雨のトライアングル【藤真】
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その日は雨が降っていた。
夏休みに入っても続いていたカンカン照りから一転、アスファルトから上がってくる湿っぽい匂いが、鼻を突く。
その雨音を切るように響いたチャイムの音は、2階にあるわたしの部屋まで聞こえてくる。
軽快な足取りで階段を下り、玄関ドアを開けるとそこには、お付き合いしてそろそろ半年になる恋人の姿があった。
花形透。
すらっと背の高い彼は、同じ高校に通う3年生だ。
「透、早かったね。」
「ああ、一本早い電車に乗れたんだ。はいこれ、おばさんに。」
「ありがとう、わざわざごめんね。でも今日はお母さん居ないんだ、仕事。」
うちへ来るとき、いつも律儀に手土産を買ってきてくれる透は、もちろん母にもお墨付きをもらっている。
いつも透が遊びに来るというと、自分まで張り切って口紅を塗ったり、部屋の掃除をしたりしているのだから笑ってしまう。
そんなわたしの家族にも笑顔で接してくれる、優しい透のことが大好きだと、いつも思わされる。
「まだ来てないのか?あいつ。」
「うん、まだだよ。家近いクセにね。」
玄関に並ぶ靴を見て、透が言う。
あいつというのは、わたしの幼馴染であり、透の友人でもある。
その”あいつ”を含めた3人で、夏休みの課題をしようというのが、今日透がここに来た理由なのだ。
ちょうどその話をしかけたところで、チャイムも鳴らさずにドアを開ける人物が1人。
藤真健司。彼がその、話題の”あいつ”である。
「あ、わりー遅れた?」
「いや、俺も今来たところだ。お前、さすがにチャイムくらい鳴らせよ。」
「そんなのいらねぇだろ。な、美奈子。」
こんなにふてぶてしくうちに出入りするのは、幼い頃から家族ぐるみで仲の良かった健司くらいのものだろう。
うちの家族も、健司が勝手に家に上がり込んでいてもなにも思わないし、わたしもそれくらい気軽に健司の家に出入りできてしまう。
そんな健司とわたしの関係を、いつも離れた視点でみているのは透だ。
「健司はずっとこうだから、今更言っても直んないよ。見た目の割にこんなだから。」
「だな。ぱっと見優等生と思いきや、俺たちにグループ課題の相手を頼み込んでくるほどだしな。」
「別に良いだろ…。これやりゃ、ちょっとは内申点上がるって言われたんだからさ。」
「まあ、玄関で話すのも何だし、」と、上がってもらうように促す。
2人とも何度も来たことがあるので、案内しなくても迷いなく、わたしの部屋へと進んでいく。
そういえば、透と付き合い始めてから健司がうちにくるのは、初めてかもしれない。
一応気をつかわれていたのかもしれないということに、今になって気がついた。
氷をなみなみいれたグラスに麦茶を注いで、部屋に行くと、すでに課題になっている資料を広げている2人がいる。
狭いテーブルの上に広がったルーズリーフを避けつつ、グラスを置くと、透が少し目線を上げて「サンキュー。」と言った。
それからの2人の集中力には、ちょっと驚いた。
こんな風に友達同士なんかで集まると、大抵は雑談してしまって進まないことが常なのに、真剣に課題に対する問題点を洗い出している。
わたしはというと、その入っていけないほどの2人の雰囲気に圧倒されながら、時折求められる意見におぼつかなく返事するので精一杯だった。
「…大分まとまったかな。」
「だな。あとは最後に、これからの展望とか書いて付け足せば、かなりいい線いくんじゃねえか?」
気づけば2時間ほど経っていて、健司はすこし伸びをした後に、すっかり氷の溶けてしまった麦茶を飲み干した。
「2人ともすごい…。わたしほとんど、言われた通りにメモすることしかしてないよ。」
途中あたりからすっかり話についていけなくなったわたしは、ルーズリーフに2人の言ったことをまとめる役に徹していた。
「いや、美奈子がうまくまとめてくれたから、助かったよ。俺は文章まとめるの得意じゃないし。」
