プライオリティ【宮城】
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
主要道路沿いの駅で降りると、パラパラ降っていたはずの雨は土砂降りに変わっていた。
わたしはそこで、電車の中に傘を忘れてしまったことに気づく。
しかし時はすでに遅し。
その電車はとっくに発車している。
コンビニでビニール傘を買おうとするも、一日中降り続く雨のせいか、在庫はすでにゼロになっていた。
なんてついてないんだろう。それよりも、普段からまったく計画性のない自分にあきれてくる。
こんなことなら折りたたみ傘のひとつでも持っておくんだった。
意を決して雨の中を走り、身体の半分以上がずぶ濡れになったところで、背の高いマンションにたどり着いた。
場所だけは知っていたけど、まだ中に入ったことは一度もない。
オートロックになっているその建物に足を踏み入れ、チャイムを押すと、スピーカーから聞き慣れた声が響く。
「はい。」
その声は、普段よりも元気がないように感じる。
「あの、高橋です。高橋美奈子…。」
「えっ…!」
「と、突然ごめんなさい!宮城くん風邪で休んでるって聞いたから、それで…。」
「あ、えっと、どうぞ、入ってよ。」
スピーカーの向こうでガサガサと焦るような物音が聞こえたが、すぐにロックが解除された。
開いたドアの向こう、エントランスへと足を踏み入れ、誰かが残した靴跡を追って歩くと、エレベーターにつながっていた。
たしか7階って言ってたよね。
ラッキーセブンでいいなあ、と思う。宮城くんの性格にぴったりだ。
わたしと宮城くんは、いわゆる仕事の取引相手だ。
デザイナーという職種に就いているわたしが宮城くんと出会ったのは、クライアントとしての打ち合わせの場だった。
わたしが受けもった案件の担当者が、宮城くんだったのだ。
それしか接点のないわたし達だったけど、少し前に宮城くんから連絡先を聞いてくれて仲良くなり、今ではプライベートでも会って、食事をしたりする。そんな関係。
ただそれだけの関係で、宮城くんがわたしのことをどう思っているのかは、よくわからない。
だけどわたしは、とっくに宮城くんのことを好きになってしまっている。
だから今日の打ち合わせで宮城くんが休んでいることを知り、とても心配になったのだった。
意を決して、マンションを訪ねてみたはいいものの、迷惑ではなかっただろうか。
スポーツドリンクやらおかゆのレトルトやらを買い込んだ袋も、雨のせいで濡れてしまっている。
わたし自身からも、ぽたぽたと水がしたたる始末だ。
渡してしまって、早く帰ろう。ここまで濡れてしまえば、帰りに濡れるのも同じ事だ。
部屋の前でインターホンを押すと、思いのほかすぐにドアは開いた。
玄関に置かれた、灯油のにおいで冬を感じる。
と同時に、おでこに冷えピタを貼った、少し顔の赤い宮城くんが顔を出した。
そしてわたしを見た瞬間に、驚きに目を見開いた。
「ど、どうしたの?そんな濡れて…」
「あ、えっとこれは…。電車に傘忘れちゃって。」
「とりあえず入ってよ、寒いでしょ。」
「ううん、いいのいいの!これ渡してすぐ帰ろうと思っただけだから。」
紙袋を差し出した手をそのまま引かれて、玄関の中に引き込まれる。
ストーブの炊かれた部屋は暖かくて、それだけでのぼせそうになる。
「あの、本当に大丈夫だから…。」
「イヤ全然大丈夫じゃないでしょ。ウチのシャワー浴びていきな。服は…乾燥機んなか入れとけば1時間で乾くから。」
そう言って、すぐにタオルと着替えを用意してくれた彼は、バスルームへとわたしの背中を押す。
「乾燥機これね。入れたらこのボタン押して。んで、こっちがシャンプーでこっちがボディソープ。あー、あんまし綺麗じゃないけど、勘弁して。」
まるで職場で会うときのように、テキパキと説明する宮城くんに押されて、迷ったけどここは甘えさせてもらう事にした。
看病に来たのに、その宮城くんに逆にお世話してもらうなんて…わたし本当に何やってるんだろう。
冷えた身体に、熱いシャワーが染み渡る。
