて言った。これが、私と麻子くんの、肉親よりも強くて深い絆が生まれる産声だった。