本編
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side湊川麻子
それから私は、神宮寺先生の病院に入院することになった。貧血は点滴を打つことで完全に回復したのだが、どうやら心身の重だるさは貧血によるものだけではなかったらしい。憂鬱な気持ちが朝も夜も頭の中を駆け巡り、食事も睡眠もほとんど取れない私を見て、先生は少し苦い顔をして言ったのだ。「心の問題かもしれない」と。
「私は精神科医ではないから、この病院では満足な治療が受けられないかもしれない。だから今度、優秀な精神科医を紹介するよ。それまでは、ここで入院していくといい」
先生がそんな風に言うので、私は少し驚きながらも、お言葉に甘えさせていただくことにした。「今すぐ帰る」という選択肢は、いつの間にか私の中から排除されていて、先生の言葉にも疑いの余地はなかったからだ。私は先生にやりきれないほどの感謝をしつつ、回診の時間に病室に顔を出す先生と担当の看護師さんに、ぽつぽつと自分のことを話した。ちなみに担当の看護師さんというのは、私が過呼吸を起こしたときに背中をさすってくれた、あの看護師の女性のことである。ちなみに、名前は篠原香織さんというらしい。先生よりも少し年上で、気さくでおおらかな雰囲気が話しやすく、会話を重ねていくうちに仲良くなったのだ。その香織さんにも、会話の流れで色々なことを話した。私が倒れた当日のこと、親のこと、乱数のこと──。時には声を震わせて、涙を流しながらも、彼らにちゃんと伝わるように、ゆっくりと時間をかけて。
香織さんは私の話を全て聞き終わると、目に涙を浮かべて、私のことをそっと抱きしめた。びっくりする私に、彼女は啜り泣きしながら「麻子ちゃん……麻子ちゃんは、何も悪くないわ。ありがとう、話してくれて、ありがとう……」と言ってくれた。私は、そんな彼女の姿に救われたような気持ちになって、ようやく気づくことができた。私が悪いわけではなかったのだと。私は乱数に、他人から見ても酷いことをされていたのだ、ということを。
女性である香織さんには何とか話すことができたが、いくつも歳上とはいえ、異性である神宮寺先生には、私と乱数とのことはなかなか話すことができなかった。何せ、されたことの内容が内容だ。無理やり犯された、しかも毎日だなんて、いくら先生でもそう簡単に言えるわけがない。それでも、いつまでも先生にお世話になっているわけにもいかないと、私は勇気を出して先生に乱数とのことを話した。緊張で身を固くしながら話を切り出す私に、先生は「無理しないでいいよ」と言ってくれたが、「私が話したいのでいいんです」と言うと黙って話を聞いてくれた。
「……それで、いつの間にか倒れてて、こんなことに……」
「……なるほど」
私が話し終わると、「辛い経験をしてきたんだね」と先生は悔しそうに顔を歪めた。顎に手を当てながら、長い睫毛を伏せて何かを考える仕草をする。
「……それにしても、変わっていると同時に、とても狡猾な男だね。その『飴村乱数』というのは」
「……こう、かつ……?」
「ずる賢いということだよ。周りに悟られず、尚且つ君の逃げ道を徹底的に塞ぐ……そして、その目的のためなら手段を選ばない。君自身を騙すことだって厭わない。きっと、彼はそういう人間なんだろうね」
ずる賢い──という言葉に、とてもしっくりくる自分がいた。確かに乱数はそういうところがある。実際彼は相当頭がよくて、学校の先生さえ手玉に取っていたし、私を騙すことなんて容易なのだろう。
「とりあえず、大体の事情は分かったよ。辛いことを話してくれて、本当にありがとう」
そう言って先生は、大きな掌で私の頭を撫でる。私は少しくすぐったく感じながらも、それを受け入れる。どうやら先生は、こうして私の頭を撫でることが好きらしい。嬉しいけれど、先生は私のことを子供扱いしすぎなのでは、と花が飛びそうなほど優しい顔の先生を見て思う。
「……そうなると、その飴村乱数は今頃、君のことを血眼になって探しているのだろうね。幸い、この病院にそれらしき人物が来た形跡はないから、まだ居場所は割れていないのだろう」