教えてもらったシャンプーやボディーソープの隣に、女性もののシャンプーなんかが無いことにホッとしている自分がいる。
押しかけておいて図々しいけれど、学生のころ付き合った彼の家でメイク落としを見つけた事が、ちょっとトラウマになっているんだなと気づかされた。
それ以来、なんとなく恋愛に対しては奥手だ。
だから、何度か宮城くんとデートして、好きだと自覚していても、最後の一歩がなかなか踏み出せない。
ただ好きと伝えることが、大人になるにつれてこんなに難しいことだと知った。
…だから今日ここに来たのは、ものすごく勇気を出しての行動だったのに…。
はあ、と大きくため息をついて、まだ使い慣れないシャワーのバーをひねる。
:
:
:
貸してもらった服を着て脱衣所を出ると、キッチンに立つ宮城くんの姿があった。
わたしは驚いて、思わず駆け寄る。
「あ、美奈子ちゃん、乾燥機のやり方わかった?」
「うん、ありがとう…ってそれよりも熱…!熱あるのに何やってるの?」
「買ってきてくれたおかゆ温めようと思って。美奈子ちゃんおなか減ってない?冷凍のチャーハンとかで良かったらあるけど。」
「そんな…わたしがやるよ!」
「いーからいーから。美奈子ちゃんお客さんなんだし。」
言葉とは裏腹にいつもより元気のない様子の宮城くんは、力なくふにゃりと笑った。
わたしは少し強引に宮城くんをソファーに寝かせて、代わりにそのキッチンに立つ。
白いおかゆの上に、赤い梅干しをひとつ。温めただけだけど、たぶん定番のおかゆ。
これでよかったのだろうか、少し自信がない。
「ホントありがとね。こんな雨の中、来てくれて。」
その白粥を木目のスプーンですくいながら、宮城くんが言う。
寝ていたせいか、いつものようにセットされた髪ではなく、少し乱れた姿に緊張する。
しわ一つ無いスーツを着ている姿とは違って、ゆるいスウェットを着ているところにも、なんだかドキドキしてしまう。
それを悟られないように、慎重に声色を選ぶ。
「わたしこそ、ごめん。宮城くんの看病に来たつもりが、逆にお世話されちゃって…。」
「いいよ。俺がしたいだけだから。」
先ほどまだ熱があるのかと聞いたら、もうほとんど微熱に下がっているとの事だった。
しかしこの様子では、まだ本調子ではないのは確かだ。
「たまには風邪引くのも、いいもんだね。まさか美奈子ちゃんがウチまで来てくれるなんて。」
「ごめんね、アポなしで押しかけるなんて…。」
「美奈子ちゃん、謝んなくていーよ。」
指摘されて気づいた。わたしさっきから謝ってばっかりだ。
宮城くんも困っているかもしれない。
「あ、ごめ…。」
言いかけて、今度は途中で黙る。気づいたらまた謝っている。思えばここにきて、わたしゴメンしか言ってないじゃないか。
すると黙ったままのわたしをニヤニヤと面白そうに見つめていた宮城くんが、意地悪そうに言う。
「また謝った。」
「う…だって…わたし全然ダメなんだもん。電車に傘忘れるわ、お風呂は借りるわで…。全然、宮城くんに恩返しできてない。」
「恩返し?」
「うん、だっていつもしてもらってばかりだから。ご馳走してくれたり、家の近くまで送ってくれたり…。
今日だって熱があるのに、わたしのご飯の心配までしてくれたり…。
わたしも少しくらい、宮城くんに何かしてあげたいって思ったの。風邪のときくらい、頼りにしてもらいたくて。」
勢いよく言い切ってチラリと彼を見ると、普段よりよくしゃべるわたしに驚いたような顔をしていた。
気づけば、なんだかいつもより距離が近い。
そして、はにかんだように口元をぎゅっとゆがめる。
「美奈子ちゃん、なんかそれ、ちょっとヤバいかも。」
「え!?ヤバい?わたしそんなに変なこと言った?」
「うん、ヤバい。…可愛すぎて。」
熱に浮かされたように熱い瞳をした宮城くんが、ジッとわたしを見つめる。
もともと近かった距離が、じりじり詰められていく。
これまで一定以上に近づくことのなかった彼が、その体温を感じそうなほど近くに迫っている。
(キス、されるのかな…?)
