ゆるやかに消えていくブルー【水戸】
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〈彼目線〉
「洋平くんってちゃんとしてるよね。」
付き合って数ヶ月の彼女に、何度目かのセックスの後でいきなり言われた。
ちゃんとしていると言われれば、まあそれなりに働いてもいるし、と頭の中で考えていると、
「いつもちゃんと避妊してくれるし。」
と続けた。
「それってフツーなんじゃねえの?」
「そんなことないよ。結構、生でヤりたがる男の子って多いよ。」
言った後で、
「あ、友達の話とか聞いてるとね。」
と慌てて付け足すところをみると、おおかた自分の体験談も含まれているってところだろう。
それをなんだか、俺自身の優しさのように受けとられていることが落ち着かなくて、つい言ってしまう。
「だって俺、責任取れねーし。」
「え?」
「結婚とかしたくねーから、俺。」
今考えれば、俺も若かったなあって思う。
もうちょっと言い方ってヤツを考えろよと、今の俺がこの時の俺に会ったら言ってやるのに。
だけどこの時はまだ20代前半だった俺には、こんな伝え方しかできなかった。
「…サイテー。」
「あ、イヤ、そういう意味じゃなくて…。」
「結婚する気もないのにわたしと付き合ってたんだね。」
その時の泣きそうで、かつ憎しみのこもった彼女の顔を、忘れることができない。
そもそも、同じく20代前半の彼女が、結婚なんてものを真剣に捉えていたことに、ただただ驚いた。
この部屋での会話を最後に、彼女との関係はおしまい。
…そんな出来事は、俺の人生ではたびたび起こっていた。
高校の頃の同級生で、彼女を妊娠させて自主退学したヤツがいたっけ。
そいつは学校をやめ、結婚して家族のために就職したと聞いた。
どうしているのかと思っていたところで、たまたまそいつと街で出くわした。
その姿を見て、俺は驚いたのを覚えている。
髪を染め、リーゼントを決め込んでいたそいつは、今では頭を丸くして、汚ねー作業着に身を包んでいた。
その姿は、どっからどうみても同級生には見えなくて、真面目に働く社会人そのものって感じだった。
「もうあの頃みてーに悪さはできねーけど、俺幸せだよ。奥さんと、子どものために働くことが、今の生きがいなんだ。」
そういって歯列を見せて笑うアイツの顔を、なぜだか忘れることができなかった。
人が生きる上での幸せって、何なんだろうか。
結婚して子どもを育てることが、そのすべてなんだろうか。
メディアなんかでとりざたされる幸福像と、俺の理想は違っている。
漠然と、ガキの頃からそう思っていた。
年齢を重ね、周りにも結婚したり子どもができるやつが増えていき、俺はいつしか自分の本音を話すことが怖くなった。
結婚というものに幸せを感じない自分は、どこか異質なものだと思い込んでいたのかもしれない。
そんな時だった。
高校の同窓会で、彼女に再会したのは。
高橋美奈子。
高3のとき、柄にもなく片想いなんてしてた、ちょっとおとなしめの女の子。
美奈子は10年経っても何一つ変わっていなくて。
今もあの頃と変わらずに、画家の夢を追って努力する姿をみて、俺はまたしても恋に落ちた。
結婚する気がないと打ち明けた俺とも、美奈子は一緒にいる道を選んでくれた。
それは、ずっと先の未来まで確約された関係ではなかったけど、それでも嬉しかったんだ。
今の俺を受け入れてくれたことが。
だけど一緒にいると、彼女の本心が透けて見えるようだった。
彼女はきっと、結婚して家庭を持ちたいんだろうなあと言うことが、言葉にしなくてもダイレクトに伝わってきたからだ。
よく言えば正直な美奈子の、目線や表情のひとつひとつが、俺の罪悪感を突いた。
街を歩けば、家族連れを眺めてぼうっとしていることもあったし、何より美奈子は子どもが好きなんじゃないだろうかと思うことが多々あった。
俺のことを気にしてか、そんな話をすることはなかったけど、アイツが街ゆく子どもたちを見る目は、本当に優しくて、慈悲に溢れていて。
俺はもうずっと昔に、自分自身に注がれていたはずの母親の視線を、つい彼女のそれと重ねてしまった。
美奈子といる時間は暖かくて、楽しくて、こんな俺でも幸せになれるんじゃないかって、本気で思った。
こんな風に考えたのは、彼女が初めてだった。
だから俺にしては真面目に、美奈子との将来を考えたりもしたんだ。
もし美奈子が俺の家の事情をすべて飲み込んでくれるとしたら…。