透がすかさずフォローをしてくれたので、内心ホッとしていたのに、健司が横やりを入れる。
「字はあいかわらず汚いけどな。」
「うっさい、健司。」
いつもの調子で小突くと、すべてわかっていたというように避けられる。
そんなやりとりを、透はメガネの奥で薄く笑みを浮かべて眺めていた。
透と付き合うことになったのは、紛れもなく健司つながりだった。
元々幼馴染の健司と、その友達の透。そんな3人で過ごすこの時間に、わたしはこのうえなく幸福を感じる。
いつまでも、こんな風に3人でいられたら…。そして、透ともずっと一緒にいられたらいいのに。
「もうお昼かあ、おなか空いたね。」
「だな、なんか食いに行く?」
時刻は12時もとっくにすぎて、13時になろうとしていた。
集中しすぎていたせいか、今になって空腹であることに気づく。
「雨かあ…。」
レースカーテンの奥を確認すると、やはり雨は止んでいない。
それもそのはずだ、今日は天気予報で一日雨だと、めずらしく断言されているのだから。
「俺、コンビニでなんか買ってくるよ。美奈子を濡れさせたくないしな。」
そう言って、迷いなく透が立ち上がる。わたしの部屋が小さく見えてしまうほどの長身が、すらりと伸びる。
わたしが以前、雨の日は前髪がうねるからイヤだと言ったことを、きっと覚えていてくれたのだろう。
「サンキュー花形。俺はなんでもいいぜ。」
「わかった、美奈子は?」
「じゃあ、わたしはパスタがいいな。」
了解、と低く綺麗な声で言うと、そのまま部屋を出て行った。階段を下る音が、だんだん小さくなる。
久しぶりに健司と2人きりになる。
今までなら気にもしなかったことなのに、健司が妙に無言だから、調子が狂う。
いつもなら、わたしも健司もそれぞれ好き勝手にスマホをいじったり、寝転がって漫画を読んだりしているのに。
それもこれも、透と付き合いだしてからすこし変わってしまった健司との関係性に、じわじわと気づかされてしまったのが原因だ。
「花形とはうまくやってんの?」
唐突な質問によって、不穏な空気が破られる。
「うん、まあ。フツーだよ。ウチの家族とも仲いいし。」
「ふーん、そう。良かったじゃん。」
「うん…。うちの弟とも、仲良くしてくれるしね。」
「そういや弟、今日はいねえの?」
「ああ、言ってなかったっけ。なんか中学入って部活始めてさ。野球部なんだけど、朝から夜まで練習みたい。」
「俺らの中学って、謎に野球部厳しかったもんな。強くないクセに、変に力入っててさ。」
「わかる、顧問がアレだもんね。」
ははは、と笑い合うと、そこにはいつもの健司がいて安心した。
そうだった。こんな風だった、わたしたちは。
小中高とずっと隣にいた健司に距離を感じるなんて、わたしらしくないし、そんな自分自身が寂しかった。
変わらないでいることがこんなに難しいのだと、透と付き合ってから初めて知った。
これから健司にもし彼女ができたり、お互い結婚すれば、今よりもっと「幼馴染」は遠のいてしまうのだろうか。
考え込んでうつむいていると、散らかった机の上を整理する健司が目に入る。
その仕草をぼんやりみていると、さきほどまでは気づかなかったものに五感を奪われ、ハッとする。
「健司、なんか透の匂いする。」
「え?」
健司の方に身体を近づけてみると、ふわっと香る、嗅ぎ慣れた透の匂い。
なぜ彼からするのだろうと、頭の中が混濁する。
「ああ、このTシャツ。部活んとき花形に貸して、昨日返ってきたんだよ。洗濯してくれたから、その匂いじゃねえの?」
「そっか。この匂いって、透んちの洗剤の匂いだったんだ…。」
なにも考えずに健司の肩に鼻を近づけると、バスケで駆使されて意外にもゴツゴツとした手で、身体をひき離される。
「必要以上に、近寄んな。花形が誤解する。」
「あ、ごめん…。」
距離感を間違えていたことに気づき、急に恥ずかしくなる。
健司はわたしのことを考えるのと同時に、透のことも考えているのだ。
わたしにとってはただの幼馴染だけど、健司にとっては親友の彼女でもあるという事実が、単純だったわたし達の関係をいまさら複雑にさせていた。