一瞬そう身構える。
でも、待って。わたしはまだ、宮城くんに気持ちを打ち明けてない。宮城くんがわたしをどう思っているのかも…。
脳裏でいろいろな感情が飛び交いつつも、意を決して強く目をつむった時だった。
ピンポーンという高らかなチャイムの音が、音のない部屋に響き渡る。
「…?」
「あ、そうだ。さっきウーバー頼んだの、忘れてた。悪いけど代わりに出てくれる?」
お互い現実に引き戻され、自然に体はもとの距離まで離される。
玄関先で紙袋を受け取ると、その中身はサンドウィッチだった。透明な容器から野菜の断面が綺麗にディスプレイされていて、にんじんのオレンジが妙に食欲を誘う。
「それ美奈子ちゃんのね。あんま腹減ってなさそうだったけど…よかったら食べてよ。」
「宮城くん…。」
「俺だけ色々してもらうのも…なんか悪いじゃん?」
うう、やっぱりこういうとき、宮城くんはいつも先手を打ってくる。
わたしがしてあげたことよりも何倍も素敵なことを、いつもしてくれるのだ。
このままじゃ一生かかっても、恩返しなんてできないかもしれない。
「ありがとう…おいしそう。」
言った途端に、おなかがきゅるると鳴った。
恥ずかしくて、口を大きくへの字に曲げることしか出来ない。
そんなわたしをみて、宮城くんは楽しそうに笑う。
「やっぱ腹減ってたんじゃん。そこらへんのコーヒーとか、適当に入れていいよ。」
「あ、ありがとう。ではお言葉に甘えて…。」
ここまで来たら、とことん甘えさせてもらおうかな、なんて思ってしまう。
初めて使うコーヒーメーカーを操作すると、その香ばしい香りが鼻孔をかすめた。
マグカップをひとつ持ってリビングへ戻ると、空になった器の前に宮城くんが座っていた。
最初に会ったときより、少しだけ元気そうだ。熱はもう下がっているのかもしれない。
すると妙に畏まった面持ちで、わたしに向き直る。いつもの余裕そうな態度はなく、すごく真剣な表情だ。
「あの、美奈子ちゃん。」
「うん、」
わたしの心臓はまたも大きく波打ちだして、ドキドキとうるさくなる。
持っているコーヒーを溢してしまいそうだ。早まる呼吸を沈めるように全神経を注ぐも、彼から目線が反らせない。
「…あ、コーヒ冷めちゃうから、先食べていいよ。あとで話す。」
「え、何?気になるよ…。」
「いや、ホントに後でいいから…。」
「ええ、気になって喉通らないよ。先に言ってよ…!」
このままの状態で、平然とサンドウィッチを食べるなんて、無理だ。
もしかしたら、宮城くんの言おうとしている言葉は…。
もしかしたら、違うかもしれない。だけど、もしかしたら…。
それを早く確かめてしまいたくて、気持ちがはやる。
おなかが空いていたことなんて、途端に忘れてしまった。
「じゃあ…。あのさ、」
珍しく歯切れの悪い宮城くんが、改めて切り出した時だった。
今度はピピ―ッという電子音が、遠くの方から聞こえて、わたしたちの意識はすっかりそちらに取られてしまう。
「…これは、何の音?」
「…乾燥機の音だ。」
そういえば、乾くまで大体1時間と言っていたっけ。
さっきスイッチを押してから、もう随分と時間が経っている。
宮城くんは、はぁーと大きく長いため息を吐いた後、ゆるゆると脱力したように体制を崩した。
そして今度は、こらえきれなくなったようにくっくと笑いだす。
「…なんかさっきからスゲー邪魔ばっか入るな。」
「うん…なんていうか…ね。」
「もう分かってるよね、俺がなんて言いたいか…。」
「なんて…言いたいか?」
わかっている、と思う。多分。
だけどここまで来ても、絶対的な自信も確証もない。
だからこの期に及んでも、まだわからないフリをしてしまう。
「分かってるクセに…。」