美奈子となら、俺の家族っていうヤツを作れるんじゃないかって。
そんな矢先だった。
じいさんが倒れたという知らせを聞いたのは。
俺は、美奈子との旅行もキャンセルして、鎌倉にある大きな病院に足を運んだ。
「来たか、洋平。」
久々に会った親父の顔は、取り乱すこともなく冷静で、俺の焦るような気持ちとは裏腹に居どころが悪い。
この男のこういうところに、心底嫌気が差す。
母親が出てったときも、親父は今と同じような飄々とした顔をしていた。
そして怒ることも、泣くことも、しいては追いかけていくようなことも一切しなかったのだから。
「じいさんはどうなんだよ。」
ぽつり溢すと、親父はぴくりとも表情を動かさずにこう言った。
「死んではいない。」
「だから、容態はどうなんだよ。」
「見れば分かる。」
ちらりと、すぐ脇のベッドに寝かされたじいさんを見る。
わけのわからない細いチューブをいっぱいに繋がれたじいさんは、少し前に会ったときとは別人のように感じた。
同じ病室の脇に立っていた叔母が俺に近づいて、詳しくを説明してくれる。
「玄関先で倒れていたところを、近所の人にみつけてもらって…。すぐ運び込んだんだけど、もしかするとこのまま意識は戻らないかもって。」
なんでも、脳や心臓をみてもよく原因がわからないそうで、近々再検査されるのを待っている状況らしい。
その声は小さく震えていて、親父と違い正常な反応を示す叔母の姿に、俺はひどく安心した。
だけど、容態がいいってわけじゃない。
じいさんがこの先会話もできない状態になるかもしれない現実が、じわじわと不安にさせる。
「みんな集まったようだから、ここで言っておく。」
親父が、狭い病室中に響くような声量で、その口調を崩さずに言った。
「親父が…会長が所有している会社の持ち株の件だが、おそらく遺言書もない今からでは、本人の意思を尊重することは難しいだろう。
だから現時点をもって、この件は弁護士を通して進めていくことにしたい。」
「…株?」
俺は驚いて、その横顔を見た。
しかし親父は、相変わらずの仏頂面を貫いている。
そしてもっと驚いたのは、親父の言葉に同調するように、親戚連中がうんうんと頷いていることだった。
「おい、ちょっと待てよ。じいさんはまだ死んじゃいねーぜ。」
語りかけるも、俺の言葉は聞こえていないとでもいうように、皆口々に財産分与について話し合いを始めている。
「会長の所有してる土地はどうなるの?わたしたち夫婦は、一番会長と親交があったのよ。当然、多く配分を受ける権利はあるわよね?」
「いや、それを言ったらウチの女房が一番、足繁く父さんの家へ通っていただろう。」
「そういうことは弁護士さんを通して話せばいいでしょう?ここで言い争っても意味がないわ。」
あろうことか、じいさんのいる病室で繰り広げられる遺産争いの光景に、俺は辟易した。
まだ病気の原因もわかってないんだぜ?
生きるか死ぬかも分かっていない状況で、家族が願うべきはじいさんが無事でいることだろうが。
そう言いたかったが、俺1人が反論したところで、この厄介な老害たちをまとめることは、不可能だろうと悟る。
昔からそうだった。
法事だなんだと集まれば、会社の話、金の話。
ここには誰1人として、じいさんを心配するヤツはいないんだ。
だけどこの非情な連中を生み出した張本人は、紛れもなくこのじいさんだろう。
一族で会社経営し、ここまで築き上げた男。
この笑っちまうくらい薄情な家族連中をみて、本人はどう思うのだろうか。
これがじいさんの思い描いた、幸せってやつなんだろうか。
俺はこの場にいたくなくなって、黙ったまま病室を出た。
ふと、美奈子のことを思い出す。
もし俺と結婚なんかしたら、美奈子をこんなヤツらの中に放り込むことになるんだろうか。
絵を描くのが好きだという彼女の笑顔は、こんなヤツらの中で守ることができるのか、今までわざとぼやけさせていた答えが今、強く形を持って現れたような気がした。
最近の俺は、美奈子に出会ったことで麻痺していたのかもしれない。
ガキの頃からわかりきっていたことだ。
この家族の中では、俺は大切な人を幸せにはできない。
俺のせいで、俺の家族のせいで、大切な人を傷つけてしまいたくない。
…かといって、この非情だとわかりきっている家族のことを捨てて、遠くに逃げる勇気も無い。
それこそ美奈子の言っていた、長くは続かない幸せってやつだ。
美奈子の家族も巻き込むことになりかねない。
美奈子にはずっと、笑って好きなことを追いかけていて欲しい。
幸せでいて欲しい。