3人で過ごすという取り合わせによって、今日は健司との間に、妙な溝を感じまくっている気がする。
「あ、わり、キツく言いすきた。」
「いや、わたしもごめん。」
「つうか、お前も花形の匂いするから。ずっと思ってたけど。」
「え、そうなの?」
言われて、着ている服を嗅いでみるものの、自分ではよくわからない。うちの柔軟剤に混ざり、太陽に干された衣類の匂いがするだけだ。
「今が、とかじゃなくて、ずっとだよ。学校で会うときとかも。」
「本当に?全然気づかなかった。」
「あんだけ四六時中くっついてちゃ、匂いもうつるだろ。」
「そ、そんなにくっついてません!」
幼馴染に彼氏とのやりとりを見られていたと思うと、急に気恥ずかしくなり、つい言葉が強くなる。
しかしすぐに健司から、
”ムカつくからいちゃつくんじゃねーよ”
とでも返ってくると思って身構えていたのに、そのツッコミは一向に向かってこなかった。
不機嫌そうな顔で、黙り込んでいる。
これは冗談でもなんでもなく、本当に不機嫌なときの顔だ。
こういうときは幼馴染のわたしでも、正直焦る。
「健司…?」
そのふてくされた横顔に話しかけてみると、長いまつげは閉じられ、はあ、と大きくため息を吐いた。
「…わりぃ、俺疲れてんのかな。」
「うん…かもね。バスケ部の練習、キツそうだし。」
「だよな、相当疲れてるわ、俺。」
そういいつつ、わたしの目をじっと見つめる彼との距離は、じりじりと近くなる。
先ほどわたしが近づいたぶん離された距離を、今度は健司が埋めてくる。
「…ちょ、近い。」
「花形が誤解する?」
「うん、する。」
幼馴染といえども守られていた一定の距離が、いとも簡単に破られる。
抱きしめられる、と思ったのもつかの間。
健司の顎が、そっとわたしの左肩に乗せられて、彼のうなじが横目にうつる。
うなじの形まで整ったその男は、耳のすぐ横で問いかける。
「匂いがうつるくらい、あいつに近づいてんの?学校でも…。」
「そんなこと…!」
「抱き合ったり…キスとかさ…。」
「…っ」
消え入りそうな声で言われて、戸惑う。
なにより戸惑っているのは、健司の栗色の髪がまとうシャンプーの匂いと同時に、彼の着ているTシャツから漂う、透の匂い。
そのふたつが混ざり合って、わたしの罪悪感はますます増長されていく。
「っ、ほんとに近い、健司…」
「ずっとイヤだった。お前から、この匂いがするのが…。」
引き離そうとすればすぐにでもできてしまうだろう。
現に健司はわたしを腕で抱えても居なくて、ただ肩に顎を乗せているだけだ。
そんなに無防備な体勢であるにも関わらず、わたしは彼をハッキリと拒絶できないでいる。
「お前が花形に抱かれるって想像しただけで俺、おかしくなりそう。」
「やめて、それ以上言わないで。」
この先を聞いてしまうのが怖くて、強い口調になる。
しかし続けようとした言葉も、彼のやわらかい唇で塞がれる。
透とはちがう男の人の、唇。
触れる唇の角度も、柔らかさもちがう。
「ん…。」
小さく抵抗してみると、懐かしいようで怖いようでもある、彼の閉じられたまぶたがゆっくりと開く。
唇のぬくもりが離れると、目の前にはわたしの知らない健司がいた。
「なんで…」
「なんでって…なんでだろうな。」
「からかわないでよ。」
彼のことが急にわからなくなり、ただ見つめ返すことしかできない。
すると健司は弱々しく笑い、
「大丈夫だよ。ここまでしたくせに、お前のこと抱きしめる勇気もないんだぜ、俺。」
そう言って体を離すと、元座っていた場所にもう一度座り直す。
雨の音はあいかわらず狭い部屋にこだましている。
さきほどより強くなったかもしれない。
バクバクとうるさい心臓を収めようとするも、わたしの呼吸は、まだ誰からも教わっていないかと思うほど下手くそになっていた。
「…健司ってさ…わたしのこと好きだったの?」
「なわけねーだろ、バカ。」
恥ずかしさを飲み込んで聞いたのに、すでに健司は何事もなかった様に、普段どおり飄々としていた。