「あの…。」
「俺、美奈子ちゃんのこと好き。…初めて会った時から。」
少し彩度を落とした照明の中でもわかる。
うわずった声に、赤く染められた頬。
それはきっと、もう熱のせいではない。
外で会うときの完璧な宮城くんではない、少し自信なさげに揺れる瞳。
そのすべてが新鮮で、けれどずっと知っている宮城くんのようでもあって、とても安心する。
「…わたしも好きです。…ずっと前から。」
やっと伝えられたその言葉を聞いて、目の前の彼は緊張を吐き出すかのように、大きく息をする。
「よかったあ…!」
「もう…わかってたクセに。」
「わかんなかったよ。だって美奈子ちゃん、全然俺に気がなさそうだったんだもん。」
「そんなことないよ、ありまくったよ。」
ぶんぶんと大げさに、首を横に振る。
むしろ好きな気持ちが溢れすぎて、絶対にバレていると思っていたから意外だ。
気持ちって意外と、言わなきゃ伝わらないものなんだなあと思う。
「強引にいったりなんかしたら、嫌われそうで怖かった。」
「そんなことないよ。」
「繊細そうで、触れたら壊れちゃいそうで…。」
「そんな…。」
「でも、もういいよね?多少は強引でも。」
ニッとゆるく口角を上げて笑うと、わたしの返事も待たずにそっと肩に手が触れる。
洋服越しに手のひらの体温が伝わってきて、クラクラする。
「俺と付き合ってよ、美奈子ちゃん。」
「…はい。」
今度はわたしの返事を最後まで聞くと、目の前で言葉を紡いでいた唇が、そっとわたしに触れる。
その唇は、強引という言葉とはなんとも裏腹に、とても優しくて、とても温かかった。
わたしはそこで、電車の中に傘を忘れてしまったことに気づく。
しかし時はすでに遅し。
その電車はとっくに発車している。
コンビニでビニール傘を買おうとするも、一日中降り続く雨のせいか、在庫はすでにゼロになっていた。
なんてついてないんだろう。それよりも、普段からまったく計画性のない自分にあきれてくる。
こんなことなら折りたたみ傘のひとつでも持っておくんだった。
意を決して雨の中を走り、身体の半分以上がずぶ濡れになったところで、背の高いマンションにたどり着いた。
場所だけは知っていたけど、まだ中に入ったことは一度もない。
オートロックになっているその建物に足を踏み入れ、チャイムを押すと、スピーカーから聞き慣れた声が響く。
「はい。」
その声は、普段よりも元気がないように感じる。
「あの、高橋です。高橋美奈子…。」
「えっ…!」
「と、突然ごめんなさい!宮城くん風邪で休んでるって聞いたから、それで…。」
「あ、えっと、どうぞ、入ってよ。」
スピーカーの向こうでガサガサと焦るような物音が聞こえたが、すぐにロックが解除された。
開いたドアの向こう、エントランスへと足を踏み入れ、誰かが残した靴跡を追って歩くと、エレベーターにつながっていた。
たしか7階って言ってたよね。
ラッキーセブンでいいなあ、と思う。宮城くんの性格にぴったりだ。
わたしと宮城くんは、いわゆる仕事の取引相手だ。
デザイナーという職種に就いているわたしが宮城くんと出会ったのは、クライアントとしての打ち合わせの場だった。
わたしが受けもった案件の担当者が、宮城くんだったのだ。
それしか接点のないわたし達だったけど、少し前に宮城くんから連絡先を聞いてくれて仲良くなり、今ではプライベートでも会って、食事をしたりする。そんな関係。
ただそれだけの関係で、宮城くんがわたしのことをどう思っているのかは、よくわからない。
だけどわたしは、とっくに宮城くんのことを好きになってしまっている。
だから今日の打ち合わせで宮城くんが休んでいることを知り、とても心配になったのだった。
