番外編
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※時系列は本編『涙乾かす月光』から
side神宮寺寂雷
まさか、行き倒れの中学生の女の子に、自分がここまで入れ込むだなんて思いもしていなかった。彼女との出会いを振り返ると、事実は小説よりも奇なり、という言葉を痛切に実感する。
まず、初めに彼女に出会ったのは新宿中央病院の前だった。昼食を買いに行こうと外に出たところ、制服を着た中学生ほどの女の子が青白い顔色で倒れていて、かなり驚いてしまったのを覚えている。駆け寄ると同時に目に入ったのは、通学鞄にしては大きい、ボロボロのリュックサック。細すぎる体躯に、青白い顔色。すぐに直感した。この子は恐らく、しばらくまともな食事を取れていない。そして、そのせいで酷い貧血に陥っている。すぐに命に関わる状態ではないとはいえ、このまま放っておけば危ない。目を覚ます様子のない彼女に、首に巻いていた大きめのストールを被せて、所謂姫抱きの状態にして立ち上がる。持ち上げた彼女の体は、脱力した人間にしてはあまりに軽く、さらに心配が募った。勝手に病室で寝かせたら、院長に怒られてしまうかもしれないな……とは思いつつも、最善を尽くさなければ、医師としての自分のプライドが許さない。私は病院内へ駆け込み、担架を用意してもらって彼女を空きのある病室へと運び込んだ。
何とか院長を説得し、彼女を入院させることが決定したので、身元の確認をするため、申し訳ないが勝手に彼女の持っていた鞄の中身を調べさせてもらうことにする。点滴のチューブを腕に差し込まれ、ぐっすりと眠っている彼女を横目に、少し罪悪感を覚えながらもリュックサックのファスナーを開いた。まず目に入ってきたのは、女の子らしいデザインのポーチと財布。そして、缶詰やカップラーメンなどの非常食と思しきものと、1枚の通帳。財布の中には学生証が入っており、そこには湊川麻子という名前が記されていた。住所を見るとここからはなかなか遠い場所にあるというのに、財布の中にはほとんどお金は入っていない。通帳を見るのはさすがに憚られたのでやめたが、この様子だと、もしかして彼女は帰るだけの交通費すら持っていないのではなかろうか。それに気になるのは、彼女が携帯を持っていないことだ。現代を生きる人々にとって、携帯電話は最早必需品。通帳や食料は持ってきているのに、なぜ電話は持ってきていないのだろうか。どこかに落としたり、忘れたりしてしまったのだろうか。独りでに心配を募らせていると、横から「うっ……」と少女の呻き声がして、私は手を止める。目を覚ましたのかと思い、勝手に鞄の中身を漁ってしまったことを謝ろうとすると、彼女は再び呻き声を上げた。顔が恐怖で引き攣り、閉じた瞼の隙間から一筋涙がこぼれ落ちる。
「ごめ……なさい……もう……しないから……ゆるして……」
彼女のその表情は、並々ならない恐怖を訴えていて、強く握られた両手は小刻みに震えている。私は、それを見て何となく分かった。彼女はただ、一時のいざこざでここまで来たんじゃない。誰かに助けを求めて……必死でここまでたどり着いたのだ、と。まだ顔を合わせて1時間くらいしか経っていないし、所持品を確認しただけで話したこともないから、まだただの憶測に過ぎないのは分かっている。だけど、私は彼女を助けたい、と強く思った。その一心で、少しでも落ち着くように、彼女の手をそっと握る。
「大丈夫。私が助けるよ」
眠っている彼女の耳に、その言葉は届くことはない。しかし私はこの一言で、彼女に対して最大限自分ができることをしよう、と心に誓ったのだった。
***
目を覚ました彼女は、酷く怯えた顔をして、どこか下の方を見ながら体を縮こまらせていた。先程担当の看護師から聞いた話によると、目が覚めた直後に過呼吸を起こしたらしく、その時途切れ途切れに「帰れない」と口にしていたのだそうだ。恐らく、財布の中身を見て、帰るための交通費がないことに気づき、パニックを起こしてしまったのだろう。ということは、もしかして、まだ彼女には、元の場所へ戻りたい、という願望が残っているのだろうか。
しかしながら、その真相は彼女に直接聞いてみる他に確かめる術はない。どちらにせよ、私は彼女が望んでいることを叶えるだけ。とりあえずあまり深入りするのはやめて、まず彼女が安心できる環境を作れるように努めよう、と決めた。
とはいえ、本当は家に帰りたいのに、交通費がないことを言い出せないがゆえ、黙っている可能性もある。私はまずそれを確認するため、彼女に向き合って問いかけた。
