ゆるやかに消えていくブルー【水戸】
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それからの日々は、本当にめまぐるしく過ぎていった。
あいかわらず、絵を描くことは続けていたし、水戸くんとの関係も順調といえるだろう。
休日が重なると、いろいろなところへ出かけたし、仕事のある日でも待ち合わせて、一緒に食事をしたり。
ひとつ、またひとつと思い出話が増えていき、水戸くんはもう高校時代の好きだった人ではなく、それ以上に大切な存在へと変化していた。
それでも一緒に過ごしているとつい、街頭広告なんかで『結婚』に関するものを目にすることもあったけど、お互いそれには触れなかった。
…というか、わたしが意識的に触れないようにしていた。
水戸くん自身がそれらを見てどう思ったのかは、わからない。聞くすべもないし、聞きたくもなかった。
改めて未来を否定されることは怖かったし、感傷的な気持ちになるのは、あの水戸くんの本音を聞いた夜だけで十分だ。
だけど水戸くんのことを好きになればなるほど、結婚というワードはわたしの中に甘く響いた。
遠い将来を約束すること、大切な人と家族を築くこと。
人がなぜ結婚したがるのか、彼と会って少しは理解できた気がする。
わたしの想像の中の、水戸くんと築いていく家族というものは、考えうる幸せの限りを描いていた。
だけどその幸せが、彼の幸せと一致しないことは、痛いほどに理解できていた。
季節が過ぎ、春から夏になった。
鬱々とした梅雨が過ぎて、鎌倉の海に夏がやってくる。
海の家が建ちはじめると、ビーチには県外からの観光客やサーファーが増えてきて、海岸線を通る度に季節が変わったことを思わせた。
「海いこう、海。」
珍しくはしゃいだ様子のわたしをみて、向かいのテーブルにいる水戸くんは驚いているようだった。
「そんなに急がなくても、まだ海開きしたばっかだぜ。」
「うん、だけど、毎日江ノ電乗ってたらビーチが見えるんだよね。そしたらなんか、そわそわしちゃって。」
私が言うと、何かを考えるように目を伏せたまま、グラスを置く。
そして思いついたように、
「じゃあ旅行でもするか。」
と、目をきらりと光らせた。
行き先はもちろん、海のあるところ。
旅行という響きは、いつになっても好きだ。響きだけで、どこか日常を忘れさせてくれる。
そうして決まった、初島への小旅行。
鎌倉からほどよく離れていて、それでいてリゾート感の感じられる場所。
ちょっとした旅行を楽しむには、うってつけの場所だった。
水戸くんとこんなにも遠出するのは、これが初めてだ。
その旅行前日。
準備がしたいからと、待ち合わせて2人で買い物に出かけた。
といっても、結局はわたしの服だとか、水着だとかを見るのにつきあわせる形になってしまって、なんだか申し訳ない。
こうして選んだ服を着て、明日も水戸くんと一緒にいられるということ。
それが、旅行先でなにをするかということよりも重要で、なによりも幸せだった。
お目当てのものを買い終わり、夕食をどうしようかと話しているときだった。
ショッピングモールの入り口で、あたりをキョロキョロしながら立っている、1人の男の子が目に入る。
その子は小学校低学年くらいの年齢で、不安そうに周囲の大人達を見上げていた。
あたりを見渡しても、親らしき人物の姿はない。途端に胸の中に、ざわざわとした不安が湧き上がる。
「あの子、迷子かな。」
気づいた時には水戸くんの腕を引いていた。
すると彼は、その男の子を見つけた途端、なんの躊躇もなしに近づいていく。
そして穏やかな口調で、声を掛けた。
「どうしたの?迷子?」
男の子はキョトンとした顔で、同じ高さまで目線を落とした水戸くんを見た。
「わかんない。」
小さな身体から絞り出すように、答える。
泣きそうなのを我慢しているのか、その声はかすれている。
「お父さんかお母さんと一緒に来たの?」
「お母さん…。」
「そっか、じゃあお母さん探すか。」
不安そうな男の子は、迷いながらもちいさく、一度頷いた。
水戸くんはその子の手を取り、わたしを振り返ると、
「迷子センターまで行ってくる。」
と言って歩き出す。
その姿をぼうっと眺めていたわたしは、はっと我に返った。
わたしも子どもは好きだけど、あの状況ですぐに声を掛けられるだろうかと考えると、気後れしてしまう。
きっとあの男の子の存在に気づいた全員が、どうするべきかと頭の中で考えただろう。
声を掛けるべきか、そのまま通り過ぎるべきか。
そんな垣根をすべて飛び越えて、助けてあげられる。
水戸くんのそんな姿に、ただただ感嘆したのだった。
その時だった。
男の子の手が水戸くんからするりと離れ、一目散に走り出す。