意を決して、マンションを訪ねてみたはいいものの、迷惑ではなかっただろうか。
スポーツドリンクやらおかゆのレトルトやらを買い込んだ袋も、雨のせいで濡れてしまっている。
わたし自身からも、ぽたぽたと水がしたたる始末だ。
渡してしまって、早く帰ろう。ここまで濡れてしまえば、帰りに濡れるのも同じ事だ。
部屋の前でインターホンを押すと、思いのほかすぐにドアは開いた。
玄関に置かれた、灯油のにおいで冬を感じる。
と同時に、おでこに冷えピタを貼った、少し顔の赤い宮城くんが顔を出した。
そしてわたしを見た瞬間に、驚きに目を見開いた。
「ど、どうしたの?そんな濡れて…」
「あ、えっとこれは…。電車に傘忘れちゃって。」
「とりあえず入ってよ、寒いでしょ。」
「ううん、いいのいいの!これ渡してすぐ帰ろうと思っただけだから。」
紙袋を差し出した手をそのまま引かれて、玄関の中に引き込まれる。
ストーブの炊かれた部屋は暖かくて、それだけでのぼせそうになる。
「あの、本当に大丈夫だから…。」
「イヤ全然大丈夫じゃないでしょ。ウチのシャワー浴びていきな。服は…乾燥機んなか入れとけば1時間で乾くから。」
そう言って、すぐにタオルと着替えを用意してくれた彼は、バスルームへとわたしの背中を押す。
「乾燥機これね。入れたらこのボタン押して。んで、こっちがシャンプーでこっちがボディソープ。あー、あんまし綺麗じゃないけど、勘弁して。」
まるで職場で会うときのように、テキパキと説明する宮城くんに押されて、迷ったけどここは甘えさせてもらう事にした。
看病に来たのに、その宮城くんに逆にお世話してもらうなんて…わたし本当に何やってるんだろう。
冷えた身体に、熱いシャワーが染み渡る。
教えてもらったシャンプーやボディーソープの隣に、女性もののシャンプーなんかが無いことにホッとしている自分がいる。
押しかけておいて図々しいけれど、学生のころ付き合った彼の家でメイク落としを見つけた事が、ちょっとトラウマになっているんだなと気づかされた。
それ以来、なんとなく恋愛に対しては奥手だ。
だから、何度か宮城くんとデートして、好きだと自覚していても、最後の一歩がなかなか踏み出せない。
ただ好きと伝えることが、大人になるにつれてこんなに難しいことだと知った。
…だから今日ここに来たのは、ものすごく勇気を出しての行動だったのに…。
はあ、と大きくため息をついて、まだ使い慣れないシャワーのバーをひねる。
:
:
:
貸してもらった服を着て脱衣所を出ると、キッチンに立つ宮城くんの姿があった。
わたしは驚いて、思わず駆け寄る。
「あ、美奈子ちゃん、乾燥機のやり方わかった?」
「うん、ありがとう…ってそれよりも熱…!熱あるのに何やってるの?」
「買ってきてくれたおかゆ温めようと思って。美奈子ちゃんおなか減ってない?冷凍のチャーハンとかで良かったらあるけど。」
「そんな…わたしがやるよ!」
「いーからいーから。美奈子ちゃんお客さんなんだし。」
言葉とは裏腹にいつもより元気のない様子の宮城くんは、力なくふにゃりと笑った。
わたしは少し強引に宮城くんをソファーに寝かせて、代わりにそのキッチンに立つ。
白いおかゆの上に、赤い梅干しをひとつ。温めただけだけど、たぶん定番のおかゆ。
これでよかったのだろうか、少し自信がない。
「ホントありがとね。こんな雨の中、来てくれて。」
その白粥を木目のスプーンですくいながら、宮城くんが言う。
寝ていたせいか、いつものようにセットされた髪ではなく、少し乱れた姿に緊張する。
しわ一つ無いスーツを着ている姿とは違って、ゆるいスウェットを着ているところにも、なんだかドキドキしてしまう。