「君は──今すぐここから帰ることを望んでいるかい?」
すると彼女は、「あ……」と何かを言いかけたかと思うと、何かを迷うようにきょろきょろと目を泳がせた。私は、その反応を見て確信する。恐らく、彼女はまだ自分の中で「どうしたいか」という答えが定まっていないのだろう。それならば、今すぐ家に帰ることはない。本当に帰りたいのであれば、今すぐに帰した方がいいかと思ったが、そうでないのなら、病院でゆっくり休みながら考える方がきっと得策だ。
彼女にゆっくり休むように言って、病室から立ち去ろうとすると、彼女は訳が分からないという顔をして私を引き止めた。確かに、家出をしてきた少女に、初対面の大人がする対応ではないだろう。困惑するのは当然だ。家出をするような子なら尚更。私はできるだけ優しい口調で話すように努めて、彼女の問いかけに一つ一つ答えていった。案の定というか、交通費を持っていないことを気にしている彼女に、お金はこちらで負担すると言うと、かなり驚いた顔をされた。話しているとよく分かるが、彼女は言葉を発さなくても、表情がよく変わるから、考えていることが手に取るように分かってしまう。それが彼女にとっていいことなのか、悪いことなのかは別として、個人的には非常に興味深くて好きな部分だ。見ていて本当に飽きない。
しかしながら、目の前で突然涙を流された時は、さすがに驚いてしまった。何か、傷つけるようなことを言ってしまったのかと焦ったが、彼女自身もなぜ涙が出てくるのか分かっていない様子だったので、不謹慎だが少しだけほっとする。
涙というのは、決して悪いものではない。辛い時は思う存分に泣いて、吹きだまっていたものを涙とともに吐き出してしまった方が、健康にもいいのだ。私は咄嗟に彼女を落ち着けようと考えて、その小さな背中に手を置き、子供にそうするようにそっとさする。すると、彼女はさらに大きな声で嗚咽を漏らして、堰を切ったように涙を流し始めた。こんなことで、彼女の悲しみが癒えるのかは分からない。もしかして、知らない男に背中を触られて、嫌な思いをしたかもしれない。だけど、これが私にできる精一杯の彼女への労りだった。私は、今まで様々なものを背負ってきたであろう背中を撫でながら、今まで辛い思いをしてきた分、これからは彼女に、溢れんばかりの幸せが訪れますように、と心から願った。
side神宮寺寂雷
まさか、行き倒れの中学生の女の子に、自分がここまで入れ込むだなんて思いもしていなかった。彼女との出会いを振り返ると、事実は小説よりも奇なり、という言葉を痛切に実感する。
まず、初めに彼女に出会ったのは新宿中央病院の前だった。昼食を買いに行こうと外に出たところ、制服を着た中学生ほどの女の子が青白い顔色で倒れていて、かなり驚いてしまったのを覚えている。駆け寄ると同時に目に入ったのは、通学鞄にしては大きい、ボロボロのリュックサック。細すぎる体躯に、青白い顔色。すぐに直感した。この子は恐らく、しばらくまともな食事を取れていない。そして、そのせいで酷い貧血に陥っている。すぐに命に関わる状態ではないとはいえ、このまま放っておけば危ない。目を覚ます様子のない彼女に、首に巻いていた大きめのストールを被せて、所謂姫抱きの状態にして立ち上がる。持ち上げた彼女の体は、脱力した人間にしてはあまりに軽く、さらに心配が募った。勝手に病室で寝かせたら、院長に怒られてしまうかもしれないな……とは思いつつも、最善を尽くさなければ、医師としての自分のプライドが許さない。私は病院内へ駆け込み、担架を用意してもらって彼女を空きのある病室へと運び込んだ。
何とか院長を説得し、彼女を入院させることが決定したので、身元の確認をするため、申し訳ないが勝手に彼女の持っていた鞄の中身を調べさせてもらうことにする。点滴のチューブを腕に差し込まれ、ぐっすりと眠っている彼女を横目に、少し罪悪感を覚えながらもリュックサックのファスナーを開いた。まず目に入ってきたのは、女の子らしいデザインのポーチと財布。そして、缶詰やカップラーメンなどの非常食と思しきものと、1枚の通帳。財布の中には学生証が入っており、そこには湊川麻子という名前が記されていた。住所を見るとここからはなかなか遠い場所にあるというのに、財布の中にはほとんどお金は入っていない。通帳を見るのはさすがに憚られたのでやめたが、この様子だと、もしかして彼女は帰るだけの交通費すら持っていないのではなかろうか。それに気になるのは、彼女が携帯を持っていないことだ。現代を生きる人々にとって、携帯電話は最早必需品。通帳や食料は持ってきているのに、なぜ電話は持ってきていないのだろうか。どこかに落としたり、忘れたりしてしまったのだろうか。独りでに心配を募らせていると、横から「うっ……」と少女の呻き声がして、私は手を止める。目を覚ましたのかと思い、勝手に鞄の中身を漁ってしまったことを謝ろうとすると、彼女は再び呻き声を上げた。顔が恐怖で引き攣り、閉じた瞼の隙間から一筋涙がこぼれ落ちる。