「ば、バカって…!健司がさっきまで…」
「さっき?なんかあったか?」
その目をハッキリと捉えてみても、先ほどのような彼の陰はどこにもない。
ただあるのは、見慣れた幼馴染のいつもの顔だった。
続く言葉を探していると、そのタイミングで階段を上がってくる音が聞こえる。
それがだんだんと大きくなると、部屋の扉が開けられた。
「悪い美奈子、勝手に上がらせてもらったぞ。」
「いいよ、全然。おかえり、透。」
戻ってくるなり透が、ビニール袋から買った物を取り出して並べていく。
雨がよく降っていたのだろう、透の肩も足下も少し濡れていた。
「…ありがとう。」
「サンキュー花形ー。俺もう腹減った。」
「はいはい。午前中アタマ使ったし、甘いものも買ってきた。」
「気が利くじゃん、デザートなんて。あ、俺これがいい。」
さきほどまでの出来事が本当にわたしの白昼夢だったのではないかと思うほど、完璧に健司は”いつも通り”だった。
その光景をどこか人ごとのように眺めてしまい、なかなか輪に入っていく気持ちになれない。
わたしだってバカじゃない。それに、健司のことは昔からよく分かってる。
健司の本音は、きっと…。
だけど気づいたところでわたしにはどうすることもできない。
それを彼自身も、わかっているのだろうか。
つい数分前までぬくぬくと感じていた居心地のいい関係が、バラバラと崩れてしまったような、そんな暗い感情が心に覆いかぶさる。
「美奈子?どうかしたか?」
ふいに透に話しかけられる。
返事をする声が不自然にならないように、意識しながらわたしも笑う。
「え?別に?ちょっと疲れただけだよ。」
「そうか、でも課題はまだ終わってないからな。飯食ったらまた、再開だ。」
「そうそう、俺らまた明日から部活だから。今日しか集まれる日ないんだぞ。」
「…だね、うん。食べたらわたしも頑張るよ。」
あんなことがあったというのに、透の前でこうして笑っている今のわたし。
そんなわたし自身が、健司より誰より、一番怖かった。
夏休みに入っても続いていたカンカン照りから一転、アスファルトから上がってくる湿っぽい匂いが、鼻を突く。
その雨音を切るように響いたチャイムの音は、2階にあるわたしの部屋まで聞こえてくる。
軽快な足取りで階段を下り、玄関ドアを開けるとそこには、お付き合いしてそろそろ半年になる恋人の姿があった。
花形透。
すらっと背の高い彼は、同じ高校に通う3年生だ。
「透、早かったね。」
「ああ、一本早い電車に乗れたんだ。はいこれ、おばさんに。」
「ありがとう、わざわざごめんね。でも今日はお母さん居ないんだ、仕事。」
うちへ来るとき、いつも律儀に手土産を買ってきてくれる透は、もちろん母にもお墨付きをもらっている。
いつも透が遊びに来るというと、自分まで張り切って口紅を塗ったり、部屋の掃除をしたりしているのだから笑ってしまう。
そんなわたしの家族にも笑顔で接してくれる、優しい透のことが大好きだと、いつも思わされる。
「まだ来てないのか?あいつ。」
「うん、まだだよ。家近いクセにね。」
玄関に並ぶ靴を見て、透が言う。
あいつというのは、わたしの幼馴染であり、透の友人でもある。
その”あいつ”を含めた3人で、夏休みの課題をしようというのが、今日透がここに来た理由なのだ。
ちょうどその話をしかけたところで、チャイムも鳴らさずにドアを開ける人物が1人。
藤真健司。彼がその、話題の”あいつ”である。
「あ、わりー遅れた?」
「いや、俺も今来たところだ。お前、さすがにチャイムくらい鳴らせよ。」
「そんなのいらねぇだろ。な、美奈子。」
こんなにふてぶてしくうちに出入りするのは、幼い頃から家族ぐるみで仲の良かった健司くらいのものだろう。
うちの家族も、健司が勝手に家に上がり込んでいてもなにも思わないし、わたしもそれくらい気軽に健司の家に出入りできてしまう。
そんな健司とわたしの関係を、いつも離れた視点でみているのは透だ。
「健司はずっとこうだから、今更言っても直んないよ。見た目の割にこんなだから。」