…だけど、美奈子を幸せにできるのは俺じゃない。
それだけは確かだ。
どんなヤツと結婚したとしても、俺ほどアイツを不幸にするヤツはいないだろう。
出て行った母親の、遠い昔に見た面影を、思い出そうと必死になる。
しかしその顔は、何度リフレインしてみても、笑顔とはかけ離れた冷たい形相だった。
:
:
「じゃあね、水戸くん。」
「うん。元気でな。」
一晩、俺のわがままでドライブに付き合ってくれた美奈子と別れた。
本当に、俺のわがままばかりだったと思う。
美奈子は俺と付き合わないと言ったのに、俺が美奈子のことを諦められなくて始まった関係。
捨ててもイイよと言ったのに美奈子がそうしなかったのは、うぬぼれでなければきっと、美奈子も俺と同じくらい、俺を好きでいてくれたのだろう。
それが痛いほど分かるから、なおさらに自ら別れを告げることは辛かった。
いっそ浮気でもしたと言って、ひどくフラれた方がマシだったのかもしれない。
それができなかったのは、美奈子の記憶に残る俺の姿を、ずっと綺麗なままで残しておきたいという、俺の独りよがりだったのかもしれない。
「水戸くん…か。アイツ、結局俺のこと一度も名前で呼ばなかったよな。」
一人になった車内で、自虐気味に言ってみる。
「水戸くん。」
と、高3のころ、なにか用事があると控えめに、おそるおそる話しかけてくる美奈子の姿が鮮明に甦る。
「洋平でいいよ。」
その言葉をいいかけて、何度飲み込んだだろうか。
「せっかく恋人になったのに、これじゃガキの頃と変わんねーじゃんかよ。な、美奈子。」
からっぽになったサイドシートは、答えるはずもない。
これから先も、答えが返ってくることはないのだ。
その事実が、じわじわと俺の心を蝕んでいく。
ただの俺の独りごとだけが、車のエンジン音の中にゆらゆらと溶けていった。
「洋平くんってちゃんとしてるよね。」
付き合って数ヶ月の彼女に、何度目かのセックスの後でいきなり言われた。
ちゃんとしていると言われれば、まあそれなりに働いてもいるし、と頭の中で考えていると、
「いつもちゃんと避妊してくれるし。」
と続けた。
「それってフツーなんじゃねえの?」
「そんなことないよ。結構、生でヤりたがる男の子って多いよ。」
言った後で、
「あ、友達の話とか聞いてるとね。」
と慌てて付け足すところをみると、おおかた自分の体験談も含まれているってところだろう。
それをなんだか、俺自身の優しさのように受けとられていることが落ち着かなくて、つい言ってしまう。
「だって俺、責任取れねーし。」
「え?」
「結婚とかしたくねーから、俺。」
今考えれば、俺も若かったなあって思う。
もうちょっと言い方ってヤツを考えろよと、今の俺がこの時の俺に会ったら言ってやるのに。
だけどこの時はまだ20代前半だった俺には、こんな伝え方しかできなかった。
「…サイテー。」
「あ、イヤ、そういう意味じゃなくて…。」
「結婚する気もないのにわたしと付き合ってたんだね。」
その時の泣きそうで、かつ憎しみのこもった彼女の顔を、忘れることができない。
そもそも、同じく20代前半の彼女が、結婚なんてものを真剣に捉えていたことに、ただただ驚いた。
この部屋での会話を最後に、彼女との関係はおしまい。
…そんな出来事は、俺の人生ではたびたび起こっていた。
高校の頃の同級生で、彼女を妊娠させて自主退学したヤツがいたっけ。
そいつは学校をやめ、結婚して家族のために就職したと聞いた。
どうしているのかと思っていたところで、たまたまそいつと街で出くわした。
その姿を見て、俺は驚いたのを覚えている。
髪を染め、リーゼントを決め込んでいたそいつは、今では頭を丸くして、汚ねー作業着に身を包んでいた。
その姿は、どっからどうみても同級生には見えなくて、真面目に働く社会人そのものって感じだった。
「もうあの頃みてーに悪さはできねーけど、俺幸せだよ。奥さんと、子どものために働くことが、今の生きがいなんだ。」
そういって歯列を見せて笑うアイツの顔を、なぜだか忘れることができなかった。
人が生きる上での幸せって、何なんだろうか。
結婚して子どもを育てることが、そのすべてなんだろうか。
メディアなんかでとりざたされる幸福像と、俺の理想は違っている。
漠然と、ガキの頃からそう思っていた。
年齢を重ね、周りにも結婚したり子どもができるやつが増えていき、俺はいつしか自分の本音を話すことが怖くなった。
結婚というものに幸せを感じない自分は、どこか異質なものだと思い込んでいたのかもしれない。