「ごめ……なさい……もう……しないから……ゆるして……」
彼女のその表情は、並々ならない恐怖を訴えていて、強く握られた両手は小刻みに震えている。私は、それを見て何となく分かった。彼女はただ、一時のいざこざでここまで来たんじゃない。誰かに助けを求めて……必死でここまでたどり着いたのだ、と。まだ顔を合わせて1時間くらいしか経っていないし、所持品を確認しただけで話したこともないから、まだただの憶測に過ぎないのは分かっている。だけど、私は彼女を助けたい、と強く思った。その一心で、少しでも落ち着くように、彼女の手をそっと握る。
「大丈夫。私が助けるよ」
眠っている彼女の耳に、その言葉は届くことはない。しかし私はこの一言で、彼女に対して最大限自分ができることをしよう、と心に誓ったのだった。
***
目を覚ました彼女は、酷く怯えた顔をして、どこか下の方を見ながら体を縮こまらせていた。先程担当の看護師から聞いた話によると、目が覚めた直後に過呼吸を起こしたらしく、その時途切れ途切れに「帰れない」と口にしていたのだそうだ。恐らく、財布の中身を見て、帰るための交通費がないことに気づき、パニックを起こしてしまったのだろう。ということは、もしかして、まだ彼女には、元の場所へ戻りたい、という願望が残っているのだろうか。
しかしながら、その真相は彼女に直接聞いてみる他に確かめる術はない。どちらにせよ、私は彼女が望んでいることを叶えるだけ。とりあえずあまり深入りするのはやめて、まず彼女が安心できる環境を作れるように努めよう、と決めた。
とはいえ、本当は家に帰りたいのに、交通費がないことを言い出せないがゆえ、黙っている可能性もある。私はまずそれを確認するため、彼女に向き合って問いかけた。
「君は──今すぐここから帰ることを望んでいるかい?」
すると彼女は、「あ……」と何かを言いかけたかと思うと、何かを迷うようにきょろきょろと目を泳がせた。私は、その反応を見て確信する。恐らく、彼女はまだ自分の中で「どうしたいか」という答えが定まっていないのだろう。それならば、今すぐ家に帰ることはない。本当に帰りたいのであれば、今すぐに帰した方がいいかと思ったが、そうでないのなら、病院でゆっくり休みながら考える方がきっと得策だ。
彼女にゆっくり休むように言って、病室から立ち去ろうとすると、彼女は訳が分からないという顔をして私を引き止めた。確かに、家出をしてきた少女に、初対面の大人がする対応ではないだろう。困惑するのは当然だ。家出をするような子なら尚更。私はできるだけ優しい口調で話すように努めて、彼女の問いかけに一つ一つ答えていった。案の定というか、交通費を持っていないことを気にしている彼女に、お金はこちらで負担すると言うと、かなり驚いた顔をされた。話しているとよく分かるが、彼女は言葉を発さなくても、表情がよく変わるから、考えていることが手に取るように分かってしまう。それが彼女にとっていいことなのか、悪いことなのかは別として、個人的には非常に興味深くて好きな部分だ。見ていて本当に飽きない。
しかしながら、目の前で突然涙を流された時は、さすがに驚いてしまった。何か、傷つけるようなことを言ってしまったのかと焦ったが、彼女自身もなぜ涙が出てくるのか分かっていない様子だったので、不謹慎だが少しだけほっとする。
涙というのは、決して悪いものではない。辛い時は思う存分に泣いて、吹きだまっていたものを涙とともに吐き出してしまった方が、健康にもいいのだ。私は咄嗟に彼女を落ち着けようと考えて、その小さな背中に手を置き、子供にそうするようにそっとさする。すると、彼女はさらに大きな声で嗚咽を漏らして、堰を切ったように涙を流し始めた。こんなことで、彼女の悲しみが癒えるのかは分からない。もしかして、知らない男に背中を触られて、嫌な思いをしたかもしれない。だけど、これが私にできる精一杯の彼女への労りだった。私は、今まで様々なものを背負ってきたであろう背中を撫でながら、今まで辛い思いをしてきた分、これからは彼女に、溢れんばかりの幸せが訪れますように、と心から願った。