「だな。ぱっと見優等生と思いきや、俺たちにグループ課題の相手を頼み込んでくるほどだしな。」
「別に良いだろ…。これやりゃ、ちょっとは内申点上がるって言われたんだからさ。」
「まあ、玄関で話すのも何だし、」と、上がってもらうように促す。
2人とも何度も来たことがあるので、案内しなくても迷いなく、わたしの部屋へと進んでいく。
そういえば、透と付き合い始めてから健司がうちにくるのは、初めてかもしれない。
一応気をつかわれていたのかもしれないということに、今になって気がついた。
氷をなみなみいれたグラスに麦茶を注いで、部屋に行くと、すでに課題になっている資料を広げている2人がいる。
狭いテーブルの上に広がったルーズリーフを避けつつ、グラスを置くと、透が少し目線を上げて「サンキュー。」と言った。
それからの2人の集中力には、ちょっと驚いた。
こんな風に友達同士なんかで集まると、大抵は雑談してしまって進まないことが常なのに、真剣に課題に対する問題点を洗い出している。
わたしはというと、その入っていけないほどの2人の雰囲気に圧倒されながら、時折求められる意見におぼつかなく返事するので精一杯だった。
「…大分まとまったかな。」
「だな。あとは最後に、これからの展望とか書いて付け足せば、かなりいい線いくんじゃねえか?」
気づけば2時間ほど経っていて、健司はすこし伸びをした後に、すっかり氷の溶けてしまった麦茶を飲み干した。
「2人ともすごい…。わたしほとんど、言われた通りにメモすることしかしてないよ。」
途中あたりからすっかり話についていけなくなったわたしは、ルーズリーフに2人の言ったことをまとめる役に徹していた。
「いや、美奈子がうまくまとめてくれたから、助かったよ。俺は文章まとめるの得意じゃないし。」
透がすかさずフォローをしてくれたので、内心ホッとしていたのに、健司が横やりを入れる。
「字はあいかわらず汚いけどな。」
「うっさい、健司。」
いつもの調子で小突くと、すべてわかっていたというように避けられる。
そんなやりとりを、透はメガネの奥で薄く笑みを浮かべて眺めていた。
透と付き合うことになったのは、紛れもなく健司つながりだった。
元々幼馴染の健司と、その友達の透。そんな3人で過ごすこの時間に、わたしはこのうえなく幸福を感じる。
いつまでも、こんな風に3人でいられたら…。そして、透ともずっと一緒にいられたらいいのに。
「もうお昼かあ、おなか空いたね。」
「だな、なんか食いに行く?」
時刻は12時もとっくにすぎて、13時になろうとしていた。
集中しすぎていたせいか、今になって空腹であることに気づく。
「雨かあ…。」
レースカーテンの奥を確認すると、やはり雨は止んでいない。
それもそのはずだ、今日は天気予報で一日雨だと、めずらしく断言されているのだから。
「俺、コンビニでなんか買ってくるよ。美奈子を濡れさせたくないしな。」
そう言って、迷いなく透が立ち上がる。わたしの部屋が小さく見えてしまうほどの長身が、すらりと伸びる。
わたしが以前、雨の日は前髪がうねるからイヤだと言ったことを、きっと覚えていてくれたのだろう。
「サンキュー花形。俺はなんでもいいぜ。」
「わかった、美奈子は?」
「じゃあ、わたしはパスタがいいな。」
了解、と低く綺麗な声で言うと、そのまま部屋を出て行った。階段を下る音が、だんだん小さくなる。
久しぶりに健司と2人きりになる。
今までなら気にもしなかったことなのに、健司が妙に無言だから、調子が狂う。
いつもなら、わたしも健司もそれぞれ好き勝手にスマホをいじったり、寝転がって漫画を読んだりしているのに。
それもこれも、透と付き合いだしてからすこし変わってしまった健司との関係性に、じわじわと気づかされてしまったのが原因だ。
「花形とはうまくやってんの?」
唐突な質問によって、不穏な空気が破られる。
「うん、まあ。フツーだよ。ウチの家族とも仲いいし。」
「ふーん、そう。良かったじゃん。」