その先には、グレーのコートにロングスカートを穿いた女性が一人。
きっと母親なのだろうと、すぐにわかった。
小さな男の子が水戸くんの存在を伝えるはずもなく、親子はこちらに気づかずにそのまま行ってしまう。
みつかってよかったと顔をほころばせるお母さんに、満面の笑みで飛び跳ねながら歩く男の子。
そこには、先ほどの不安そうな表情はみ当たらなかった。
水戸くんはその後ろ姿を見送りつつ、優しく微笑んでいた。
「どうやらお節介だったみたいだな。」
やれやれといったように、肩をすくめて見せる。
わたしも2人の後ろ姿を見ながら、安堵していた。
つい、子どもの頃に迷子になった自分の気持ちと、あの子を重ねてしまう。
小さな世界では、家族の存在なくしては生きられないことを痛感させられる。迷子になるというのは大人になってから考えるよりも、ずっと恐ろしいものだったはずだ。
「水戸くん、優しいんだね。」
そう呟くと、チラリと視線をこちらへ向けて、
「俺、別に子どもが嫌いなわけじゃないよ。」
と言った。
「それに美奈子がなんとかして、って顔してたからなあ。」
「え、してた?」
「うん。ああいう子ほっとけないんだろ?」
「そりゃそうだよ、かわいそうだもん。」
だけどかわいそうだと思うことは誰にでもできる。
言ってみればわたしも、かわいそうだと思いつつも自分ではなにもできなかったうちの一人なわけで…。
じわじわとその罪悪感に駆られる。
「美奈子は、ああいう親子に憧れる?」
唐突に聞かれて、心臓が跳ねた。
もしかして、なにかのアピールに聞こえたのだろうか。
なにより、水戸くんとの間で子どもの話題が上がったのは、これが初めてだった。
慎重に言葉を選びつつ、答える。
「自分の子ども時代を思い出しただけだよ。」
「そっか…。いや、あの親子を見送る美奈子の目がさ、なんていうの?すげー優しかったから。」
「そうかな?フツーだよ。ただ、よかったねって、そう思っただけで…」
そんなに慈しむような目線を送った気はなかったけど、水戸くんにはそう映ったのだろうか。
だけど実際、いいなあと思ったことは事実だった。
もし自分にも将来、あんな子どもがいて、ああやって一緒にショッピングモールを歩いて…。
その隣には水戸くんがいてほしいと、思い描いてしまった。
そう思ってしまったのは、やさしくあの子に接する、水戸くんの姿を見てしまったからかもしれない。
そんな事言えるはずもなく、すぐに心の奥にしまいこむ。
彼の前でその話題を口にすることは、今のこの関係を壊してしまうことを意味する。
今はまだ、向き合いたくない。
曖昧なままにしておきたい。
そう思うほどに、わたしは水戸くんの事を好きになりすぎていた。
「…歩こっか。」
「ん、だな。」
ほつれてできた空白を埋めるように、目的もなく歩き出す。
何を言えばいいのかわからず、ただ靴裏から伝わってくるアスファルトの質感を感じる。
かかとから着地して、つまさきから衝撃を逃す仕草を、意識的に繰り返しているだけで、ずいぶんな距離を歩いてしまった。
その時、水戸くんの携帯電話が鳴った。
シンプルで聞き慣れたその着信音が止められたかと思うと、斜め後ろを歩いていたはずの気配がピタリと消える。
振り返ると、画面を見たまま立ちつくしている水戸くんがいた。
「…水戸くん?どうかした?」
何歩か来た道を辿って、近寄る。
するとディスプレイから目を離さないままに、水戸くんは言った。
「悪い、明日の旅行、いけねーかも。」
「え?」
「じいさんが倒れた。」
その言葉になぜか、わたしもガツンと頭を殴られたようだった。
水戸くんのおじいさん…。
以前仕事の話をきいているときに、話題に上がったことがあった。
たしか、水戸くん家の会社の創設者で、今は現役を退いて会長役に徹しているのだとか。
厳格な父親とはちがい、柔和な雰囲気をもつおじいさんだったと、聞いたことがある。
そんな人が倒れたなんて聞いたら…。
なにより身内が倒れたなんてきいたら、わたしにとっては水戸くんのことが心配だ。
だけどそんな心配もよそに、彼は意外にも冷静だった。
「美奈子、一人で帰れる?」
「うん、わたしは大丈夫。…それより、水戸くんが…。」
「俺は大丈夫だよ。これから病院まで行って、顔出してくる。…明日のこと、ごめん。」
「いいって、気にしないで。旅行はいつでも行けるんだから。」
早く行ってあげなきゃ、と彼の背中を押す。
水戸くんは何度か振り返りつつも、それでも足早に駅の方向へと向かった。
わたしはそれを見送りつつも、なぜか不安に駆られる。
なぜだか急に、水戸くんと会うのが、これで最後になってしまう気がした。
そしてその予感は、図らずとも当たっていることを、この時のわたしはまだ、知らずにいた。