先生はそう言うと、私の目をじっと見つめて、真剣な顔で口を開いた。
「君がこの病院に来て、もう1ヶ月が経つ。言っていなかったが、実はもう精神科への引き渡しの準備はできているんだ。ただ、そこの精神科医に、君が自分から打ち明けてくれるまで待った方がいいと言われてね……」
先生の言葉に、私は少しびっくりしたが、そのお医者さんの言うことは正しいと思った。だって私は、あの道で私を助けてくれた寂雷先生だから、こんなにも信頼して、打ち明けたのだ。ただの大人だったら、きっと何も信用していない。
「本来ならここで、私は君を精神科医の元へと引き渡して、君はそこに入院することになる。入院して、病気が治ったら児童相談所に引き渡されて、君は君の人生を生きる。それが最も一般的で、君が安定した将来を生きるために有効な方法だ」
少しだけ寂寥とした雰囲気を醸し出す先生に、私は何となく、この先の話の流れが分かったような気がした。先生は大人だ。それも、誰よりも正しい選択を求められる、医師という職業に就いている大人。だから、先生は医者として当然の選択をしなければならない。だから、私は先生が決めたことを、受け入れなければならないのだ。たとえその提案で、大切な人と別れることになったとしても。
私は俯いてぎゅっと目を瞑って、病院服の裾を握った。
「──だけどね、麻子くん」
しかし、先生はそんな私の頬をそっと撫でて、安心させるように私の瞼を開かせる。先生の瞳にあるのは溢れんばかりの慈愛と、少しの罪悪感。先生がそんな顔をしている理由が分からず、目を丸くして首を傾げると、彼は俯きがちに口を開く。
「私は、本当にその選択で君が幸せになれるのかどうか、少し迷っているんだ。君には、もっと人間の『愛』を知ってほしい。世の中には、君が出会ったような歪んだ愛だけじゃない、もっと頼もしくて全うな愛が存在することを、学んでほしいんだ」
そこで、一つ提案がある、と前置きすると、先生は私の頬にあった手をするりと下ろして、じっと私の目を見つめた。まるで何かを、懇願するような瞳だった。
「この病院で働いて、近くの寮で篠原さんと一緒に暮らさないかい?」
予想だにしない展開に、思わず目を見開く。そんな願ってもみなかった提案がされるなんて、さっきまで思わなかった。乱数の元へ帰らなくてもいい。先生と一緒に働ける。それに、香織さんと一緒に暮らせるだなんて。こんな夢のような話が、あってもいいのだろうか。先生の迷惑にはならないのだろうか。色々な気持ちが溢れて泣き出す私に、「麻子くん、大丈夫かい?」と先生は心配そうな顔をして聞いてくる。先生が心配しているようなことは何も無い。だけど、私は歪んだ幸せしか味わったことがなかったから、怖いのだ。知ってしまったら、もう後戻りできないから。そんな私の心情を先生が分かるはずもなく、不安そうな顔をしている彼に、私はふるふると首を振る。
「めいわくじゃ、ないん、ですか……私、みたいな、お荷物……抱えて……」
泣きじゃくりながら言う私に、先生は床に屈んで目線を合わせ、私の両肩に手を置いた。
「……お荷物なんかじゃないよ。もしそうだったら、端からこんな提案はしない。もちろん、君が私たちの元へ行きたいと言うのなら、私も篠原さんも、君の幸せのために全てを差し出すよ。だけど、そのために君が背負う苦労も並じゃない。大変な病院の仕事と勉強を両立しなければならないし、あまり贅沢もさせてあげられない。それでもいいのなら、私たちは君を心から歓迎する。最終的に決めるのは自分自身だ」
先生は諭すような声色でそう言ったけれど、私の気持ちは変わらなかった。思い切り寂雷先生の胸に飛び込んで、薬品の匂いと、ほのかに香る柔軟剤の匂いを吸い込みながら、腕を回してぎゅっと強く抱きしめる。先生は初めは慌てたようにわたわたと腕を動かしていたが、私が泣き出すと呆れたように小さく笑って、いつもの温かい掌を私の頭の上に乗せた。
「……いいのかい?私は仕事にはかなり厳しいよ」
「いいんです……うっ、存分にしごいてください……」
「はは、本当に君は、面白い子だよね……」
──改めて、これからよろしく、と言う先生の言葉に、さらに涙が溢れた。
