雨の日を塗りつぶして【藤真】
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『美奈子へ この封筒、健司くんのお母さんに渡しておいてください。お金だから、早めにお願い。』
試験期間中は部活がないので、いつもより早めに帰宅した。
いつもならすぐに自室にこもるところを、リビングに寄ったがためにこんな置手紙をみつけてしまった。
これを書いた張本人のお母さんは、今はパートに出ている時間だ。
今度、健司のお母さんと旅行に行くとか言ってはしゃいでいたのを、ふと思い出す。
きっとこのお金は、その旅行代なんだろうなあと理解する。
健司の家に行く…。
それを想像しただけで、心にもやでもかかったのかというくらい、不安が重くのしかかる。
夏休みの、あの日。
あの、透と健司の三人で、この家で課題をやった日から、わたしは健司と一言も話していない。
ずっと気の置けない幼馴染として接してきた健司から、いきなりキスされた。
そしてわたしも透という存在がありながら、それを咎めなかったという罪悪感が、ずっとつきまとっている。
こうして2学期がはじまった今でも、顔を合わせないようになんとか健司を避けていたのだけれど、幼馴染という関係においてそれは許されぬことのようだった。
お母さんに悪気がないこともわかっている。
あんなに兄弟同然で育ったわたしたちが、そんなことがあって気まずくなっているなんて、思いもしないのだろう。
健司も健司で、学校でわたしに話しかけてくることはなくなった。
透がわたしといるときは、健司はそこに加わらない。その逆もしかりだった。
「どうしよう、これ…。」
封筒を手に取ってぽつりつぶやく。
頼みの綱である弟も、部活で帰りは遅いだろう。
帰ってきたお母さんにあれこれ詮索されるのも嫌だしな…。
わたしは、健司のお母さんに直接手渡せることを願いつつ、覚悟を決めてあの家へと向かった。
ピンポーンとインターホンの音が鳴る。
よく知った、赤い屋根のかわいらしい一軒家。
その音の数秒後、玄関先に姿を現したのは、やっぱり健司だった。
健司のお母さんは働きに出ていて、平日いることもあればいないこともある、というのが、わたしの印象だった。
そして部活のない健司が家にいることも、ある程度想像はできていた。
「あー、美奈子か。よお。」
気まずそうな表情で、端的に言う。
「よう。これ、おばさんに渡しといてほしいんだけど…。」
「なんだよこれ。」
「お金だって。なんかうちのお母さんとおばさん、一緒に旅行行くらしいからその旅費じゃないかな。」
「あーなんか、そんなこと言ってたな。」
ひととおり説明が終わったところで、会話が途切れる。
わたしはその沈黙が明るみにならないうちに、別れを告げる。
「じゃあね。」
「あ、なあ美奈子…。」
「…なに?」
すがるような顔をする健司が、目に映った。
その姿をむげにできず、我ながら律儀に振り返る。
「ちょっと話、できるか?」
そういいながら、家の中を指す。
小さいころから何度も出入りしている、健司の家だ。
ここで小さいころは遊んだり、お泊り会をしたり、中学になってからは一緒に試験勉強をしたりもした。
その慣れているはずの空間に入っていくことがこんなにも難しいことだったなんて、はじめて知る感情だった。
だけど、ここで断れば、ますますあの夏休みの出来事に意味をもたせてしまう。
気づいた時には、
「わかった」
と返事をしていた。
久々に入った健司の部屋は、とても片付けられていた。
机の上には勉強していた形跡はなく、月間バスケットボールの雑誌が数冊、ベッドの上に開いたままになっている。
わたしは健司の部屋で勝手に定位置にしている、ベッドの脇に座る。
その横に、かなり距離をとって健司が座る。
「ずっと話さなきゃって思ってた。」
なんの導入もなしに、切り出される。それがあの日のことを指していることは、確認しなくてもわかった。
「あの日、おかしなことして悪かった。」
「いいよ、もう。」
「あと、学校でお前を避けたことも。」