そんな時だった。
高校の同窓会で、彼女に再会したのは。
高橋美奈子。
高3のとき、柄にもなく片想いなんてしてた、ちょっとおとなしめの女の子。
美奈子は10年経っても何一つ変わっていなくて。
今もあの頃と変わらずに、画家の夢を追って努力する姿をみて、俺はまたしても恋に落ちた。
結婚する気がないと打ち明けた俺とも、美奈子は一緒にいる道を選んでくれた。
それは、ずっと先の未来まで確約された関係ではなかったけど、それでも嬉しかったんだ。
今の俺を受け入れてくれたことが。
だけど一緒にいると、彼女の本心が透けて見えるようだった。
彼女はきっと、結婚して家庭を持ちたいんだろうなあと言うことが、言葉にしなくてもダイレクトに伝わってきたからだ。
よく言えば正直な美奈子の、目線や表情のひとつひとつが、俺の罪悪感を突いた。
街を歩けば、家族連れを眺めてぼうっとしていることもあったし、何より美奈子は子どもが好きなんじゃないだろうかと思うことが多々あった。
俺のことを気にしてか、そんな話をすることはなかったけど、アイツが街ゆく子どもたちを見る目は、本当に優しくて、慈悲に溢れていて。
俺はもうずっと昔に、自分自身に注がれていたはずの母親の視線を、つい彼女のそれと重ねてしまった。
美奈子といる時間は暖かくて、楽しくて、こんな俺でも幸せになれるんじゃないかって、本気で思った。
こんな風に考えたのは、彼女が初めてだった。
だから俺にしては真面目に、美奈子との将来を考えたりもしたんだ。
もし美奈子が俺の家の事情をすべて飲み込んでくれるとしたら…。
美奈子となら、俺の家族っていうヤツを作れるんじゃないかって。
そんな矢先だった。
じいさんが倒れたという知らせを聞いたのは。
俺は、美奈子との旅行もキャンセルして、鎌倉にある大きな病院に足を運んだ。
「来たか、洋平。」
久々に会った親父の顔は、取り乱すこともなく冷静で、俺の焦るような気持ちとは裏腹に居どころが悪い。
この男のこういうところに、心底嫌気が差す。
母親が出てったときも、親父は今と同じような飄々とした顔をしていた。
そして怒ることも、泣くことも、しいては追いかけていくようなことも一切しなかったのだから。
「じいさんはどうなんだよ。」
ぽつり溢すと、親父はぴくりとも表情を動かさずにこう言った。
「死んではいない。」
「だから、容態はどうなんだよ。」
「見れば分かる。」
ちらりと、すぐ脇のベッドに寝かされたじいさんを見る。
わけのわからない細いチューブをいっぱいに繋がれたじいさんは、少し前に会ったときとは別人のように感じた。
同じ病室の脇に立っていた叔母が俺に近づいて、詳しくを説明してくれる。
「玄関先で倒れていたところを、近所の人にみつけてもらって…。すぐ運び込んだんだけど、もしかするとこのまま意識は戻らないかもって。」
なんでも、脳や心臓をみてもよく原因がわからないそうで、近々再検査されるのを待っている状況らしい。
その声は小さく震えていて、親父と違い正常な反応を示す叔母の姿に、俺はひどく安心した。
だけど、容態がいいってわけじゃない。
じいさんがこの先会話もできない状態になるかもしれない現実が、じわじわと不安にさせる。
「みんな集まったようだから、ここで言っておく。」
親父が、狭い病室中に響くような声量で、その口調を崩さずに言った。
「親父が…会長が所有している会社の持ち株の件だが、おそらく遺言書もない今からでは、本人の意思を尊重することは難しいだろう。
だから現時点をもって、この件は弁護士を通して進めていくことにしたい。」
「…株?」
俺は驚いて、その横顔を見た。
しかし親父は、相変わらずの仏頂面を貫いている。
そしてもっと驚いたのは、親父の言葉に同調するように、親戚連中がうんうんと頷いていることだった。
「おい、ちょっと待てよ。じいさんはまだ死んじゃいねーぜ。」
語りかけるも、俺の言葉は聞こえていないとでもいうように、皆口々に財産分与について話し合いを始めている。
「会長の所有してる土地はどうなるの?わたしたち夫婦は、一番会長と親交があったのよ。当然、多く配分を受ける権利はあるわよね?」
「いや、それを言ったらウチの女房が一番、足繁く父さんの家へ通っていただろう。」
「そういうことは弁護士さんを通して話せばいいでしょう?ここで言い争っても意味がないわ。」
あろうことか、じいさんのいる病室で繰り広げられる遺産争いの光景に、俺は辟易した。
まだ病気の原因もわかってないんだぜ?
