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運命なんて、信じているつもりはなかった。
アラームが容赦なく鳴り響く朝。重い頭を抱え、再度まぶたを閉じたいという欲望を振り払って、ベッドから這いずり出る。
顔を洗い最低限の化粧をして、スーツのジャケットに袖を通せば。あっという間に平凡な会社員が出来上がる。
窓越しの天気は雨。パンプスを足先で掬い上げ、傘立てから傘を手にとった。その色に見ないふりを決め込んで。
慌ただしくドアを開けて一息つく。今日は涙を零すことなく支度ができたことに、安堵を覚えながら。
――私は、一ヶ月前に別れた恋人を未だに忘れられずにいる。
駅のホーム。電車を待つ人の列。その最後尾に並ぶ。
他の人々と同じように、顔の表情筋が死んでいるのが自分でもわかる。
片手に持ったスマートフォンの画面で、タイムラインを見つめながらぼんやりしていると。また彼を思い出す。
付き合ったきっかけは何だったっけ。……嘘だ。よく覚えている。
軽音部の先輩だった私と、後輩だった彼。学生時代はそれほど仲が良かったわけじゃない。幾度か言葉を交わした程度だ。寡黙にベースを弾き鳴らす彼とは、違うバンドに所属していたし。
だけどそれから数年後。部活の同窓会で再会し、偶然にも隣の席だった彼の、以前より静謐で、それでいてどこか棘のある雰囲気に惹かれて。何回か逢瀬を重ねるうちに付き合うことになった。
――ああ。忘れたはずが思い出す、その繰り返しだ。
目を瞑ればまぶたの奥に思い出す真紅。その鮮やかさは未だ、私の頭から離れてくれない。
電車のドアから排出される。会社の最寄り駅に着いてしまった。
人の波に流されながら重い足を引きずる。
改札を出て、混雑する駅構内を一瞥して――目を瞠った。
先程まで夢想していた後ろ姿が、いるはずのない人が、そこに立っていたから。
一瞬のうちにフラッシュバックする思い出。デートした水族館で見たイルカショー。お酒を飲んだ帰り道、支えてもらって歩いたっけ。他にもまだまだ沢山ある。
彼が稀に見せる微笑が、たまらなく好きだった。煙草の匂いも、筋ばった手も、低い声も、それから――。
胸が一気に苦しくなって、全身を切り刻まれるような痛みに襲われる。
「いお……」
思わず呼んだ名前は、そこで途切れた。
だって。そこに居たのは、彼とは似ても似つかないサラリーマンだったから。そっくりなのは髪型ぐらいで、その顔も背格好も、他人の空似にすらならない別人だった。
「……はは」
その場に立ち尽くした私は、力なく自嘲する他なかった。なんだ、やっぱり。まだ全然駄目じゃないか。
彼が迎えに来てくれた、だなんて。一瞬でも考えた自分が馬鹿みたいだ。
――ずっと一緒にいるはずだった。なのに繋いだ手は振り払われて、お互い別々の道を歩いている。
いや、それどころか私は最初の一歩を踏み出すことすらできていない。酸素が足りなくて、呼吸すら儘ならなくて、だから。
きっと永遠に待つのだろう。あの男のことを、ひとりで蹲ったまま。
もう一度、いおりと心のなかで呟いて。私は会社に向かって歩きだした。
彼の髪色と同じ、赤い傘を片手に――頬を伝う涙には、知らないふりをしながら。
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