「…。」
やっぱり避けていたんだ、とちくり胸が痛む。
だけどそれはわたしも同じことだったので、同時に罪悪感もこみあげてくる。
「わたしも、健司のこと避けてた。ほんとごめん。」
「いや、当然だろ。俺が気まずくしたんだからさ。」
そう自嘲気味に笑う。
いつものふてぶてしい表情はどこにもなくて、どこか悲しそうだ。
西日の部屋では、夕方のオレンジの光が、レースカーテンを通り抜けてわたしたちを照らす。
健司の真剣な瞳が、ゆらゆらと揺れた。
「無かったことにして。あれ全部。無理かもしれねーけど、全部忘れてほしい。」
「えっ。」
「そんでお前とは少し、距離を置きたい。今までより、少しだけでいいから。自分勝手なこと言ってるのは、よくわかってるけど…。」
健司がぎゅっと拳を握りしめたので、その微細な振動がベッドを伝ってきた。
わたしは健司の顔を、ぜんぜん見ることができない。
「このまま何事もなくお前と幼馴染でいるなんて、俺には無理だから…って、え、美奈子…?」
慌てるような幼馴染の声が聞こえる。
そこで、自分がぽろぽろと涙をこぼしていることに気が付いた。
なにが悲しいのか、あとからあとから追ってくる涙の中では、もはやよくわからない。
距離を置きたいということが、わたしと透を思っての提案だという事は、頭では理解できていた。
健司がわたしを嫌いになったわけでもないという事は、痛いほどに。
それなのになぜこんなにも、胸が締め付けられるように苦しいのだろう。
「お前を避けたいわけじゃねーんだ。俺はただ、お前ら二人のことが…。」
「わかってるよ…! だけどそんなの、自分勝手すぎる…!」
涙をぬぐうこともせずに彼をにらむと、罪悪感と困惑を滲ませた表情で、わたしをみつめている。
そんな顔をするならなぜ、あそこであんなことをしたんだろう。
本当は、ただの幼馴染に戻ろうと言ってくれることを期待していた。
それなのに告げられたのは、改めて距離を置きたいという言葉…。
それが一番、つらかったのだ。
「本当に、ごめん。」
それしか言えなくなったように繰り返す健司に、わたしは言う。
「わたし最近、変なんだよ。」
涙を服の袖でぬぐい、やっと彼に向き直る。
わたしがそっぽを向いている間も、健司はずっとこちらを向いていてくれたようだった。
「あれからずっと、変なの。透と一緒にいても、健司のことばっか考えちゃう。健司とのキスと、比べたりなんかして…。」
「えっ。」
「健司のせいだよ!…わたしのこと、こんな風にしておいて、それなのに忘れろとか、距離を置くとか…っ」
ひどいよ、と小声で付け加えるも、しゃくりあげる声に阻まれて聞こえたのかどうかもわからない。
あれからのわたしは、本当におかしくなってしまっていた。
透といても、いつも健司を目で追っていた。
それは気まずさからだろうと思っていたけど、そればかりではないことには薄々気づいていた。
姿が見えれば安心するし、笑っていればなおホッとする。
離れて、話せなくなってわかった。健司の存在が、どんなにわたしの中で大きかったのかを。
そして、透とふたりきりのときされるキスにも…。
あの日の柔らかさを求めている自分がいる。
透のものとは全くちがった、あの唇を。
健司の香りを、熱を、思い出して体を熱くしている。
本当に、どうしてしまったんだろう。
なにより何も知らないでいる透に、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「美奈子、」
そっと頬にその手が触れて、わたしの身体はぴくりと反応する。
冷たい指先に、全神経が集中していくのがわかる。
「俺だってそうだよ。親友の彼女なのに、わかってるのに、お前がどうしようもなく、好きだ。…どうすればいいんだよ、俺。」
絞り出すような声は、少し震えている。
はじめて彼から向けられた、その愛おしそうな視線。
熱っぽくて、こちらまでのぼせそうになる。
透のことを考える余裕は、今はもうなくなっていた。
「美奈子、俺、たぶんもう戻れないと思う。」