生きるか死ぬかも分かっていない状況で、家族が願うべきはじいさんが無事でいることだろうが。
そう言いたかったが、俺1人が反論したところで、この厄介な老害たちをまとめることは、不可能だろうと悟る。
昔からそうだった。
法事だなんだと集まれば、会社の話、金の話。
ここには誰1人として、じいさんを心配するヤツはいないんだ。
だけどこの非情な連中を生み出した張本人は、紛れもなくこのじいさんだろう。
一族で会社経営し、ここまで築き上げた男。
この笑っちまうくらい薄情な家族連中をみて、本人はどう思うのだろうか。
これがじいさんの思い描いた、幸せってやつなんだろうか。
俺はこの場にいたくなくなって、黙ったまま病室を出た。
ふと、美奈子のことを思い出す。
もし俺と結婚なんかしたら、美奈子をこんなヤツらの中に放り込むことになるんだろうか。
絵を描くのが好きだという彼女の笑顔は、こんなヤツらの中で守ることができるのか、今までわざとぼやけさせていた答えが今、強く形を持って現れたような気がした。
最近の俺は、美奈子に出会ったことで麻痺していたのかもしれない。
ガキの頃からわかりきっていたことだ。
この家族の中では、俺は大切な人を幸せにはできない。
俺のせいで、俺の家族のせいで、大切な人を傷つけてしまいたくない。
…かといって、この非情だとわかりきっている家族のことを捨てて、遠くに逃げる勇気も無い。
それこそ美奈子の言っていた、長くは続かない幸せってやつだ。
美奈子の家族も巻き込むことになりかねない。
美奈子にはずっと、笑って好きなことを追いかけていて欲しい。
幸せでいて欲しい。
…だけど、美奈子を幸せにできるのは俺じゃない。
それだけは確かだ。
どんなヤツと結婚したとしても、俺ほどアイツを不幸にするヤツはいないだろう。
出て行った母親の、遠い昔に見た面影を、思い出そうと必死になる。
しかしその顔は、何度リフレインしてみても、笑顔とはかけ離れた冷たい形相だった。
:
:
「じゃあね、水戸くん。」
「うん。元気でな。」
一晩、俺のわがままでドライブに付き合ってくれた美奈子と別れた。
本当に、俺のわがままばかりだったと思う。
美奈子は俺と付き合わないと言ったのに、俺が美奈子のことを諦められなくて始まった関係。
捨ててもイイよと言ったのに美奈子がそうしなかったのは、うぬぼれでなければきっと、美奈子も俺と同じくらい、俺を好きでいてくれたのだろう。
それが痛いほど分かるから、なおさらに自ら別れを告げることは辛かった。
いっそ浮気でもしたと言って、ひどくフラれた方がマシだったのかもしれない。
それができなかったのは、美奈子の記憶に残る俺の姿を、ずっと綺麗なままで残しておきたいという、俺の独りよがりだったのかもしれない。
「水戸くん…か。アイツ、結局俺のこと一度も名前で呼ばなかったよな。」
一人になった車内で、自虐気味に言ってみる。
「水戸くん。」
と、高3のころ、なにか用事があると控えめに、おそるおそる話しかけてくる美奈子の姿が鮮明に甦る。
「洋平でいいよ。」
その言葉をいいかけて、何度飲み込んだだろうか。
「せっかく恋人になったのに、これじゃガキの頃と変わんねーじゃんかよ。な、美奈子。」
からっぽになったサイドシートは、答えるはずもない。
これから先も、答えが返ってくることはないのだ。
その事実が、じわじわと俺の心を蝕んでいく。
ただの俺の独りごとだけが、車のエンジン音の中にゆらゆらと溶けていった。