こうして、私は先生にこれから先の人生を預けることとなったのだ。
それから私は、神宮寺先生の病院に入院することになった。貧血は点滴を打つことで完全に回復したのだが、どうやら心身の重だるさは貧血によるものだけではなかったらしい。憂鬱な気持ちが朝も夜も頭の中を駆け巡り、食事も睡眠もほとんど取れない私を見て、先生は少し苦い顔をして言ったのだ。「心の問題かもしれない」と。
「私は精神科医ではないから、この病院では満足な治療が受けられないかもしれない。だから今度、優秀な精神科医を紹介するよ。それまでは、ここで入院していくといい」
先生がそんな風に言うので、私は少し驚きながらも、お言葉に甘えさせていただくことにした。「今すぐ帰る」という選択肢は、いつの間にか私の中から排除されていて、先生の言葉にも疑いの余地はなかったからだ。私は先生にやりきれないほどの感謝をしつつ、回診の時間に病室に顔を出す先生と担当の看護師さんに、ぽつぽつと自分のことを話した。ちなみに担当の看護師さんというのは、私が過呼吸を起こしたときに背中をさすってくれた、あの看護師の女性のことである。ちなみに、名前は篠原香織さんというらしい。先生よりも少し年上で、気さくでおおらかな雰囲気が話しやすく、会話を重ねていくうちに仲良くなったのだ。その香織さんにも、会話の流れで色々なことを話した。私が倒れた当日のこと、親のこと、乱数のこと──。時には声を震わせて、涙を流しながらも、彼らにちゃんと伝わるように、ゆっくりと時間をかけて。
香織さんは私の話を全て聞き終わると、目に涙を浮かべて、私のことをそっと抱きしめた。びっくりする私に、彼女は啜り泣きしながら「麻子ちゃん……麻子ちゃんは、何も悪くないわ。ありがとう、話してくれて、ありがとう……」と言ってくれた。私は、そんな彼女の姿に救われたような気持ちになって、ようやく気づくことができた。私が悪いわけではなかったのだと。私は乱数に、他人から見ても酷いことをされていたのだ、ということを。
女性である香織さんには何とか話すことができたが、いくつも歳上とはいえ、異性である神宮寺先生には、私と乱数とのことはなかなか話すことができなかった。何せ、されたことの内容が内容だ。無理やり犯された、しかも毎日だなんて、いくら先生でもそう簡単に言えるわけがない。それでも、いつまでも先生にお世話になっているわけにもいかないと、私は勇気を出して先生に乱数とのことを話した。緊張で身を固くしながら話を切り出す私に、先生は「無理しないでいいよ」と言ってくれたが、「私が話したいのでいいんです」と言うと黙って話を聞いてくれた。
「……それで、いつの間にか倒れてて、こんなことに……」
「……なるほど」
私が話し終わると、「辛い経験をしてきたんだね」と先生は悔しそうに顔を歪めた。顎に手を当てながら、長い睫毛を伏せて何かを考える仕草をする。
「……それにしても、変わっていると同時に、とても狡猾な男だね。その『飴村乱数』というのは」
「……こう、かつ……?」
「ずる賢いということだよ。周りに悟られず、尚且つ君の逃げ道を徹底的に塞ぐ……そして、その目的のためなら手段を選ばない。君自身を騙すことだって厭わない。きっと、彼はそういう人間なんだろうね」
ずる賢い──という言葉に、とてもしっくりくる自分がいた。確かに乱数はそういうところがある。実際彼は相当頭がよくて、学校の先生さえ手玉に取っていたし、私を騙すことなんて容易なのだろう。
「とりあえず、大体の事情は分かったよ。辛いことを話してくれて、本当にありがとう」
そう言って先生は、大きな掌で私の頭を撫でる。私は少しくすぐったく感じながらも、それを受け入れる。どうやら先生は、こうして私の頭を撫でることが好きらしい。嬉しいけれど、先生は私のことを子供扱いしすぎなのでは、と花が飛びそうなほど優しい顔の先生を見て思う。
「……そうなると、その飴村乱数は今頃、君のことを血眼になって探しているのだろうね。幸い、この病院にそれらしき人物が来た形跡はないから、まだ居場所は割れていないのだろう」
先生はそう言うと、私の目をじっと見つめて、真剣な顔で口を開いた。