それを悟られないように、慎重に声色を選ぶ。
「わたしこそ、ごめん。宮城くんの看病に来たつもりが、逆にお世話されちゃって…。」
「いいよ。俺がしたいだけだから。」
先ほどまだ熱があるのかと聞いたら、もうほとんど微熱に下がっているとの事だった。
しかしこの様子では、まだ本調子ではないのは確かだ。
「たまには風邪引くのも、いいもんだね。まさか美奈子ちゃんがウチまで来てくれるなんて。」
「ごめんね、アポなしで押しかけるなんて…。」
「美奈子ちゃん、謝んなくていーよ。」
指摘されて気づいた。わたしさっきから謝ってばっかりだ。
宮城くんも困っているかもしれない。
「あ、ごめ…。」
言いかけて、今度は途中で黙る。気づいたらまた謝っている。思えばここにきて、わたしゴメンしか言ってないじゃないか。
すると黙ったままのわたしをニヤニヤと面白そうに見つめていた宮城くんが、意地悪そうに言う。
「また謝った。」
「う…だって…わたし全然ダメなんだもん。電車に傘忘れるわ、お風呂は借りるわで…。全然、宮城くんに恩返しできてない。」
「恩返し?」
「うん、だっていつもしてもらってばかりだから。ご馳走してくれたり、家の近くまで送ってくれたり…。
今日だって熱があるのに、わたしのご飯の心配までしてくれたり…。
わたしも少しくらい、宮城くんに何かしてあげたいって思ったの。風邪のときくらい、頼りにしてもらいたくて。」
勢いよく言い切ってチラリと彼を見ると、普段よりよくしゃべるわたしに驚いたような顔をしていた。
気づけば、なんだかいつもより距離が近い。
そして、はにかんだように口元をぎゅっとゆがめる。
「美奈子ちゃん、なんかそれ、ちょっとヤバいかも。」
「え!?ヤバい?わたしそんなに変なこと言った?」
「うん、ヤバい。…可愛すぎて。」
熱に浮かされたように熱い瞳をした宮城くんが、ジッとわたしを見つめる。
もともと近かった距離が、じりじり詰められていく。
これまで一定以上に近づくことのなかった彼が、その体温を感じそうなほど近くに迫っている。
(キス、されるのかな…?)
一瞬そう身構える。
でも、待って。わたしはまだ、宮城くんに気持ちを打ち明けてない。宮城くんがわたしをどう思っているのかも…。
脳裏でいろいろな感情が飛び交いつつも、意を決して強く目をつむった時だった。
ピンポーンという高らかなチャイムの音が、音のない部屋に響き渡る。
「…?」
「あ、そうだ。さっきウーバー頼んだの、忘れてた。悪いけど代わりに出てくれる?」
お互い現実に引き戻され、自然に体はもとの距離まで離される。
玄関先で紙袋を受け取ると、その中身はサンドウィッチだった。透明な容器から野菜の断面が綺麗にディスプレイされていて、にんじんのオレンジが妙に食欲を誘う。
「それ美奈子ちゃんのね。あんま腹減ってなさそうだったけど…よかったら食べてよ。」
「宮城くん…。」
「俺だけ色々してもらうのも…なんか悪いじゃん?」
うう、やっぱりこういうとき、宮城くんはいつも先手を打ってくる。
わたしがしてあげたことよりも何倍も素敵なことを、いつもしてくれるのだ。
このままじゃ一生かかっても、恩返しなんてできないかもしれない。
「ありがとう…おいしそう。」
言った途端に、おなかがきゅるると鳴った。
恥ずかしくて、口を大きくへの字に曲げることしか出来ない。
そんなわたしをみて、宮城くんは楽しそうに笑う。
「やっぱ腹減ってたんじゃん。そこらへんのコーヒーとか、適当に入れていいよ。」
「あ、ありがとう。ではお言葉に甘えて…。」
ここまで来たら、とことん甘えさせてもらおうかな、なんて思ってしまう。
初めて使うコーヒーメーカーを操作すると、その香ばしい香りが鼻孔をかすめた。