「…うん。」
「お前を抱きたい。…ここで。」
その次の瞬間には、首を縦にふっていた。
「え、美奈子…?」
自分から言ったくせに今更困惑している健司を無視して、その唇に自らの唇を這わせる。
幼馴染とのキスは、幼さと大人の間を行き来するようで、なんだかくすぐったい。
「いいよ。」
その返事を聞き入れて、今度は健司が思いきり唇を押し当てる。
それはあの日のやさしいキスとは違って、少し無骨だった。
感情まかせに何度も何度も角度を変えて、唇を啄まれる。
「口、開けて。」
いわれるがままに少しだけ口を開くと、先ほどよりも深くわたしの唇を追った。
お互いがお互いを求めすぎて、唾液でべたべたになってもやめなかった。
端から見れば綺麗なキスではないだろう。しかし直接的に欲望に訴えてくる口づけは、わたしの背筋をぞくぞくと煽った。
ぼんやりと、優しい透の顔が思い浮かぶ。
その輪郭を打ち消すように、ただ目の前で求める彼を、刻みつけるように強く感じる。
これまでのわたしの世界は、透が全てだった。
彼の感覚だけが、わたしの知りうるすべてだった。
だけど欲望のまま受け入れた健司のそれは、何もかもが違っていた。
透より強引で、少し利己的で…。
それなのに時折、わたしの反応を確かめるように問われる言葉が、とても優しかった。
すべてを知り尽くしているはずの彼の、知らない部分。
それが明るみになるたびに、自分がどんなことをしてしまったのか思い知らされるようだった。
最中に何度も、わたしを気遣うような動作のひとつひとつが、優しすぎて痛かった。
気づかれないように、少しだけ泣いた。
もしかしたら気づかれていたかもしれない。
それに気づかないようにしてくれたのだとしたら、それも健司の優しさだったのかもしれない。
「健司さ…」
「…ん?」
素肌の上に、着ていたパーカーをそのまま羽織って、話しかける。
健司はベッドの隣で、うつ伏せのままつむじを見せている。
「いつからわたしを好きだったの?」
そのつむじに向かって、わたしは続ける。
顔が見えないで居ることが、今はかえってありがたい。
「そんなの、わかんねー。…ただ、お前がアイツと付き合うことになって…。気が気じゃなくて…。」
「全然そんな風に、見えなかったよ。」
「簡単に気づかれてたまるかよ。…でも、お前をアイツに紹介したこと、後悔した。」
「いいの?」
「何が。」
「わたし、健司を好きかどうかわからないよ。…それでも、いいの?」
一瞬指先にぴくりと力がこもったが、相変わらずこちらを振り返ることはない。
彼はわたしを好きだと言ってくれた。
だけど…。
わたしは本当のところ、透が好きなのか健司が好きなのか、わからない。
透といると、すごく落ち着く。
わたしのすべてを、受け入れてくれるところが心地いい。
だけど、健司とも一緒に居たい。透に遠慮して、遠くに行ってしまう健司を見ているのは、もうイヤだった。
それが叶わないのならば、あのキスの先を知ってみたい。
そう強く思ったことだけは、紛れもなく事実だった。
「ただの独占欲かもしれないよ。健司のことを、幼馴染としてしばりつけておきたいっていう。」
「いいよ、それでも。」
聡明な声で、言う。
「それでもお前のことを、俺のものにしたかった。」
「健司のものに…なったのかなあ、わたし。」
「…それ俺に聞く?」
ふっと笑い声が聞こえたかと思うと、その整った顔がやっとこちらを向いた。
「今更お前と他人になれなんて、俺には無理。」
「それは、わたしも。」
「こんな形になってでも、お前といたい。」
「…うん。」
その整った顔は、ひどく感傷的に何かを訴えていた。
わたしの心の中はまたも、彼を拒絶するすべを持たない。
健司がそっと手に触れてくる。
いっそのこと強く握ってくれればせいせいするのに、その手は優しく甲を撫でるだけだ。
わたしは振り払いもせず、あいかわらずその感覚だけを、強く心に刻みつけようと必死だった。
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