「うん…。うちの弟とも、仲良くしてくれるしね。」
「そういや弟、今日はいねえの?」
「ああ、言ってなかったっけ。なんか中学入って部活始めてさ。野球部なんだけど、朝から夜まで練習みたい。」
「俺らの中学って、謎に野球部厳しかったもんな。強くないクセに、変に力入っててさ。」
「わかる、顧問がアレだもんね。」
ははは、と笑い合うと、そこにはいつもの健司がいて安心した。
そうだった。こんな風だった、わたしたちは。
小中高とずっと隣にいた健司に距離を感じるなんて、わたしらしくないし、そんな自分自身が寂しかった。
変わらないでいることがこんなに難しいのだと、透と付き合ってから初めて知った。
これから健司にもし彼女ができたり、お互い結婚すれば、今よりもっと「幼馴染」は遠のいてしまうのだろうか。
考え込んでうつむいていると、散らかった机の上を整理する健司が目に入る。
その仕草をぼんやりみていると、さきほどまでは気づかなかったものに五感を奪われ、ハッとする。
「健司、なんか透の匂いする。」
「え?」
健司の方に身体を近づけてみると、ふわっと香る、嗅ぎ慣れた透の匂い。
なぜ彼からするのだろうと、頭の中が混濁する。
「ああ、このTシャツ。部活んとき花形に貸して、昨日返ってきたんだよ。洗濯してくれたから、その匂いじゃねえの?」
「そっか。この匂いって、透んちの洗剤の匂いだったんだ…。」
なにも考えずに健司の肩に鼻を近づけると、バスケで駆使されて意外にもゴツゴツとした手で、身体をひき離される。
「必要以上に、近寄んな。花形が誤解する。」
「あ、ごめん…。」
距離感を間違えていたことに気づき、急に恥ずかしくなる。
健司はわたしのことを考えるのと同時に、透のことも考えているのだ。
わたしにとってはただの幼馴染だけど、健司にとっては親友の彼女でもあるという事実が、単純だったわたし達の関係をいまさら複雑にさせていた。
3人で過ごすという取り合わせによって、今日は健司との間に、妙な溝を感じまくっている気がする。
「あ、わり、キツく言いすきた。」
「いや、わたしもごめん。」
「つうか、お前も花形の匂いするから。ずっと思ってたけど。」
「え、そうなの?」
言われて、着ている服を嗅いでみるものの、自分ではよくわからない。うちの柔軟剤に混ざり、太陽に干された衣類の匂いがするだけだ。
「今が、とかじゃなくて、ずっとだよ。学校で会うときとかも。」
「本当に?全然気づかなかった。」
「あんだけ四六時中くっついてちゃ、匂いもうつるだろ。」
「そ、そんなにくっついてません!」
幼馴染に彼氏とのやりとりを見られていたと思うと、急に気恥ずかしくなり、つい言葉が強くなる。
しかしすぐに健司から、
”ムカつくからいちゃつくんじゃねーよ”
とでも返ってくると思って身構えていたのに、そのツッコミは一向に向かってこなかった。
不機嫌そうな顔で、黙り込んでいる。
これは冗談でもなんでもなく、本当に不機嫌なときの顔だ。
こういうときは幼馴染のわたしでも、正直焦る。
「健司…?」
そのふてくされた横顔に話しかけてみると、長いまつげは閉じられ、はあ、と大きくため息を吐いた。
「…わりぃ、俺疲れてんのかな。」
「うん…かもね。バスケ部の練習、キツそうだし。」
「だよな、相当疲れてるわ、俺。」
そういいつつ、わたしの目をじっと見つめる彼との距離は、じりじりと近くなる。
先ほどわたしが近づいたぶん離された距離を、今度は健司が埋めてくる。
「…ちょ、近い。」
「花形が誤解する?」
「うん、する。」
幼馴染といえども守られていた一定の距離が、いとも簡単に破られる。
抱きしめられる、と思ったのもつかの間。
健司の顎が、そっとわたしの左肩に乗せられて、彼のうなじが横目にうつる。
うなじの形まで整ったその男は、耳のすぐ横で問いかける。
「匂いがうつるくらい、あいつに近づいてんの?学校でも…。」
「そんなこと…!」
「抱き合ったり…キスとかさ…。」
「…っ」
消え入りそうな声で言われて、戸惑う。
