あなただけ見つめてる
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「みんなー! そろそろ切り上げないと、最終下校時刻過ぎちゃいますよ!」
太陽が地平線を目指す頃、なまえはテニスコートに向かって叫んだ。彼女が呼びかけた相手―――― 男子テニス部の面々がなまえの方を振り向き、経過した時間の長さに驚きの声をあげる。今日は受験生である橘が週に1回部活に顔を出してくれる日だったので、みんなも張り切っていたのだろう。
杏について男子テニス部に顔を出している内に、なまえはいつの間にはマネージャーのような位置に落ち着いていた。最初はただみんなに頑張ってほしくて、それで時間が空いたらテニスの相手をして欲しいと思って始めた雑用だけれど。今ではそれが楽しくて仕方ない。
「おうみょうじ、お疲れ!」
「神尾先輩お疲れ様です!」
「なんだか部室が綺麗じゃないか?」
「桜井先輩気付きました? なんと今日は大掃除したんですよ!」
そして今日も部室の前で部員たちが集まってくるのをタオルを持って出迎える。タオルをそれぞれに渡すと彼らもなまえに一言声をかけていった。
最後にやってきた人物はテニスコートに不備がないか確認していた桔平だ。
「いつもすまないな」
黙っていれば怖いくらいの端正な顔に人の良さげな表情を浮かべて、彼はタオルを受け取る。なまえは正式なマネージャーというわけでなくボランティアでやっている立場なので、桔平も申し訳ないという気持ちが強いのだろう。
「いえ、お兄ちゃんがいっぱいできたみたいで楽しいです」
しかしなまえは屈託のない笑顔を浮かべて首を振った。彼女の様子に桔平も思わず顔が綻び、頭に手を置いてぽんぽんと軽く撫でる。そしてなまえもそれを受けてさらに嬉しそうにするから、他の部員も寄ってきて同じような顔で同じように彼女の頭を撫でていくのだった。
「みょうじは偉いなぁ」
「えへへー、ご褒美に波動球教えてください、石田先輩」
けれど、その輪に加わらない部員がひとり―――― 伊武だ。彼はわざわざなまえを避け、自分のカバンから私物のタオルを取り出す。
「みょうじが波動球打っても、その細腕じゃさざ波にもならないんじゃない?」
「伊武先輩ひどいですよー!」
「ウルサイなぁ……本当のことだろ? だいたい掃除した事と波動球は関係ないし、そもそも掃除なんて誰も頼んでないし、あと着替えるんだから出てって欲しいんだけど……」
伊武の声は次第に小さくなっていったが、不思議と声量に関わらず全員の耳に届いてしまう。その場にいたなまえ以外の全員が苦笑を漏らしつつも、伊武がこうやってボヤくのはいつもの事なので彼らもまた何事もないかのように自分たちの荷物を片付け始めた。
けれど、面白くないのはボヤかれているなまえだ。彼女は不満そうに口を尖らせながら部室を一歩出る。
「じゃあ校門で杏ちゃん待ってますよーだ」
「え、杏ちゃんまだ帰ってないのか!?」
伊武への嫌味のつもりの言葉だったが、過剰に反応したのは神尾だった。神尾の杏への想いはなまえもなんとなく勘付いていたので、ひとつ頷く。
「杏ちゃんは委員会があるから部活はお休みだけど、一緒に帰る約束をしてるんです」
「それじゃあ俺も「じゃあお先に失礼しまーす!」
けれど彼の恋心を察するのと、協力してあげるのはまた別の案件で。
神尾の声が聞こえていたのかいなかったのか、遮るようにしてなまえは明るく声をあげ、部室の扉を閉めてしまう。宙ぶらりんの言葉を言い終えないまま、虚空に手を伸ばす神尾を気にする部員などいなかった。
一方部室から出たなまえは扉の傍に置かれたゴミ袋を掴む。掃除をした時にこれだけのゴミが出たので、校門に向かう時に出してしまおうとまとめておいたのだ。
不動峰中のゴミ集積所は校門から外れた一角にある。普段は用事のある生徒しか通らず人気もない所だけれど、今日は違った。フェンスで閉ざされた入り口の前に、学ランをだらしなく着た生徒がしゃがんでいたのだ。学年は分からないが、見かけからして先輩だろう。
「……あの、」
なまえは彼に声をかけたが返事はなかった。熱心にスマホを覗き込む彼の耳にはイヤホンが差し込まれていたのだ。「あの!」と今度は強めの声を出す。ようやく彼が顔を上げた。
「ンだよ」
「邪魔なんですけど」
「はあ?」
「ゴミ出しをしたいので、そこを退いてください」
彼は立ち上がり、なまえを威圧的に睨みつける。ここまで剥き出しの敵意を受けるのは初めてでなまえは思わず怯みそうになった。けれど自分は何も間違った事を言ってはいない、とその場に踏みとどまる。その態度が気に入らなかったのか、彼はますます顔を歪めた。
「お前1年だろ? 先輩への口の利き方がなってねえんじゃねーの?」
それだけ言って彼はおもむろに拳を振り上げた。
殴られる!―――― なまえは咄嗟に目をつぶる。けれど想像していたような衝撃はいつまで経ってもやって来なかった。
恐る恐る目を開けると、視界に飛び込んできたのはいつもなまえが内心羨ましがっているカラスの濡羽のような黒髪で。
「先輩、テニス部辞めて、こんな所で何やってるんですか」
「伊武、てめえ!?」
伊武がなまえの前に立ち、先輩の拳をつかんでいたのだ。
突然のことになまえの頭は混乱していた。でも、なんで、そんなはずない。だって伊武先輩はいつも私にだけ意地悪で、面倒事が嫌いで。だからこうして助けてくれるなんて、想像すらした事なかったのに。
「みょうじ、橘さん呼んできて」
「でも、」
「早くしろよ、トロいな」
「は、はい!」
パタパタとなまえは校舎の向こうに消えていく。それを見届けつつ伊武は視界の端で襲いかかって来るもうひとつの拳をサラリと避け、反動でよろめく彼の胴体を踏みつけるような蹴りを入れた。力加減をしなかったので、彼はそのまま校舎の壁に放り出される。伊武は更に彼の肩に足を乗せた。
「どうせ喧嘩なんでできないだろうと思ってました?……心外だなぁ、“あの時”は橘さんに手を出すなって言われたから耐えてただけで、俺だって別に弱いわけじゃないんだけどなぁ……」
なんてボヤきながら、伊武は彼の肩をぐりぐりと踏みつける。痛さもあったがそれ以上に、以前はいくらでも好きなようにこき使えていた部活の元後輩に逆らわれて、彼は複雑な感情に顔を歪めていた。
「くそっ、なんなんだよ!?」
「何って」
腰を折り曲げ、彼の耳元に顔を近付ける。
「アイツをいじめて良いのは俺だけなんで」
いつもの平坦なボヤき声とは違う、周囲の人間が聞いた事もないような低い声でそれだけ言うと、彼の肩に乗せていた足をあっさりと退かしてその場から立ち去ったのだった。