「君がこの病院に来て、もう1ヶ月が経つ。言っていなかったが、実はもう精神科への引き渡しの準備はできているんだ。ただ、そこの精神科医に、君が自分から打ち明けてくれるまで待った方がいいと言われてね……」
先生の言葉に、私は少しびっくりしたが、そのお医者さんの言うことは正しいと思った。だって私は、あの道で私を助けてくれた寂雷先生だから、こんなにも信頼して、打ち明けたのだ。ただの大人だったら、きっと何も信用していない。
「本来ならここで、私は君を精神科医の元へと引き渡して、君はそこに入院することになる。入院して、病気が治ったら児童相談所に引き渡されて、君は君の人生を生きる。それが最も一般的で、君が安定した将来を生きるために有効な方法だ」
少しだけ寂寥とした雰囲気を醸し出す先生に、私は何となく、この先の話の流れが分かったような気がした。先生は大人だ。それも、誰よりも正しい選択を求められる、医師という職業に就いている大人。だから、先生は医者として当然の選択をしなければならない。だから、私は先生が決めたことを、受け入れなければならないのだ。たとえその提案で、大切な人と別れることになったとしても。
私は俯いてぎゅっと目を瞑って、病院服の裾を握った。
「──だけどね、麻子くん」
しかし、先生はそんな私の頬をそっと撫でて、安心させるように私の瞼を開かせる。先生の瞳にあるのは溢れんばかりの慈愛と、少しの罪悪感。先生がそんな顔をしている理由が分からず、目を丸くして首を傾げると、彼は俯きがちに口を開く。
「私は、本当にその選択で君が幸せになれるのかどうか、少し迷っているんだ。君には、もっと人間の『愛』を知ってほしい。世の中には、君が出会ったような歪んだ愛だけじゃない、もっと頼もしくて全うな愛が存在することを、学んでほしいんだ」
そこで、一つ提案がある、と前置きすると、先生は私の頬にあった手をするりと下ろして、じっと私の目を見つめた。まるで何かを、懇願するような瞳だった。
「この病院で働いて、近くの寮で篠原さんと一緒に暮らさないかい?」
予想だにしない展開に、思わず目を見開く。そんな願ってもみなかった提案がされるなんて、さっきまで思わなかった。乱数の元へ帰らなくてもいい。先生と一緒に働ける。それに、香織さんと一緒に暮らせるだなんて。こんな夢のような話が、あってもいいのだろうか。先生の迷惑にはならないのだろうか。色々な気持ちが溢れて泣き出す私に、「麻子くん、大丈夫かい?」と先生は心配そうな顔をして聞いてくる。先生が心配しているようなことは何も無い。だけど、私は歪んだ幸せしか味わったことがなかったから、怖いのだ。知ってしまったら、もう後戻りできないから。そんな私の心情を先生が分かるはずもなく、不安そうな顔をしている彼に、私はふるふると首を振る。
「めいわくじゃ、ないん、ですか……私、みたいな、お荷物……抱えて……」
泣きじゃくりながら言う私に、先生は床に屈んで目線を合わせ、私の両肩に手を置いた。
「……お荷物なんかじゃないよ。もしそうだったら、端からこんな提案はしない。もちろん、君が私たちの元へ行きたいと言うのなら、私も篠原さんも、君の幸せのために全てを差し出すよ。だけど、そのために君が背負う苦労も並じゃない。大変な病院の仕事と勉強を両立しなければならないし、あまり贅沢もさせてあげられない。それでもいいのなら、私たちは君を心から歓迎する。最終的に決めるのは自分自身だ」
先生は諭すような声色でそう言ったけれど、私の気持ちは変わらなかった。思い切り寂雷先生の胸に飛び込んで、薬品の匂いと、ほのかに香る柔軟剤の匂いを吸い込みながら、腕を回してぎゅっと強く抱きしめる。先生は初めは慌てたようにわたわたと腕を動かしていたが、私が泣き出すと呆れたように小さく笑って、いつもの温かい掌を私の頭の上に乗せた。
「……いいのかい?私は仕事にはかなり厳しいよ」
「いいんです……うっ、存分にしごいてください……」
「はは、本当に君は、面白い子だよね……」
──改めて、これからよろしく、と言う先生の言葉に、さらに涙が溢れた。
こうして、私は先生にこれから先の人生を預けることとなったのだ。