なにより戸惑っているのは、健司の栗色の髪がまとうシャンプーの匂いと同時に、彼の着ているTシャツから漂う、透の匂い。
そのふたつが混ざり合って、わたしの罪悪感はますます増長されていく。
「っ、ほんとに近い、健司…」
「ずっとイヤだった。お前から、この匂いがするのが…。」
引き離そうとすればすぐにでもできてしまうだろう。
現に健司はわたしを腕で抱えても居なくて、ただ肩に顎を乗せているだけだ。
そんなに無防備な体勢であるにも関わらず、わたしは彼をハッキリと拒絶できないでいる。
「お前が花形に抱かれるって想像しただけで俺、おかしくなりそう。」
「やめて、それ以上言わないで。」
この先を聞いてしまうのが怖くて、強い口調になる。
しかし続けようとした言葉も、彼のやわらかい唇で塞がれる。
透とはちがう男の人の、唇。
触れる唇の角度も、柔らかさもちがう。
「ん…。」
小さく抵抗してみると、懐かしいようで怖いようでもある、彼の閉じられたまぶたがゆっくりと開く。
唇のぬくもりが離れると、目の前にはわたしの知らない健司がいた。
「なんで…」
「なんでって…なんでだろうな。」
「からかわないでよ。」
彼のことが急にわからなくなり、ただ見つめ返すことしかできない。
すると健司は弱々しく笑い、
「大丈夫だよ。ここまでしたくせに、お前のこと抱きしめる勇気もないんだぜ、俺。」
そう言って体を離すと、元座っていた場所にもう一度座り直す。
雨の音はあいかわらず狭い部屋にこだましている。
さきほどより強くなったかもしれない。
バクバクとうるさい心臓を収めようとするも、わたしの呼吸は、まだ誰からも教わっていないかと思うほど下手くそになっていた。
「…健司ってさ…わたしのこと好きだったの?」
「なわけねーだろ、バカ。」
恥ずかしさを飲み込んで聞いたのに、すでに健司は何事もなかった様に、普段どおり飄々としていた。
「ば、バカって…!健司がさっきまで…」
「さっき?なんかあったか?」
その目をハッキリと捉えてみても、先ほどのような彼の陰はどこにもない。
ただあるのは、見慣れた幼馴染のいつもの顔だった。
続く言葉を探していると、そのタイミングで階段を上がってくる音が聞こえる。
それがだんだんと大きくなると、部屋の扉が開けられた。
「悪い美奈子、勝手に上がらせてもらったぞ。」
「いいよ、全然。おかえり、透。」
戻ってくるなり透が、ビニール袋から買った物を取り出して並べていく。
雨がよく降っていたのだろう、透の肩も足下も少し濡れていた。
「…ありがとう。」
「サンキュー花形ー。俺もう腹減った。」
「はいはい。午前中アタマ使ったし、甘いものも買ってきた。」
「気が利くじゃん、デザートなんて。あ、俺これがいい。」
さきほどまでの出来事が本当にわたしの白昼夢だったのではないかと思うほど、完璧に健司は”いつも通り”だった。
その光景をどこか人ごとのように眺めてしまい、なかなか輪に入っていく気持ちになれない。
わたしだってバカじゃない。それに、健司のことは昔からよく分かってる。
健司の本音は、きっと…。
だけど気づいたところでわたしにはどうすることもできない。
それを彼自身も、わかっているのだろうか。
つい数分前までぬくぬくと感じていた居心地のいい関係が、バラバラと崩れてしまったような、そんな暗い感情が心に覆いかぶさる。
「美奈子?どうかしたか?」
ふいに透に話しかけられる。
返事をする声が不自然にならないように、意識しながらわたしも笑う。
「え?別に?ちょっと疲れただけだよ。」
「そうか、でも課題はまだ終わってないからな。飯食ったらまた、再開だ。」
「そうそう、俺らまた明日から部活だから。今日しか集まれる日ないんだぞ。」
「…だね、うん。食べたらわたしも頑張るよ。」
あんなことがあったというのに、透の前でこうして笑っている今のわたし。
そんなわたし自身が、健司より誰より、一番怖かった。
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