マグカップをひとつ持ってリビングへ戻ると、空になった器の前に宮城くんが座っていた。
最初に会ったときより、少しだけ元気そうだ。熱はもう下がっているのかもしれない。
すると妙に畏まった面持ちで、わたしに向き直る。いつもの余裕そうな態度はなく、すごく真剣な表情だ。
「あの、美奈子ちゃん。」
「うん、」
わたしの心臓はまたも大きく波打ちだして、ドキドキとうるさくなる。
持っているコーヒーを溢してしまいそうだ。早まる呼吸を沈めるように全神経を注ぐも、彼から目線が反らせない。
「…あ、コーヒ冷めちゃうから、先食べていいよ。あとで話す。」
「え、何?気になるよ…。」
「いや、ホントに後でいいから…。」
「ええ、気になって喉通らないよ。先に言ってよ…!」
このままの状態で、平然とサンドウィッチを食べるなんて、無理だ。
もしかしたら、宮城くんの言おうとしている言葉は…。
もしかしたら、違うかもしれない。だけど、もしかしたら…。
それを早く確かめてしまいたくて、気持ちがはやる。
おなかが空いていたことなんて、途端に忘れてしまった。
「じゃあ…。あのさ、」
珍しく歯切れの悪い宮城くんが、改めて切り出した時だった。
今度はピピ―ッという電子音が、遠くの方から聞こえて、わたしたちの意識はすっかりそちらに取られてしまう。
「…これは、何の音?」
「…乾燥機の音だ。」
そういえば、乾くまで大体1時間と言っていたっけ。
さっきスイッチを押してから、もう随分と時間が経っている。
宮城くんは、はぁーと大きく長いため息を吐いた後、ゆるゆると脱力したように体制を崩した。
そして今度は、こらえきれなくなったようにくっくと笑いだす。
「…なんかさっきからスゲー邪魔ばっか入るな。」
「うん…なんていうか…ね。」
「もう分かってるよね、俺がなんて言いたいか…。」
「なんて…言いたいか?」
わかっている、と思う。多分。
だけどここまで来ても、絶対的な自信も確証もない。
だからこの期に及んでも、まだわからないフリをしてしまう。
「分かってるクセに…。」
「あの…。」
「俺、美奈子ちゃんのこと好き。…初めて会った時から。」
少し彩度を落とした照明の中でもわかる。
うわずった声に、赤く染められた頬。
それはきっと、もう熱のせいではない。
外で会うときの完璧な宮城くんではない、少し自信なさげに揺れる瞳。
そのすべてが新鮮で、けれどずっと知っている宮城くんのようでもあって、とても安心する。
「…わたしも好きです。…ずっと前から。」
やっと伝えられたその言葉を聞いて、目の前の彼は緊張を吐き出すかのように、大きく息をする。
「よかったあ…!」
「もう…わかってたクセに。」
「わかんなかったよ。だって美奈子ちゃん、全然俺に気がなさそうだったんだもん。」
「そんなことないよ、ありまくったよ。」
ぶんぶんと大げさに、首を横に振る。
むしろ好きな気持ちが溢れすぎて、絶対にバレていると思っていたから意外だ。
気持ちって意外と、言わなきゃ伝わらないものなんだなあと思う。
「強引にいったりなんかしたら、嫌われそうで怖かった。」
「そんなことないよ。」
「繊細そうで、触れたら壊れちゃいそうで…。」
「そんな…。」
「でも、もういいよね?多少は強引でも。」
ニッとゆるく口角を上げて笑うと、わたしの返事も待たずにそっと肩に手が触れる。
洋服越しに手のひらの体温が伝わってきて、クラクラする。
「俺と付き合ってよ、美奈子ちゃん。」
「…はい。」
今度はわたしの返事を最後まで聞くと、目の前で言葉を紡いでいた唇が、そっとわたしに触れる。
その唇は、強引という言葉とはなんとも裏腹に、とても優しくて、とても温かかった。
1/1ページ