あなただけ見つめてる
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「……行ったみたい、ですね」
安堵の息をつくなまえに向かって伊武はひとつ頷くと「とっとと部室に帰るよ」とだけ言って再び扉に手をかけた。しかし扉はびくともしない。どうかしたのだろうかと一瞬疑問に思って、すぐになまえは4月に体育教諭から聞いた言葉を思い出した。
『この倉庫は閉め忘れを防ぐ為にちゃんと閉めたら中からは開かないようになってるから、片付ける時は気をつける事!』
「みょうじ、携帯で誰かに連絡して」
「携帯カバンの中です。先輩は?」
「持ってるわけないだろ、部活中だったんだし」
「……すみません。私の、所為ですよね」
「元はと言えばそうだね」
ったくさあ、なんだんだよもう。踏んだり蹴ったりってこういう事だよなぁ……俺なんかした?何もしてないよね?なのになんでこんな目に合うんだよ……。
ぶつぶつと聞こえる伊武の声がチクチクとなまえの心を小さな針で刺していく。さきほどから何度も我慢してきた涙を、今度こそ流さずにはいられなかった。困らせたくない。迷惑なんてかけたくないのに。そう思うほど悲しい気持ちが涙に溶けて流れ出る。
「はあ? なんで泣くわけ?」
小さな嗚咽が聞こえて訝しげな顔で伊武は振り向き、予想外の光景に目を丸くした。
伊武の想像するなまえはいつだって少しうるさいくらい元気で、無駄にニコニコと笑っていて、伊武が嫌味ったらしくボヤいていると舌を出して反撃してくる姿なのに。目の前にいる彼女にいつもの煩わしさの欠片もない。
「だ、だってっ、」
「めんどくさいなぁ」
「っ、すみま、せん、!」
「……まぁまだ部活中だったし、すぐに誰か気付いて探してくれるだろ」
だから泣きやめよ、ほんと、メンドくさい。
そう言って伊武はぎこちなくなまえの頭に手を置き、小突くように軽く押した。なまえの頭を包み込んでしまう伊武の手は彼女の想像よりも大きく、ゆっくりと温もりが伝わってくる。
こんなに迷惑をかけてるって分かってるのに、こんな事言ってる場合じゃないって事も分かってるのに、それでも、
「好きです、伊武先輩……大好き」
口では辛辣な言葉を投げかけてくる癖に、本当は優しい伊武先輩が、大好きなんです。
首まで顔を赤くしながら、消え入りそうな涙声でなまえは伝える。つい先ほど拒絶されてしまったのは分かってるけれど、自分ではどうする事もできないこの気持ちが苦しくて、もうどうしようもなかった。
ずるずると座り込むなまえを見下ろした後、伊武は何の感情も表に出さず彼女の隣にしゃがみこんだ。両手で覆われたなまえの顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていて、こんな表情をさせているのは自分なんだと思うと―――― 彼の心の底で湧き上がったのは、どろりとした暗い歪みを含んだ歓喜だった。
「……俺は、みょうじが思ってるような奴じゃないよ」
ようやく顔を上げたなまえは目を丸くしている。肩を強く押し、倒れた彼女の上に覆いかぶさった。
「伊武、先、輩……?」
「俺の事を“文句が少し多いけどなんだかんだ優しい先輩”だと思ってるなら大間違いだ。俺はアイツらとそんなに変わらない。……みょうじにこう言う事したいと思ってる」
なまえの両手を頭の上でまとめ、左手で押さえつける。セーラー服の裾からチラチラと覗く白肌に右手を這わせるのは先ほどの不良たちと何ら変わりがなくて、吐き気にも似た興奮を覚えた。
本当はなまえの事がずっと好きだった。校舎裏の空き地をテニスコート用に整備していた時に杏に連れられてやってきたなまえの、屈託がないのにどこか色気のある笑顔からいつの間にか目が離せなくなって、他のみんなは「いつもの事だ」と流す伊武のボヤきにもいちいち反応する姿が見ていて楽しくて。
けれど元々感情を表に出すのが得意でない伊武がその恋心を自覚したところで、彼にできたのはそんなもの存在しないかのように振る舞うことだけだったのだ。
そうこうしている内になまえは部内でも可愛がられ始めて、なまえもまんざらでない様子でそれを受け入れて。なまえへの気持ちは嫉妬や焦燥と溶け合い、いつの間にかドロドロと黒く煮詰まっていた。
「みょうじの事をイジる奴は神尾ですら殺したくなる。お前の事をいじめるのは俺だけで良い。……本当は閉じ込めて俺だけのものにしたいけど、こんな気持ちバラしたくなかったから避けてきたのに」
我慢できなくなったのは、全部お前の所為だよ。
低い声がなまえの耳元で囁かれる。吐息が首筋を撫でていき、胸の奥がゾクゾクして熱くなった。伊武の右手がなまえの身体に触る度に電流にも似た感覚が全身を駆け抜けていく。
こんなの、知らない。恋ってもっとドキドキして楽しくて、両思いは暖かい気持ちになれる素敵なものだと思っていた。なのに今目の前にいる「なまえが好きだ」と言ってくれる先輩は、なんだか怖い。不良に触られた時とは全然違う、先輩からもたらされるこの身体の熱さが、怖い。
とても怖いけど、でも、
「……それでも良いです。私、伊武先輩のものになりたい」
まるで危険な麻薬のように、一度触れたこのゾワゾワとした感覚を手放す事なんてできなかった。
「……本当にバカだね、なまえは」
最後に聞こえた伊武の声はいっそ悲痛にすら聞こえて、目を閉じれば、なまえはもう何も分からなくなった。